第三話「二つの街区——数字は祈りより口が悪い」
三十日間の検証期間が明け、三十一日目の朝。王都浄化局の局長室には、凍りついたような沈黙が流れていた。
机の上に広げられた下町の二つの地図。その上には、毎日バルト医師の診療所から届けられた記録を基に、財務主計官セドリックが引き直した青い線と赤い点が刻まれている。
「集計が出ました」
セドリックが、羽ペンを置いて眼鏡を直した。その声には、冷徹な事務官の響きの中に、隠しきれない驚きが混じっている。
「エルシア聖女の担当した西街区——新規患者率は、検証開始前の基準値に比べて九割減。実質的な祟りの終息です」
私の隣で、人足の泥を被ったまま立っていたガロ親方が、低く鼻を鳴らした。
「そら見ろ。人足を叩き起こして毎日泥水を運び、側溝の勾配を整え、泥を浚った成果だ」
「……ですが」
セドリックが、もう一つの地図を指し示した。
「ルシアン局長の担当した東街区——魔導浄化陣の設置と浄化札を配った街区もまた、新規患者率が四割減となっています。こちらも確実に減少している」
机の向こう側で、腕を組んでいたルシアンが、ふっと笑みを浮かべた。
「四割減。……魔導が、完全な空振りじゃなかったのは確からしい」
わずかに安堵したような笑顔に、私は静かに革装の工事記録簿を開いた。
「引き分けではありません、殿下。東街区の四割減もまた、私の仮説——水を替えれば病が減る、という事実の証明です」
「……どういう意味だ?」
ルシアンの笑顔が消え、金色の眉が不審そうにひそめられた。
私は記録簿の三十日間の給水・実測データをルシアンの前に突き出した。
「これは、東街区で盛大な浄化陣の設置と、浄化の儀式が行われた期間の記録です。この十日間、浄化の効力を定着させるという魔導上の措置のために、広場と周囲の共同井戸は魔導結界で立ち入り禁止になりましたね。その間、東街区の住民はどの水を使いましたか?」
「それは……広場に入れないんだから、一時的に水売りから水を買うか、局が手配した水槽の水を配給するしかない。だが、結界が解かれたあとは元に戻ったはずだ」
「いいえ、戻りませんでした。こちらの給水記録と、住民への聞き取り記録を見てください。結界が解かれたあとも、住民は「祟りが消えた証拠の水」が広場の水槽に満ちるまで、井戸水を敬遠しました。水売りはその不安に乗じて樽水を売り続け、住民もそれを使い続けました。この「安全な水を使い続けた」期間と、東街区の新規患者率が四割急減した期間が、完全に重なっています。ルシアン殿下が結界で井戸を塞ぎ、代替水を配給させたからです」
ルシアンは目を見張り、私の突き出した記録簿と地図を交互に見つめた。
「魔導が井戸を浄化したのではありません。あなたが物理的に汚染された井戸を塞いだため、住民が安全な水を飲み続けることになった。魔導浄化の成果とされた四割の減少は、その実態のない光ではなく、ただの樽水によるものです」
局長室に、再び沈黙が降りた。
セドリックが眼鏡の奥の目を細めて地図を凝視し、ルシアンは口元に手を当てたまま動かない。
やがて、ルシアンは深く息を吐き出し、椅子の背にもたれかかった。
「……やられたな。君は、敵の戦果まで自分の証拠にするのか」
「敵ではありません。技術的な検証です」
「負けだ」
ルシアンは潔く両手を上げ、苦笑した。
「予算は譲る。……君の言う『水を替える』方へ」
「ありがとうございます、殿下」
初めて、自分の主張が翻訳されず、数字のまま相手の脳に届き、認められた。その喜びに私の胸が少し温かくなった。
だが、壁際に立つ財務官の冷ややかな声が、その熱を即座に奪い去った。
「予算を譲るのは結構ですが、局長。現時点で、西街区の代替給水にかかった費用が、当初の予算の二倍に膨らんでいます。このままでは、予算を譲るどころか、検証そのものの支払いで浄化局が赤字になりますよ」
「なぜですか?」
私はセドリックに向き直った。
「人足の数も、樽の量も、約束通り最小限に抑えていたはずです」
「水そのものの価格です」
セドリックは収支表の束を指で弾いた。
「樽水商人のダールトンが、下町の祟り騒ぎで水の需要が高まったのをいいことに、樽水の価格を釣り上げました。平時は樽一杯で銅貨五枚だったものが、ここ数週間で十枚へ値上げされています。このままでは、下町の配管更新どころか、明日からの代替給水すら続けられません」
「平時の二倍……」
私は拳を握りしめた。
そんな高値では、浄化局の運営費が底をついてしまえば、下町の貧しい人々は再び汚染された共同井戸の水を使い始めてしまう。そうなれば、九割減った患者がまた元に戻るだけだ。
「セドリック様」
私は彼を見据えた。
「この分布図と、もう一枚の耐用年数の収支予測を見てください。配管の更新には、初期費用として金貨数枚分の投資が必要です。ですが、一度管路を敷設し、大聖堂から自然の勾配で水を引けば、その後の維持費は人足の点検費用だけになります。ダールトンの高い樽水を毎日買い続ける費用と、十年間配管を維持する費用を比べてください。どちらが真に『無駄』ですか」
セドリックは、手渡された数枚の紙をじっと見つめた。そこには、点の地図が描き出す「水と病の因果関係」と、正確に計算された将来のコストの対比が、冷徹な数字で並んでいた。
「……なるほど」
セドリックの目が、財務官としての鋭い光を放った。
「この地図は、予算書より雄弁だ。初期投資は大きいが、十年のスパンで見れば、毎日ダールトンの樽水を買うより遥かに安上がりになる。主計官として、長期的に損失を垂れ流す事業より、この初期投資を認める方が論理的です。わかりました。ダールトンの利権に毎月金を払うのは財務院のプライドが許しません。浄化局の魔導予算を削り、正式に配管更新の予算として計上しましょう。私が立会人から、あなたの計画の出資者に回ります」
セドリックは眼鏡を押し上げ、私に釘を刺すように人差し指を立てた。
「ただし、予算は計上しますが、大聖堂の聖遺物である聖槽や本管に手を加える工事の許可は、別に大司教から得てください。財務院は財布の鍵を開けるだけです。教会の鍵までは開けられません」
「わかっています」
実務を数字で測る強力な味方が、もう一人加わった。
---
だが、その日の午後に大聖堂へと戻ると、私を待ち受けていたのは別の「壁」だった。
大聖堂の広場には、大々的に教会の布告が掲げられていた。
『聖女エルシア様の御手より放たれし大聖堂の聖水は、西の街区を遍く潤し、祟りの黒霧を九割がた霧散せしめたり。これぞ大いなる奇跡の勝利なり』
私は頭痛を覚えながら、後見人であるグレゴール大司教の元へと向かった。
「猊下、違います。水を替え、側溝を清掃した統計の成果です。奇跡ではありません。配管です」
私の進言に、同行していた助祭が目頭を押さえて感極まった声を上げた。
「おお……なんという慈悲深きご謙遜! 『汚れた溝を払え』とは、人々の心の曇りを払えとの尊き訓え……! 奇跡とは配管を通すことなりと、聖女様は説かれるのですな! 全王都にそのように広めましょう!」
「違います。本当に、泥を浚って水を通しただけです」
「ああ! 水を通すとは、人々の信仰を滞りなく流すこと……! なんと深遠なる比喩!」
私の言葉は、今回も完全に「崇拝」という名の分厚いクッションに吸い込まれて消えた。私は深くため息を吐き、これ以上の訂正を諦めた。水が届くなら、名前はどちらでもいい。今はまず、配管を更新するための具体的な図面を引くことが先決だ。
---
その日の夕方、大聖堂の私の私室に、見慣れない上等な衣服を着た男が訪ねてきた。
男は貴族の紋章が入った書状を携え、切迫した様子で頭を下げた。
「聖女様、どうか我が主のお嬢様をお救いください。下町の祟りが、ついに貴族街の我が屋敷にも及んだのです。お嬢様が急に寝込まれました」
「症状は? 下町と同じく、急な高熱と下痢ですか?」
「いえ、熱はありません。ただ、顔が青白く、激しい腹痛を訴え、手が痺れて動かないと……」
私は眉をひそめた。
高熱も脱水もないのに、顔が青白く、腹痛と手の痺れ。
——それは、下町の灰熱とは、まるで違う症状だった。
私は工事記録簿を開き、羽ペンを走らせた。
*本日、下町検証終了。西街区、新規患者九割減。貴族より新規の相談あり。症状、灰熱と一致せず。*




