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第二話「浄化の光と一枚の地図——検証の条件、承知しました」

 大聖堂を抜け出し、王宮の隅に建つ王都浄化局へと向かう。


 平服の布地は、下町の埃を吸ってすでに灰色にくすんでいた。抱えた布包みの中には、昨夜外した重い鉄の柄が一本。胸元には、革装の工事記録簿が一冊。


 浄化局の庁舎は、新築の割には陰気な石造りだった。役所というよりは、魔導士たちの巨大な実験室のような佇まいを見せている。


---


 局長室の扉の前まで来ると、中から激しい議論が漏れ聞こえていた。


「魔導浄化陣の増設予算? 却下です。財源は有限、無駄な魔法陣に払う金はありません」


「無駄じゃない。下町の祟りを鎮めるための大事な浄化だ。それに、局の実績にもなる」


 最初の声は、王室財務院の主計官セドリック。冷徹な事務処理能力が声の端から滲んでいる。二番目の声は、第三王子ルシアン・オルディア。柔らかい皮肉をまとっているが、どこか焦りの混じった若い声だ。


 私が扉を叩き、受付に「井戸の柄を返しにきた」と告げると、廊下は一瞬にして大騒ぎになった。


「聖女様が、自首をしに……!?」


 驚愕した局員たちに促され、私は局長室へと通された。


 部屋の主であるルシアンは、明るい金髪の、人当たりの良さそうな笑みを浮かべていた。だが、私が布包みをほどき、机の上に置いた鉄の柄を見た瞬間、その笑顔が消えた。


「自首しに来ました。市場裏の共同井戸の柄を盗んだのは私です」


 私がはっきりと告げると、同行していた大聖堂の助祭が目頭を押さえて嘆息した。


「おお……なんという身代わりの慈悲。聖女様は、無実の者を救うため、あえて自らその大罪を被られるのですね……!」


「違います。私が外して、隠していました。盗んだのは私です」


「……いや、そいつ本当に盗んでるぞ」


 ルシアンが机に両手をつき、冷めた目で突っ込んだ。


 この国で初めて、私のしたことをそのまま「犯罪」として認識してくれた人間に出会った。その奇妙な感動に、私の心臓が少し跳ねた。


---


 人払いが行われ、局長室には私とルシアン、速度と立会人として残ったセドリックの三人だけになった。


「なぜ、井戸を止めた? 祟りを鎮めるのが聖女の役目だろう。水を止めれば、民が祟りに怯えるだけだ」


 ルシアンの問いは、技術者としての私の頭にまっすぐ届いた。


「水が原因だと疑っています」


 私は持参した地図を机に広げた。


「病に倒れた者一人につき、点をひとつ。打っていくと、点が市場裏の共同井戸を中心に渦を巻いていました。だから、この井戸の水に原因があると仮定し、一時的に取水を停止しました」


 ルシアンは地図をじっと見つめた。その目が、書類を読むときの冷たいものに変わる。


「……なるほど。水を替えれば、発症者が減るってことか」


 私は息を呑んだ。


 ——翻訳、されなかった。


 奇跡とも、ご謙遜とも言われなかった。私の言葉が、工学的な意味のまま相手の脳に届いた。


「……通訳のいらない人類が、この国にいたのですね」


「は? 何の話だ?」


 ルシアンは不審そうに眉をひそめたが、すぐに実務的な表情に戻った。


「だが、無断で部品を外した泥棒の言い分を、はいそうですかと公認するわけにはいかない。浄化局の面子もあるからな。それに、浄化局の非常時行政権限なら、井戸の閉鎖は命じられるが、君の言う『代替給水』——大聖堂の聖槽から水を運ぶというのは、教会の管轄だ。大司教が承認するはずがない。教会は祈禱行列に予算を使いたいんだからな」


「大司教猊下へは、私が交渉します」


「それに、予算の問題がある。我々の魔導浄化事業——大規模な浄化陣と浄化札の配布が、下町の祟りを鎮める本命だ。昨日完成した魔法噴水も、局の成果としてすでに稼働している」


 窓の外で、広場の魔法噴水が青白く脈打つ光を放っていた。祟りを払うための浄化の光。美しいが、その光は、地図の市場裏に集まった点を一つも動かさない。


「君の言う『配管の更新』だか『代替給水』だかに予算を割く余裕はない。財務主計官のセドリックは、一つの財布しか認めない」


「その通りです」


 壁際に立つセドリックが、腕を組んだまま頷いた。


「魔導浄化と配管更新、効果の保証がないものに二重の予算は出せません」


「では、検証しましょう」


 私はルシアンを見据えた。


「これは単なる賭け事ではありません。どちらのやり方が真に下町の命を救えるか、実測による証明です。下町の隣接する二つの街区を使い、三十日間の検証を行います。開始前の発症率が近い街区に限り、毎朝、バルト医師の診療記録に新規患者数を記録します。殿下の担当する東街区は、その魔導浄化陣と浄化札で井戸を清めるのですね。だから井戸は開けたままで構いません。私の西街区は、一時閉鎖命令を出していただき、大聖堂から代替給水を行い、側溝を清掃します。新規患者の減少率がより大きかった側の方式を正解とし、セドリック様の予算をすべてそちらに充てるというのはいかがでしょう」


 条件を聞き終えたルシアンは、しばらく地図を見つめた。


「お飾りの局長に、王都の予算を賭けろと?」


 ルシアンは、地図から目を上げた。


「はい。祭壇の飾りからの、正式な提案です」


 ルシアンの目が、初めて面白そうに細められた。


「検証か。魔導の光と、ただの水運び。どちらが本物の祟り対策か、どちらが下町の住民の命を救えるか、数字で白黒つけるというわけだ。……いいだろう、その提案、乗った。ただし、条件がある」


 ルシアンは身を乗り出し、冷たい目で言った。


「西街区への代替給水と側溝清掃に必要な人足、樽、道具の費用は、検証の運営費として浄化局から支払う。そちらの給水量は、局の魔導検査官が毎日記録し、必要最小限の量に制限する。無断で教会の別の水を使ったり、約束の量を超えたりすれば即失格だ。そして——東街区への介入は認めない。俺の浄化の効果を疑って水を配ったりすれば、検証の妨害とみなして即終了にする。結果はすべて下町の広場で公開する。いいな、聖女様」


 東街区の井戸が危険だというのは、まだ私の仮説にすぎない。浄化局長が安全を保証する以上、私に止める権限はない。ならば、せめて数字だけは逃がさない。


「望むところです」


「数字で決めるなら、財務主計官として喜んで立会人になりましょう」


 セドリックが薄く笑った。


「西街区の運営費は、浄化局の予算から執行します。記録しておきましょう。ただし、聖女様。検証に勝ったとしても、水路改修の工事発注権を財務院を通さずに勝手に約束することは認めません」


「わかっています」


 私は頷いた。


 人払いを解き、セドリックがまとめ上げた検証の合意書を整理する。ルシアンが「西街区井戸の一時閉鎖命令書」と、大聖堂に宛てた「検証用給水の正式要請書」に署名した。


 その要請書を受け取った助祭たちは、大聖堂へと走っていった。


 しばらくして、戻ってきた助祭は許可証を掲げて泣いていた。


「おお! 聖女様と局長殿が、下町を救うために聖なる競い合いを……!」


 助祭は許可証を掲げ、さらに声を張った。


「猊下は、聖女様が御自ら水を分けよと仰せだと! 二つ返事でお許しくださいました!」


 違う。これは優劣を競うゲームではない。どちらが下町の命を救うのに適しているか、水が原因であるという仮説を証明するための検証なのだ。


 訂正は、やはり通らなかった。だが、検証の準備は整った。


---


 検証の準備は整ったものの、人足と樽の段取りをしなければならない。


 私はそのまま、下町の土木ギルドへと向かった。


 木屑と錆びた鉄の臭いが漂う作業場で、親方のガロが岩のような手を休めて私を睨んだ。


「西街区の代替給水と側溝清掃を、土木ギルドに依頼したいのです」


「依頼、ね。で、日当は?」


「浄化局の検証運営費から、人足の賃金と樽、道具の費用が支払われます」


 ガロは鼻を鳴らした。


「聖女様の祝福で払うって話じゃねえんだな」


「次の水路改修を私が大聖堂に無断で約束することはできません。ですが、あなたがたの工事記録と働きは、私がすべて記録簿に残します」


「はっ、教会のお偉方に図面も読めねえと舐められて仕事がないギルドだ。確実な金が出るってんなら話は別だが……だいたい、あんたに図面がわかるのか?」


 私は検分杖を泥の上に突き立て、素早く線を引いた。


 すると、ギルドの若い人足たちが一斉にざわめいた。


「おお、聖女様が地面に魔法陣を描かれた!」


「拝め! 祟りが消えるぞ!」


「違います。百分の一の勾配図です。奇跡ではありません。配管です」


「コウバイズ……なんと尊い響き……」


 若い人足たちが平伏し始めるのを、ガロが拳で小突いて黙らせた。


「黙れ馬鹿ども、これはただの管路図だ。……おい聖女、なんでこの図面が引ける?」


「引けます。ここから二百年前の管路が走っているはずです。大聖堂から下町への勾配は百分の一……。ここを歩幅で測ると、三十二歩先に本管の分岐点があるはず。図面はありませんが、本管の位置を当ててみせましょう」


 私は歩き出した。一歩、二歩。


 三十二歩目。泥の地面に検分杖の先を当て、握りの金属部に耳を押し当てる。


 きん、と管内を走る水のかすかな鳴りが、杖の鉄心を伝って骨に響いた。


「ここです。この地下二メートルの位置に、二百年前の本管の継手があります。少し漏水音が混じっています。目地が緩んでいるはずです」


 ガロは眉をひそめ、自分でシャベルを手に取って泥を掘り返した。


 数分後、湿った泥の奥から、土に黒ずんだ古い鉛管と、継手の隙間から滲む水が現れた。


 ガロは立ち上がり、シャベルを放り投げて深く息を吐いた。


「……本当に当てやがった。図面が読める聖女なんぞ、化け物だ」


「化け物ではありません。技術者です」


「どっちでもいい。……気に入ったよ。人足は貸してやる。その代わり、検証には必ず勝てよ、聖女様」


「ありがとうございます、親方」


 初めて、腕で人を測る人間に出会った。その心地よさに、私は小さく息を吐いた。


---


 その日の夕方、浄化局の若手局員が持ってきた詳細な地図を広げ、私たちは決めた東西街区の境界と、給水所の位置を確認した。


 ルシアンは、下町の地図の特定の位置——東街区の古い公衆浴場のある場所を、じっと見つめていた。その目が、一瞬だけ私情に濡れたように見えた。


「どうかしましたか?」


「……いや、何でもない。ただの、昔の記録だ」


 ルシアンはすぐに目を逸らし、冷たい実務家の顔に戻った。


「三十日後、下町の広場で結果を出そう」


「はい。数字で示します」


 私は大聖堂の自室に戻り、革装の記録簿を開いた。


 *本日、浄化局長ルシアン・オルディア殿下と会談。下町検証の開始日を決定。三十日後、下町の広場にて検証結果を公開する。*

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