第10章:大晦日の境界線・消える現世の記憶と日常の錨 第1話:【日常・大晦日の静かな雪と、冷えゆくアパート】
しんしんと、ただ静かに、白い結晶が夜の街を塗りつぶしていく。
十二月三十一日、大晦日。
いつもなら除夜の鐘の音や新年のカウントダウンを待つテレビの音で賑わうはずの夜。だけど、僕たちの住むアパートの周囲は、不自然なほどに音を失っていた。外で降り積もる雪は、吸音材のように現世のすべての喧騒を吸い尽くし、世界に僕たちしかいないような、奇妙な孤立感を醸し出している。
「……寒いな、なんか」
僕はコタツの中で身を縮めながら、自分の両手に息を吹きかけた。
コタツのスイッチは間違いなく「強」に入っているし、部屋の暖房も動いている。それなのに、骨の芯に直接触れてくるような、じわじわとした冷気が足元から這い上がってくるのだ。
調伏の一族としての僕の肌が、この大晦日の雪が普通の気象現象ではないことを、ずっと前から告げていた。
空から降るこの白い雪は、現世の記憶を優しく、だけど確実に削り取り、代わりに千年前の戦乱の因縁だけを強制起動させる最悪の結界――『呪雪』。
だけど、何よりも僕の心を恐怖で凍りつかせていたのは、目の前に座る「彼女たち」の姿だった。
「タマさん……? お肉、もう焼けてるよ? 食べないのかい?」
コタツの対面。
いつもなら、僕がアパートへ帰ってきた瞬間に「お姉様ぁ!」とソプラノボイスの歓声を上げ、鼻血をたらしながら「男の器のお姉様と合法的に契る至高の愉悦……っ」と身悶えして迫ってくるはずの銀髪の妖狐――タマさん。
彼女は、僕の言葉に、ピクリとも反応しなかった。
白のパンツスーツではなく、千年前の戦乱の時代を思わせる、冷厳な、格式高い漆黒の和装を身に纏っている。
いつもなら蕩けるように甘く濡れていた彼女の切れ長の琥珀色の瞳は、今はただ、濁りのないガラス玉のように冷たく澄んでいた。彼女は**【一切笑わず、静かに】**、ただじっと僕の顔を見つめている。その視線には、現世の『姫宮蓮』に対する親愛も、あのゲーセンデートで見せてくれた無邪気な日常の輝きも、何一つ宿っていなかった。
「タマ……さん?」
僕の声が、静まり返った部屋の空気に虚しく吸い込まれていく。
助けを求めるように右隣へ視線を向けると、そこには大天狗のハヤテさんが座っていた。
ハヤテさんもまた、いつもなら「お姉様をバブみで丸ごとお布団に包んで差し上げますねぇ」とおっとり微笑んでくれる聖母のはずだった。
だけど、今のハヤテさんは、僕の淹れたハーブティーに口を付けることもなく、ただ背後の大きな漆黒の羽を**【静かに、一枚の狂いもなく伏せて】**佇んでいた。そのおっとりとした瞳の奥にあるのは、絶対的な全肯定の優しさではなく、冷徹な天界の使者としての、感情を一切パージした無言の眼差しだった。
コタツの上のすき焼きの鍋から、パチパチと小さな音が響くだけ。
いつもなら僕の貞操を巡って、空間の気圧が変わるほどのキャットファイト(ボケ)を繰領り広げるはずの二人が、ただ無言で、微動だにせず、僕を見つめ続けている。
(……これは、いつもの夜這いアプローチとか、そういう次元じゃないな。空気が、おかしい)
ツッコミを入れようにも、喉の奥が静かに乾いていく。
あまりの空気の冷たさと「静かなる異常」に、僕は本能的な緊張で身体が強張るのを感じた。お姉様たちの放つ霊圧は一ミリも膨れ上がっていないのに、部屋の中の「現世の温もり」だけが、リアルタイムで綺麗に消滅(溶解)していく。
「お姉様」
不意に、タマさんが口を開いた。
男の僕でも身震いするほどに低く甘い、あの極上のソプラノボイス。
だけど、その声には、僕と一緒に肉じゃがを食べて笑ってくれた現世の思い出のトーンは、一滴も含まれていなかった。
「――間もなく、千年の怨忌が、境界線の向こうよりお姿を現します。私どもの九つの尾は、今度こそ、お姉様(千鶴姫)を戦火からお守りするためにございます。さあ、現世の仮初めの日常など忘れ、戦いの支度をなさいませ」
淡々と、懃懃に、だけど絶対的な拒絶を孕んだ言葉。
タマさんの琥珀色の瞳の奥に、現世の僕――『姫宮蓮』の存在は、もう映っていなかった。
彼女たちの記憶の中から、僕が男の子として必死に生きていた毎日の記憶も、すべてがこの呪雪によって白く、静かに塗り潰されようとしている。
日常の錨が、アパートの足元からメリメリと音を立てて引きちぎれていくような、底なしの孤独。
大晦日のカウントダウンが刻一刻と迫る中、僕の愛おしいハーレムラブコメの舞台は、一寸の慈悲もない「前世の呪縛」へと、静かに、そして完璧に逆戻りしようとしていた。




