第4話:【葛藤・成仏の正論と、拒絶の涙】
「あああああァァァッッ!!」
さくらちゃんの口から、地を這うような苦しげな絶叫が漏れ出た。
彼女の身体から噴き出した黒い霧が、真夏の夜の境内を瞬く間に侵食していく。周囲のセミの鳴き声が一瞬で消え去り、境内の植物がパキパキと音を立てて凍りついていく。自我を失いかける恐怖と未練が、純粋だった彼女の魂を「悪霊」へと作り変えていく暴力的な光景。
「さくらちゃん! しっかりして、さくらちゃん!!」
僕が必死に声をかけるが、漆黒に染まった彼女の瞳には、もう僕の姿すら映っていないようだった。
助けなきゃ。でも、どうすれば――。
「――下がれ、千鶴。それに触れるな」
凍てつく嵐を切り裂いて、冷徹極まる声が響いた。
振り返ると、いつの間にか境内に現れていた暁が、白衣の袖を翻して僕の前に立ち塞がっていた。その指の間には、青い炎を宿らせた数枚の呪符が、容赦のない輝きを放ちながら構えられている。
「あ、暁……っ! 良かった、さくらちゃんが、悪霊化のせいで――」
「分かっている。魂の崩壊が始まっているな。手遅れになる前に、今ここで俺が強制調伏(成仏)させる。千鶴、危ないから俺の背後に隠れていろ」
暁の声には、いつも僕に向けるような甘さも、嫉妬の熱も一切なかった。あるのは、ただ怪異を冷酷に排除する、天才陰陽師としての絶対的な『正論』だけだった。
「待って、調伏って……そんな乱暴なことしちゃダメだよ! 彼女はただ、僕に会いたくて、ずっとここで一人で待っててくれただけで――」
「それが間違いの始まりだ」
暁は僕の言葉を冷たく遮り、黒い霧を放つさくらちゃんへ、一歩も引かずに呪符を向けた。
「実体のない死者が現世にしがみつき、数年も同じ場所に留まり続ければ、この世の陰気に呑まれて魂そのものが腐り落ちる。これ以上放置すれば、自我を完全に失ったただの化け物になり、最後には魂が塵となって消滅する。未練ごと今すぐ焼き尽くして還すのが、陰陽の理であり、この魂のためだ」
正論だった。ぐうの音も出ないほど、彼は正しいことを言っていた。
けれど、さくらちゃんの流した涙を、あの数年間の孤独の記憶を直に感じてしまった僕の心が、その冷徹な正しさをどうしても受け入れられなかった。
「退け、千鶴。俺はお前を守らなければならない」
「嫌だ、退かない!!」
僕は気がつけば、暁とさくらちゃんの間に割り込み、両腕を広げて彼女を庇っていた。
「千鶴……!? 何を言っている。怪異に情をかけるな、お前が傷つく!」
生まれて初めて、暁の整った顔が、困惑と焦燥で激しく歪んだ。
僕の胸の奥で、激しい感情が濁流となって暴れ回る。
目の前で呪符を構える暁の姿に、第4章の海の中で見た、彼の『千年の孤独』の記憶が重なって見えた。主君を失い、死ぬことも許されず、狂気じみた執着だけで何百年も暗闇を彷徨い続けた、この男の壮絶な過去。
だからこそ、叫ばずにはいられなかった。
「君は……君は千年も待てたのに、どうして彼女の数年は許してあげられないの!?」
「……っ」
暁の身体が、弾かれたように硬直した。
「君の千年の孤独は綺麗で、彼女が真っ黒になるまで耐え続けた数年は、ただの汚い怪異の未練だって言うの!? そんなの、あんまりだよ……っ! 彼女だって、苦しくて、怖くて、それでも僕を好きでいてくれただけなのに……っ!」
ポロポロと、僕の目から涙が溢れ落ちて、砂利を濡らす。
現世の僕の、男としての、初めての、大切な初恋。それを「理不尽な怪異」として一括りに処理されていく悔しさが、涙となって止まらなかった。
僕は暁の琥珀色の瞳を、真っ直ぐに睨みつけた。
「もし……もし、僕が同じ目に遭っても、君は同じことが言えるの? 僕が死んで、幽霊になって、ボロボロに悪霊化しながら君を待ってたとしても、君は『理に反するから』って、僕を笑顔で焼き殺せるの……っ?」
「千鶴、それは――」
暁の顔から、完全に血の気が引いた。
呪符を握る彼の美しい指先が、見たこともないほどガタガタと激しく震え始める。
彼がどれほど僕を愛しているか、今なら分かる。もし僕が同じ立場なら、暁は世界を敵に回してでも、自分が悪霊になってでも僕の魂を繋ぎ止めようとするだろう。そんな彼に、この問いかけがどれほど残酷なナイフとなって突き刺さったか、理解してなお、僕は彼を拒絶するのを止められなかった。
「……もういい。暁なんか、大嫌いだ」
「あ……」
生まれて初めて、僕の口から放たれた、明確な拒絶の言葉。
暁は、まるで魂の半分をその場で圧殺されたかのような絶望の表情を浮かべ、構えていた呪符を力なく地面に落とした。
二人の間に、ギャグを挟む余地など一ミリもない、致命的で重苦しい沈黙が痛いほどに張り詰める。
だが、僕たちの感情の決裂を嘲笑うかのように、背後のさくらちゃんを包む黒い霧が爆発的に膨れ上がり、真夏の境内を完全な闇へと包み込んでいくのだった。




