第5話:【結・成仏とお後がよろしいようで】
「はぁぅ……っ、んん……っ!」
旧校舎の壁からズブズブと抜け出してきた桜の精は、頭から激しく火花(霊力)を散らしながらも、その表情は信じられないほどの恍惚に満たされていた。
頬を真っ赤に染め、息を荒くしながら、僕を拝むように見つめてくる。
「何という……何という天衣無縫のツッコミ……! 乱れたわたしの細胞一つひとつが、今、完璧なスナップによって再配列されました……っ。ああ、満たされました……わたし、もう未練はありません……!」
「ハリセン一本で未練どころか体組織まで浄化されてる!? 植物の生態系どうなってんの!?」
僕のツッコミを最後の引き金として、彼女の体に溜まっていた何十年分もの人間の絶望が、綺麗な桜吹雪へと変わって夜空へ舞い上がっていく。彼女の体自体も、光の粒子となってゆっくりと消えかけていた。
「優しいお方。あなたに叩かれて、本当によかった……。さようなら……」
消えかけながら、彼女は最後にもう一度だけ僕を見た。
さっきまでの肉食系の顔でも、泣いていた顔でもなかった。ただ、目を細めて笑っていた。
(……ああ)
あの肉食系の振る舞いは、全部わざとだったんだろうか。孤独だったくせに、僕が怖がらないように。泣かないように。
胸の奥が、じわっと痛んだ。
桜の精は、最後は最初の儚げで美しいお姉様の笑顔に戻り、初夏の夜空へとサラサラと溶けるように成仏していった。
裏庭に残されたのは、すっかり通常の緑に戻った葉桜の巨木と、静かな月明かりだけ。
しばらくそこに立ったまま、動けなかった。
自宅のアパートに戻り、タマさんを押し入れから解放した。
押し入れの戸を閉める直前、タマさんがこちらを振り返った。
鼻血も、恍惚も、なかった。ただ静かに、目を細めて笑っていた。
さっき裏庭で見た、あの顔と同じだった。
(……この人も、か)
続きを考える前に、戸はそっと閉まった。
僕は布団に潜り込み、ようやく訪れた静寂の中で、ぼんやりと天井を見つめていた。
(……あれ?)
目を閉じると、いつもならすぐに消えるはずの「千鶴姫」の記憶の残滓が、今夜はなぜか、胸の奥でズキリと切なく疼いた。
脳裏にフラッシュバックしたのは、燃え盛る炎のような戦火の光景。
その中心で、僕(千鶴姫)の前に跪き、血を流しながらも、僕だけを真っ直ぐに見つめていた男の人がいた。
冷徹なまでに整った美貌。だけど、僕に向ける瞳だけは、狂おしいほどの情熱と切なさを湛えていた――。
「……誰、だろう」
胸が、静かに締め付けられる。
女の子に惹かれることの方が多いはずの僕なのに、その「男の人」の面影を思い出すだけで、心臓が妙に騒ぐ。前世の魂が、僕の奥深くで何かを揺らしている。
「……不思議なものだな。僕は、現世では普通の男なのに」
僕はそっと目を閉じ、その面影を頭の隅に追いやるように布団を被った。
前世の純愛の引力が、すぐそこまで迫っていることも知らずに。
同じ頃。
深夜の街の境界線、高いビルがそびえ立つ屋上に、一人の男が静かに降り立っていた。
夜風に揺れる、漆黒の狩衣。
月光を浴びて妖しく光る、冷徹で圧倒的に整った美貌。政府公認の天才陰陽師であり、前世で姫と命懸けで愛し合っていた近衛騎士――神代暁だった。
彼は手にした呪符を静かに収め、蓮のいるアパートの方角を見つめた。
一拍、置く。
「……男か」
また一拍。
「……関係ない」
彼の瞳に、静かな熱が灯った。狂気ではない。ただ深く、どこまでも深く、一人の人間だけを見ている目だった。千年待って、ようやく見つけた。ただそれだけの目。
「待っていろ。今度こそ、誰にも渡さない」
それだけ言うと、彼は夜の街へと静かに溶けていった。




