第2話:【ロマンス・最高の器(からだ)を差し出す自己犠牲】
「暁、君……何を言って……っ」
猛烈に吹き荒れる黒い嵐の中、僕は地面に膝を突いたまま、呆然と彼を見上げた。
「器を貸す」だなんて、そんなこと、普通の陰陽師なら絶対に口にしない。いや、口にしてはいけない禁忌中の禁忌だ。
ましてや神代暁は、現代の陰陽師の最高峰に君臨する男だ。その肉体と霊力は、この世のどんな高位の霊体をも完璧に受け止めることができる、文字通りの『最高の器』。
だが、そんな奇跡の肉体に、悪霊化しかけている他人の魂を自ら招き入れる(憑依させる)なんて、一歩間違えれば自分の魂が汚染され、最悪の場合は肉体を乗っ取られて消滅してしまう。
あれほど「陰陽の理」を説き、冷徹な正論で怪異を排除しようとしていた彼が、今、その理を自らの手で最も残酷に破壊しようとしていた。
「だめだよ暁! そんなことしたら、君の身体が、君の魂がどうなるか分かってるの!? 陰陽師の君が、なんでそんなめちゃくちゃなこと……っ!」
叫ぶ僕の前に、暁はゆっくりと片膝を突き、僕の目線に合わせるようにして視線を絡めた。
その琥珀色の瞳は、驚くほど静かで、どこまでも澄んでいた。
「言ったはずだ、千鶴。お前を悲しませるくらいなら、この世界にも、俺のこの命にも一寸の価値もない、と」
「あ……」
「俺はお前を千年間探し続けた。お前が男の身体になっていようが、そんなことはどうでもいい。俺のすべてはお前のためにある。……お前がその初恋の少女のために涙を流すのなら、俺のこの身体を、その少女の未練を遂げさせるための『器』として差し出すことなど、造作もないことだ」
彼の言葉には、一ミリの迷いも、誇張もなかった。
僕を守るために冷徹になり、僕が泣いたからその冷徹さを一瞬で捨て去る。
「さあ、来い、現世の迷い子よ」
暁が再び立ち上がり、黒い霧の奥にいるさくらちゃんへと、その白衣の胸を広げた。
彼の肉体から放たれた圧倒的な聖なる霊力が、さくらちゃんの禍々しい陰気を強引に中和し、引き寄せていく。
「蓮くん、の……お友達……? 身体を、私に……くれるの……?」
霧の奥から、さくらちゃんの掠れた声が響く。
「お前が求めた『温もり』を、俺のこの肉体を使って千鶴に伝えろ。未練を遂げ、綺麗に成仏しろ。……ただし、俺の魂の領域を侵そうとすれば、一瞬で焼き尽くす」
暁の冷徹な警告と共に、境内に渦巻いていた巨大な黒い霧が、まるで竜巻のように彼の身体へと吸い込まれ始めた。
凄まじい霊的衝撃が暁の肉体を襲い、彼の美しい顔が苦痛に歪む。白衣の袖が激しくはためき、彼の髪が夜風に舞う。
それでも、暁は一歩も引かなかった。
意識が魂の奥底へと沈み、他者の魂に肉体を明け渡していくその直前。
暁は僕を振り返り、優しく、本当に愛おしそうに目を細めて、声にならない唇の動きでこう告げたのだ。
――泣くな、千鶴。
その瞬間、暁の身体を包んでいた黒い霧が完全に消失し、境内には再び、静かな満月の光が戻ってきた。
肩を落とし、静かに佇む白衣袴の男。
ゆっくりと、彼が顔を上げた。
その琥珀色の瞳からは先ほどまでの鋭い霊圧が消え去り、そこには、僕がよく知っている、あの優しくて儚い『初恋の少女』の涙が溜まっていた。




