第2話:【事件・鏡の奥の「もしもの私」】
「本当にやるの? 止めた方がいいって、絶対呪われるよぉ……」
「大丈夫だって。ほら、新学期早々、気になる男子のホンネが分かるかもしれないじゃん?」
新学期が始まったばかりの昼休み。渡り廊下の向こう、取り壊しが予定されている旧校舎を不安げに見上げる女子生徒たちの声が、僕の耳に届いていた。
陣内からの業務連絡(LINE)通り、学校はオカルトの噂でもちきりだった。旧校舎の三階、突き当たりにある古い洗面台の合わせ鏡。深夜0時にそこへ行き、理想の自分の姿を強く思い浮かべながら鏡を覗き込むと、その姿が鏡の奥に具現化し、どんな願いも叶えてくれる――。
「……なぁ姫宮。お前、まさかとは思うが『今回は俺に関係ない』とか暢気なこと考えてねえよな」
購買の焼きそばパンを虚無的な手付きで口に運びながら、陣内がジト目を向けてきた。
「いや、だって僕は何もしてないし……」
「あのな、お前の周りの怪異濃度は今や都内一なんだよ。お前がただそこに存在するだけで、周囲のオカルトスポットが『あ、あそこに美味そうな霊圧の塊がいるぞ』って自動でアクティベートされんだよ。お願いだから、一般人の俺が巻き込まれて進路調査票に『世界平和の維持』って書かされる前に先手を打ってくれ」
「陣内くんの胃にかかるストレスが限界突破しとる……」
確かに、放っておいて一般の生徒に被害が出るのは寝覚めが悪い。
それに、陣内が言っていた「覗いた奴の、理想の性別が映る」という言葉が、どうにも胸の奥に冷たい棘のように引っかかっていた。実家での、あの暁との口づけの記憶。男の身体のまま彼の千年の愛を受け止めることに、僕自身、どこかでずっと戸惑いと迷いを抱え続けていたからだ。
「……分かった。今夜、僕一人でちょっと様子を見てくるよ」
「いや、俺も行く。お前を一人にしたら、また深夜の校舎が原因不明の青い炎でリフォームされて、明日からプレハブ小屋で授業受ける羽目になりかねないからな。俺は校舎の戸籍を守るために、一番強い胃薬を飲んで同行する」
現世のアンカーとしての責任感が、もう色々と諦めた領域に達している陣内と共に、僕たちはその日の夜、静まり返った学校へと潜入した。
時計の針が深夜0時を指す頃。
月光すら届かない旧校舎の廊下は、昼間の賑やかさが嘘のように、ひんやりとした死寂に包まれていた。
ギィ……と、古びた床板が軋む。
三階の突き当たり。埃を被った洗面台の前に、それはあった。暗闇の中で、対に配置された二枚の大きな鏡が、お互いの虚無を永遠に映し合っている。
「ここだね……」
僕が息を呑んだ、その瞬間だった。
ピキィィィン、と、鼓膜を刺すようなガラスの鳴る音が響く。
合わせ鏡の表面が、まるで水面のようにドロリと波打ち、そこから見たこともないほど濃密な、冷たい霧が噴き出してきた。
「お前ら……全員、本物になれて、いいなぁ……」
霧の奥から響いたのは、かすれた少女の声だった。
鏡の表面から、細い、ガラスの破片を繋ぎ合わせたような半透明の手が伸びてくる。
「私はずっと、暗いガラスの裏側で、誰にも気づかれず、ただ前の景色を映すだけの『偽物』。誰の手にも触れられない。だから、一度だけでいいから……私も本物として、誰かに愛されたかった……」
ほんの1〜2行の言葉の裏に隠された、何十年、何百年もの間、誰の記憶にも残らずに暗闇でただ世界を観測し続けてきた怪異の、底なしの孤独。
その寂しさに僕の心がわずかに共感し、足がすくんだ刹那、ガラスの手が僕の胸ぐらをガシリと掴んだ。
「ひ、姫宮――っ!」
陣内が手を伸ばすが、間に合わない。僕の身体は、物理的な法則を無視して、ひんやりとした鏡の表面の「向こう側」へと、一瞬で引きずり込まれてしまった。
「うわっ……!?」
ドサリ、と冷たい床に倒れ込む。
周囲を見渡すと、そこは上下左右がすべて鏡で構成された、果てしない万華鏡のような異空間だった。
「ようこそ、迷子のお姫様。あなたの魂、すごく綺麗……。でも、すごく迷ってる」
鏡の精の少女が、空間の全方位から僕を見つめて囁く。
「教えてあげる。あなたが本当に望んでいる、鏡の奥の『もしもの姿』――」
パリン、と、僕の目の前の一枚の大きな鏡が、眩しい光を放ちながら新しい景色を映し出した。
そこに映っていたのは――。
なだらかな肩のラインに、柔らかな長髪。綺麗なスカートを揺らし、恥ずかしそうに頬を赤らめて笑っている、**『女の子の姿をした僕(千鶴)』**だった。
そしてその隣には、いつもよりどこか穏やかで、この上なく幸せそうな、優しい笑みを浮かべた神代暁が佇んでいる。
『――千鶴、愛しているよ』
鏡の奥の暁が、女の子の僕の手を優しく握り、そっと引き寄せる。それは、現世の複雑な事情も、性自認の揺らぎも、男同士の葛藤も一切ない、どこまでも「普通」で、どこまでも美しい男女の幸福な恋の光景だった。
「これが、あなたの心の奥の願い……。女の子になれば、もう誰も傷つかないし、あなたも、あの人も、みんな幸せになれるのにね……?」
鏡の精の、甘く冷たい囁きが、僕の魂の最深部をじわじわと侵食していく。
鏡の中の、幸せそうな「私」から、目が離せなかった。




