第3話:【絶望・「女になりたいわけじゃない」少年の叫び】
「……どうして、誰も僕を見てくれないんだよ」
冷え切った畳の上にぽつりと落ちた僕の涙は、コタツの温もりにも触れることなく、ただ静かに冷気に吸い込まれていった。
目の前に立つ神代暁は、微動だにせず漆黒の呪符を構えている。その琥珀色の瞳は鏡のように冷たく、僕の涙に動じる気配すら見せない。コタツに座るタマさんもハヤテさんも、ただ静かに、冷徹な神話の住人としての佇まいで僕を見下ろしている。
学校へ行けば、唯一の現世のオアシスだった陣内くんにすら「同じクラスの姫宮」と、完璧な他人の目を向けられた。そしてアパートに戻れば、僕の貞操をあれほど不条理に脅かしていた怪異たちや、激重な愛をぶつけてきたストーカー陰陽師が、完全に現世の「姫宮蓮」を忘れてしまっている。
この部屋には、僕の居場所なんて、もうどこにも残っていなかった。
「さあ、千鶴姫」
タマさんが、静かに、そして恐ろしいほど懃懃に僕の名を呼んだ。彼女の背後から現れた九つの巨大な尾が、アパートの天井を覆い尽くすように、音もなくゆらりと広がる。
「常闇の主が、現世と前世の境界線を喰い破り、すぐそこまで迫っております。この現世の脆弱な男子の衣など、戦火の中では一瞬で燃え尽きるだけの枷に過ぎません。さあ、その魂に眠る本来のお姿(千鶴姫)へと戻り、私どもの結界の最奥へ。今度こそ、誰も触れられぬ深淵へと、お連れして差し上げます」
「お姉様」
ハヤテさんもまた、一切のバブみを消し去った冷徹な使者の声で、僕の手首をそっと掴もうとしてくる。
「男の体で惑う日々は終わりです。前世の統治者としての、本来のあなた様へとお戻りなさいませ。そのために、私たちがすべてをリセット(消去)したのですから」
二人の長い指先が、僕の制服の袖に触れようとした、その瞬間。
「――嫌だッ!!!」
僕は、張り裂けそうな悲鳴を上げて、二人の手を激しく振り払った。
タマさんの琥珀色の瞳と、ハヤテさんの無機質な眼差しが、ほんの一瞬だけ、怪訝そうに揺れる。その隣で、暁が小さく眉をひそめた。
「退いてくれ、千鶴。お前がその器(男の体)に拘泥する理由など、どこにもないはずだ。俺たちの千年の因縁を、現世の仮初めの属性で汚させるわけにはいかない」
暁の、あまりにも正しく、冷酷な言葉。
それが、僕の胸の奥に澱のように溜まっていた「現世のなよなよ男子高校生」としての最後のプライドと、魂の叫びを完全に決壊させた。
「拘泥するとか、仮初めだとか、勝手なこと言わないでよ……っ!!」
僕はボロボロと大粒の涙を流しながら、喉を掻き切るような声で叫んだ。
いつものキレキレの関西弁のツッコミじゃない。ただの、どこにでもいるひ弱な男の子としての、切実な拒絶の絶叫だった。
「僕は……僕は、女の子になりたいわけじゃない……っ! 前世の千鶴姫として、あなたたちと千年の因縁を戦いたいわけでもないんだよ……!」
胸を強く掻きむしる。男の器と、前世の魂の記憶。そのズレにずっと悩み、振り回され、性自認をめちゃくちゃにされながらも、僕が必死に守りたかったもの。
「僕は、男として頼りなくても、みんなとこのアパートで、くだらないことで怒って、ハリセンを振り回して、タマさんの作った温かい肉じゃがを食べて、コンビニのアイスを半分こして笑い合いたかったんだ……っ! 陣内くんに『お前のせいで胃壁が更地だ』って呆れられながら、冷たいお茶を渡される、そんな現世の普通の青春を生きたかったんだ……っ!!」
叫びながら、僕は自分の右手を強く握りしめた。
怪異たちに愛され、前世の婚姻を迫られるたびに起動していた、あの黄金のハリセン。あれはただの貞操防衛のシステムなんかじゃない。僕が「今の、現世の姫宮蓮」として、普通の日常を必死に守るための、最後の抵抗の盾だったんだ。
「僕から……僕の大切な日常を、みんなとの現世の思い出を、前世の裏設定だけで勝手に真っ白に塗り潰さないでくれ……っ!!」
僕の魂の底からの叫びに、タマさんも、ハヤテさんも、そして神代暁も、ただ無言で、冷たい静寂の中に佇んでいた。呪雪に侵食された彼らの心には、僕のこの切実な叫びすら、ただの「主君の気まぐれな迷い」としてしか届いていないようだった。
「……千鶴姫。時間がありません。往きましょう」
暁が冷たく、僕の肩へと手を伸ばしてくる。
「――触るな!!」
僕は暁の手をすり抜け、アパートの玄関へと飛び出した。
引き戸を激しく開け放つと、外は完全な暗黒の世界。しんしんと降り積もる呪雪が、現世の街の形を、境界線の向こう側の歪んだ戦場へと作り変えようとしていた。
誰も僕を認識してくれないなら。みんなの心から、現世の僕との思い出が消えてしまったなら。
僕のこのひ弱な男の手で、力ずくで、みんなの脳髄を物理的に揺さぶってでも、あの愛おしい不条理な日常を毟り取って戻してやる。
「待っててよ……みんな。絶対に、僕たちの日常を、引きちぎらせたりしないから……っ!」
涙を袖で拭い、僕は制服の姿のまま、大晦日の凍てつく境界線の最奥へ向かって、全速力で走り出した。




