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第5話:【結・すれ違う純愛と、自我の崩壊】


「……ぁ……」

暁の端正な唇から、形にならない掠れた吐息が漏れた。

地面に落ちた呪符を見つめる彼の肩が、見たこともないほど小さく震えている。僕を守るため、陰陽師としての正しい道理を口にしただけなのに、最も愛する主君から「大嫌いだ」という最悪の拒絶を突きつけられたのだ。その衝撃は、彼にとって千年の孤独の中で受けたどんな呪詛よりも、深く、冷たく、彼の心をへし折っていた。

だけど、僕たちのすれ違う純愛の痛みに浸る時間すら、目の前の現実(怪異)は許してくれなかった。

ドォォォォォンッッッッ!!!

さくらちゃんの身体から噴き出した黒い霧が、ついに物質的な衝撃波となって境内の空間を爆破した。

古い石灯籠が激しい音を立てて倒壊し、砂利が全方位へと弾け飛ぶ。拝殿のガラス窓がピキピキと悲鳴を上げ、真夏の夜だというのに、吐き出す息が真っ白に凍りつくほどの異常な陰気が辺りを完全な暗黒へと変えていく。

「蓮くん、蓮くん……っ! どこ……? 暗くて、何も、見えないよ……っ!」

霧の最奥から響くのは、もはやさくらちゃんの声ではなかった。

何十人もの怨者の声を重ね合わせたような、地を這う泥のような濁った怪音。だけど、その濁流の奥から、確かに彼女の悲痛な「寂しさ」の叫びが聞こえていた。

悪霊化の最終段階。自我の崩壊が、今まさに目の前で始まっていた。

「さくらちゃん、 僕はここだよ、目の前にいるよ」

僕は視界を塞ぐ黒い霧を両手で払いながら、必死に彼女の名を叫んだ。一歩、また一歩と、凍りつく砂利を踏み締めて前へ進む。

僕の『調伏の一族』としての本能が告げていた。今の彼女を縛っているのは、怨みでも憎しみでもない。ただ、「僕に触れたい」「想いを伝えたい」という、純粋すぎて歪んでしまった、あまりにも切ない未練の質量なのだ。

「蓮、くん……? ああ、蓮くん……触りたい、触りたいよぉ……っ!」

黒い霧の形状が、うねる触手のように変化し、僕の身体を求めて一斉に襲いかかってくる。

それは触れれば魂ごと陰気に汚染される、明確な『死』の誘惑だった。

「千鶴……っ!!」

背後で、心を折られて立ち尽くしていたはずの暁が、悲痛な叫びを上げて一歩を踏み出そうとした。自分の命がどうなろうと、僕が傷つくことだけは絶対に許さない――そんな彼の狂おしいまでの防衛本能が、肉体を突き動かしたのだろう。

しかし、その暁の足元に、どろりとした影の触手が絡みつき、彼の動きを拘束した。

「くっ……この程度の陰気が……っ!」

暁が霊力を爆発させようとするが、彼自身の精神が僕の「拒絶」によって激しく揺らいでいるせいで、いつもなら一瞬で世界を焼き尽くすはずの青い炎が、燻るように弱々しく爆ぜるだけだった。

「暁、来ないで、 術を使ったら、さくらちゃんの魂が本当に消えちゃう……っ」

僕は暁を振り返り、涙混じりの声で叫んだ。

僕にそう拒絶され、暁の琥珀色の瞳が、これ以上ないほど絶望に染まる。僕を守りたい騎士と、彼女の純愛を守りたい主君。千年の絆が、現世の皮肉な状況の中で完全にすれ違っていた。

「蓮くん、苦しい……! 身体が、熱くて、冷たくて、壊れちゃう……っ!」

霧の奥で、さくらちゃんのワンピースの白が、ドロドロとした漆黒の怨念に侵食されていく。

彼女の細い指先が、狂おしく僕のほうへと伸ばされる。だけど、どれだけ手を伸ばしても、実体のない幽霊の指先は、僕の肌に触れる直前で虚しく空気をすり抜けてしまう。

触れたいのに、触れられない。

その絶対的な絶望が、彼女の悪霊化をさらに加速させ、境内の空間そのものをバリバリと歪めていく。

「さくらちゃん……っ!」

物理的に触れることも、陰陽術で救うこともできない。

自我を失い、化け物へと成り果てていく初恋の少女を前に、僕はただ、己の無力さに涙を流すことしかできなかった。

真夏の『姫宮神社』を包み込む、底なしの暗黒と、狂おしいまでの悲鳴。

 その時、僕の脳裏をある言葉がよぎった。

 調伏の一族に伝わる、古い言い伝え。

 ――強い思いのまま逝ったものは、神になれる。

 今のさくらちゃんの思いが、怨念として腐り落ちるのか。それとも――。

 答えを考える時間すら、闇は与えてくれなかった。

誰も救えない、誰も報われない最悪の更地バッドエンドの足音が、すぐそこまで迫っていた。


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