第5話:【結・カウントダウンの終わりと、宿敵の顕現】
ズブズブと空間の歪みから這い出てきた三人は、頭から激しく火花を散らしながらも、その瞳には僕がずっと守りたかった「現世の愛おしいカオス」を100%完全燃開させていた。
「はぁぁんっ! お姉様! 忘れるはずがありませんね! このタマ、お姉様が男の器でなよなよと悩みながら、アパートの台所で肉じゃがを一口味見させてくださったあの至福の瞬間を、呪雪ごときに塗り潰されていたなど一生の不覚……っ(ぽっ)」
「あらあらぁ! 私もお姉様とコンビニのアイスを半分こした記憶が、脳のニューロンに鮮烈に蘇りましたよぉ! さあ、記憶が戻ったお祝いに、今すぐお布団へ――」
「お布団は禁止言うとんねんボケ共ォォォ!! でも……っ、二人とも、戻ってきてくれてほんまに良かった……っ!」
僕は目元に涙を浮かべながらも、全力の関西弁で二人にツッコミを叩き込んだ。お姉様たちの琥珀色の瞳と優しい眼差しが、しっかりと「今の僕(姫宮蓮)」を見つめてくれている。その事実だけで、胸の奥の凍りついていた孤独が、一瞬で温かく溶けていくのが分かった。
「千鶴……いや、蓮」
不意に、白衣の袖を払った神代暁が、一歩前へ出た。その顔面国宝級の美貌には、先ほどまでの冷徹な大理石のような面影はどこにもない。彼は少し顔を赤らめながら、だけど千年の絆を宿した真っ直ぐな目で僕を見つめた。
「お前が『今の日常を生きたい』と泣きながら叫んだ声、俺の魂のハードディスクに直接響いたぞ。……お前が男のままで、俺たちのすき焼きのネギの味を愛おしいと思ってくれるなら、俺はもうそれだけでいい。今世のお前が紡ぐ日常のすべてを、俺がこの命を賭けて――」
胸の奥で、何かがほどけた。
前世だろうと今世だろうと、男だろうと女だろうと、この人は僕を僕のまま見てくれている。それが分かった瞬間、ずっと胸に刺さったまま抜けなかった何かが、静かに溶けていくのが分かった。
(……ありがとう)
声には出さなかった。出せなかった。だけど、この気持ちだけは本物だと、今は確かに分かった。
「神代くん、いい話の最中にさりげなく僕の日常の主権を永久保存しようとすな! あと顔が近――」
僕が暁の胸を押し返そうとした、まさにその時だった。
バリィィィィィン!!! と、僕たちの足元の石畳が、まるでガラスのように激しく引きちぎれ、空間の裂け目から一人の少年が文字通りドロップされてきた。
パジャマ姿のまま、右手に冷たい缶お茶、左手に『トリプルアタック胃腸薬』の箱をガチガチと震える手で握りしめ、地面にズサァ……とスライディング気味に膝を突いた男。
「じ、陣内くん!? なんで君が前世の境界線の最奥にスライディング乱入してくんのさ!?」
僕は驚きのあまり、黄金のハリセンを落としそうになりながら叫んだ。学校で完全に僕の存在を忘れ、普通の一般人の冬期講習へと去っていったはずの、現世の唯一のオアシス。
陣内陸は、ゆっくりと、その膝を砂利(空間の残骸)へと突きながら、僕たちを見上げた。
その目は、もはやこの世のあらゆるオカルト現象をパージした、完全なる『死んだ魚の目(漆黒の虚無)』を起動させていた。
「……思い、出したぞ姫宮……。塾の冬期講習で、数式の『X』と『Y』の文字を見るたびに……なぜか脳裏に、パンツスーツのキツネと、ドレスの天狗と、アパートの壁を爆破リフォームするストーカー陰陽師の音声が100%の爆音で自動再生されやがった……っ」
陣内はガタガタと震えながら、最強の胃薬を缶お茶で流し込んだ。
「俺の一般人としての脳細胞が、本能的な恐怖でアラートを鳴らしたんだよ……。俺の胃壁を、俺の平穏な高校生活を、リアルタイムでリアルな更地にし続けてきた元凶は、お前らだ……っ! 頼むから俺の記憶を勝手にオカルトの雪でノーカウントにするな、事務処理が追いつかねえだろ!!」
「一般人なのに怪異の呪雪を『恐怖の記憶のリアリティ』だけでブチ破って戻ってこないで陣内くん!! 錨としての強度がプロフェッショナルすぎて一般人の領域を完全に超越しとるよ!?」
僕はボロボロと新しい感動の涙を流しながら、陣内のパジャマの袖をぎゅっと掴んだ。
怪異たちの愛が戻り、一般人のオアシスが記憶の彼方から這い戻ってきた。
タマさん、ハヤテさん、暁、そして陣内くん。
僕たちが現世で確かに紡いできた、不条理で、カオスで、世界で一番愛おしい「日常の錨」が、今、大晦日の境界線の最奥で、再び完璧に一つへと繋ぎ合わされたのだ。
チクタク、と。
僕の脳内の現世時計が、最後の一秒を刻んだ。
午前零時。大正月へのカウントダウンが、静かにゼロを迎える。
新年の幕開け。
だが、世界が新しい光に包まれるはずのその瞬間、僕たちの周囲の白い空間が、墨汁をぶちまけたかのような、ドロドロとした漆黒の闇によって激しく【溶解】し始めた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッッッ!!!
地響きなんて生易しいものじゃない。世界のシステムそのものが、内側からバキバキと喰い破られていくような、圧倒的な不条理の波動。
降り注いでいた呪雪が一瞬で黒い霧へと変生し、空間の裂け目から、千年前の戦乱の戦火をそのまま凝縮したかのような、巨大で、禍々しい影がその姿を現した。
冷徹なまでに整った美貌。だけど、その瞳には一切の光がなく、ただ世界への無限の呪詛と未練だけを滾らせている、千年前の災厄の元凶。
――『千年の怨忌・常闇の主』。
「……ようやく、見つけたぞ。千鶴姫。そして、目障りな近衛の騎士よ……」
地を這うような、泥のように濁った怪音が、境界線の空間を完全な絶望へと染め上げていく。
タマさんの九つの尾が、ハヤテさんの漆黒の羽が、そして暁の指に挟まれた呪符が、一瞬にしてガチの臨戦態勢へと引き絞られた。
現世の日常を懸けた、前世の因縁との本当の最終決戦。
新年の最初の鐘の音が響く中、僕たちの最高に贅沢でカオスな青春の防衛戦が、ついに幕を開けようとしていた。




