第一話「沈黙の井戸——ポンプの柄は、私が保管しています」
祈禱行列の先頭で、私は流行の痕跡を数えていた。
軒先の白布、三軒。新しい土盛り、二つ。診療所の前の列、昨日より四人分長い。祈りの文句は十歳のときに覚えたので、口は勝手に動く。目と頭は空く。空いた分は、数えることに使う。
聖女の仕事は祈ることだ。少なくとも私の雇い主——オルディア王国の教会は、そう信じている。
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王都グラールの下町では、三ヶ月前から灰熱の祟りが流行っている。高熱、激しい腹下し、灰色に乾く唇。教会の見立ては祟り。貴族の見立ては「下民の穢れ」。宮廷魔術師の見立ては「呪いの類ではない」。三者三様に立派だが、原因を調べるという発想だけが、誰にもない。
私の見立ては、水だ。
水が原因だと断言はできない。だが、井戸を止めて患者が減るなら、次に調べるべき場所は絞れる。
私はエルシア、十五歳。「初代聖女エルネスタの再来」として五年前に列聖された、この国の現役の聖女である。
前世は水橋汐里、二十九歳。水道局給水部配水課、技術職員。五歳の日に村の井戸へ落ちて、二十九年分の記憶が戻った。井戸の底で最初に思ったことは「助けて」ではなく「側壁の目地が傷んでいる」だった。魂の配属先は、生まれ変わっても変わらなかったらしい。
井戸に落ちた日から十年、私は訂正し続けている。村の涸れ井戸を直せば「御業」と呼ばれ、「揚水経路の詰まりを除去しただけです」と訂正した。水路を直せば「奇跡」と呼ばれ、「勾配の再調整です」と訂正した。十年に及ぶ訂正の成果は、大聖堂の壁に刻まれた聖句「コウバイノサイチョウセイ」である。成果と呼びたくない。
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行列が大聖堂に戻ったところで、私は大司教グレゴール猊下に進言した。
「猊下。祈りは否定しません。ただ、並行して配管を替えさせてください」
「おお……聖女様は祈りの傍らにも、民の水をお案じくださる」
「奇跡ではありません。配管です。だから、祈りとは別に調べる必要があります」
「なんとご謙遜な。皆の者、聖女様のお言葉を胸に、今宵も祈禱に励むように」
通らなかった。今日も一句も通らなかった。
説明すればするほど信仰が深まる。十年観察を続けているが、この現象に私はまだ工学的な名前を付けられずにいる。
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その夜、法衣を脱ぎ、平服で大聖堂を抜け出した。
回廊で、初代聖女の壁画の前を通る。エルネスタ様が錫杖を掲げ、疫病を鎮める図。——前から思っていたのだが、あの錫杖、握りの形が祭具のそれではない。柄が長く、先が直角に折れ、握りに滑り止めの刻み。あれは掲げる道具ではなく、回すための道具の形だ。
何にでも道具が見えるのは私の職業病だろう。そう結論して、通り過ぎた。
下町の診療所では、バルト老が今夜も起きていた。七十歳、下町で唯一の医者。診立ては古いが、患者記録だけは几帳面。
「聖女様が、夜中に、平服で、儂の帳面を貸せと」
「口外なさらないのであれば、祝福を差し上げます」
「取引の作法が聖女のそれじゃないよ。……いいが、汚すんじゃないぞ。そこに書かれた名前は、全部生きてる人間だ。いや、もう死んじまった奴もいる」
「……わかっています」
「この赤い印のところは、昨日の朝に白布を出したパン屋の小僧だ。こっちの並びは、その隣の家だ」
口は悪いが、目の前の命と帳面の記録には誰よりも真摯な老人だ。
借りた記録を、持参した地図に落とす。病に倒れた者一人につき、点をひとつ。
川沿いのパン屋の角に、点。市場の裏の辻に、点。地図上の位置に点を打つたび、私はその家々のくすんだレンガの壁や、泥だらけの路地を思い浮かべる。ただのインクの染みではない。点は人だ。
三ヶ月前の頁、川沿いに七点。先月、市場の裏に十九点。今月、ここまでで五十三点——点は渦を巻くように、一箇所を囲んでいた。
市場裏の共同井戸。
市場裏の共同井戸は、聖女の水路の末端ではない。雨のたび側溝の水を吸う、古い浅井戸だ。だからこそ、汚水が混じる。配管をすべて替えたいが、今の私にはその権限がない。
井戸から離れた点は三つだけ。バルト老に訊くと、三人とも市場の水売り娘から水を買っていた。娘が桶を満たす先は、同じ井戸。
点が、指している。
前世の研修で聞いた、あの有名な逸話のとおりだ。百七十年昔の異国で、一人の医者が同じ地図を描き、井戸のポンプの柄を外させた。流行は、それで止まったという。
だが、あれは後世に美化された成功譚かもしれない。井戸を止められた住民がどれほど怒ったか、どれほど水に困ったか、教科書には書いていなかった。
それでも、今ここで止めずに増える病人の責任は、私には取れない。
——復旧、間に合いません。
不意に、前世の最後の夜の音がした。無線の声。雨。崩れる路面。私が間に合わなかった、断水地区の。
帳面を閉じる。今世の病人は、まだ増えている途中だ。まだ、間に合う側の命だ。
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夜明け前、市場裏の共同井戸。
役所への届けは出していない。井戸の管理者たる教会への申請も。手続きが通る速度と患者が増える速度は、この三ヶ月で比較済みだ。勝負にならなかった。
柄の付け根に工具を当てる。留め具の規格、不揃い。鍛造は二百年もの。固着、あり。油を差し、布を噛ませ、体重を掛ける。
外れないボルトには、まだ外し方が残っている。
金属同士がきしみ合い、やがてナットが緩んだ。重い鉄の柄が外れる。井戸は、沈黙した。
「盗むのではありません。預かるのです」
誰にともなく言い訳をして、柄を布に包んだそのとき、路地の向こうから足音が聞こえた。バケツを手にした水売り娘と、何人かの住民がやってくる。さらにその背後から、大聖堂のランタンを持った、朝の祈禱前に井戸を祝福する日課の助祭と、市場の炊き出しに使う水量を検めに来た教会の役人が歩いてくるのが見えた。
隠れる間はなかった。私は柄を包んだ布を抱えたまま、立ち尽くした。
「あれ……? ポンプの柄がない!?」
水売り娘が声を上げ、住民たちが井戸を囲む。
「どういうことだ、水が汲めねえぞ!」
「誰が盗んだんだ! これじゃあ今日の炊き出しも、洗濯もできねえ!」
教会の役人が厳しい顔で前に出た。
「無断で井戸の部品を持ち去るのは重罪だ! そこな者、何を持っている!」
私は深く息を吸い、フードを外して顔を晒した。平服ではあるが、大聖堂にいる者なら見紛うはずがない。
「聖女様……!?」
助祭がランタンを掲げ、驚愕の声を漏らした。住民たちも一瞬で静まり返り、泥だらけの地面に膝をつき始める。
「聖女様、なぜ平服でこのような場所に……」
「井戸を止めたのは私です」
私は彼らの言葉を遮り、はっきりと告げた。
「この井戸の水が原因だと疑っています。確かめる手段はありません。だから、確かめるまで飲まないでください。代替の水は、大聖堂の地下にある聖槽から、きれいな水を樽で運んで配るべきです」
沈黙が流れた。冷たい夜明けの空気に、私の言葉がそのまま溶けていくようだった。
やがて、助祭が目頭を押さえ、深く感銘を受けたように嘆息した。
「おお……なんという慈悲深きお言葉。聖女様は下町の民を祟りから救うため、あえて『水を断つ』という試練をお与えになったのですね。信仰の濁りに対する、比喩的な託宣……!」
「比喩ではありません。物理的な水の話をしています。飲めば、また患者が増える可能性が高い」
しかし、助祭の耳にはもう「比喩」の二文字しか届いていないようだった。
教会の役人が、深く首を垂れたまま言った。
「ですが聖女様、この井戸の管理権は大司教猊下のお手元にございます。無断での閉栓は教会法に触れる行為です。我々の一存で聖槽の水を動かすこともできません。どうか柄をお戻しください」
「柄は戻せません」
私は一歩退いた。
「水が出なければ、私たちは今日を生きられません!」
平伏していた住民の一人が、すがるように、しかし切実な怒りを込めて叫んだ。
「祟りを鎮める試練だなんて、そんなご立派なことはわかりません! 水がなければ、私たちは明日には干からびちまう!」
住民たちの視線が、私の抱える布包みに集まる。そこに宿るのは崇拝ではない。ただ生きるために水を求める、生身の人間たちの渇きと怒りだ。
抱えた柄が重かった。自分のしたことの分だけ。
言葉が届かない。そして、私には彼らの渇きを今すぐ潤す権限も、樽を動かす人手もない。
私はそれ以上答えることができず、ただの泥棒のように、背を向けて走り去るしかなかった。
「ごめんなさい……」
心の中で小さく謝りながら、私は夜明けの薄暗い路地を走り抜けた。
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翌朝、大聖堂に一枚の布告が届いた。
差出は、王都浄化局。
「市場裏の共同井戸よりポンプの柄を持ち去りし不届き者を捜索中。心当たりのある者は速やかに浄化局へ申し出よ。局長 ルシアン・オルディア」
あまりにも早い。だが、奇妙な布告だった。朝の井戸端には教会の助祭も役人もいた。犯人が大聖堂の聖女であることは、教会も浄化局も掴んでいるはずだ。
それなのに「不届き者を捜索中」と身元をぼかしているのは、聖女の不祥事を公にしたくない教会の隠蔽工作か。あるいは、このルシアンという局長が、私を呼び出すための口実としてあえて「捜索中」の形をとって泳がせているのか。
ルシアン・オルディア。第三王子の名前だった。年は確か、私と同じ十五。飾りとして局長の椅子へ座らされた、と噂に聞くが、どうやらただの飾り人形ではなさそうだ。
私は自室の櫃を開けた。布に包んだ柄が一本、革装の工事記録簿が一冊。
まだ、井戸を止めた効果はわからない。今日一日で熱病の患者が減るわけではない。検証結果が出るのは、もっと先だ。
だが、このままでは下町の人々が水に困り、いずれ川の汚れた水に手を出してしまう。下町の川の水は、川上に職人街の染色場があるので普段は飲用には避けているが、井戸が止まれば、生きていくための煮炊きに使わざるを得なくなる。そうなれば、さらに患者が増えるだけだ。
「申し出よう。柄も返そう」
ただし、あの井戸をそのまま再開させるわけにはいかない。そして、検証結果を待つ間、下町には大聖堂の聖槽から樽で水を運ぶよう、浄化局の権限で手配させなければならない。
話の通じる相手だといいのだけれど——この国で私の話が通じた前例は、まだない。
それでも、行くしかない。
記録簿を開き、今日の一行を書く。
*本日、市場裏の共同井戸の閉栓一日目。新規患者数、検証中。外したポンプの柄は聖女が保管。*




