第4章:真夏の臨海学校・水着と深海の未練 第1話:【日常・社会的死の境界線と、夜の海の予感】
「姫宮、お前なんでそんなに窓ガラスに顔面を押し付けてんだよ。外の田舎景色に親でも殺されたのか?」
大型観光バスの車内。補助席まで埋まった騒がしい空間で、隣の席の陣内が、心底わけがわからないという顔で僕を覗き込んできた。
「いや……ちょっと三半規管がデリケートだから、遠くの緑を見て脳を騙そうと思って」
僕は小さな笑みを浮かべ、さらに窓際へと身体を寄せた。
嘘である。僕が必死に目を背けているのは、車窓の景色でも車酔いでもない。二列前の通路を挟んだ席から、一秒たりとも瞬きをせずに僕を凝視し続けている、あの男の視線だ。
神代暁。
学校という社会的な空間であるため、さすがに「時空の壁を爆破」するような凶行には及んでいない。いないのだが、その代わりに放たれている無言の霊圧の質量が狂っていた。彼が僕を見つめるたびに、バスのエアコンが効きすぎて車内の気温が2度くらい下がっている気がする。
(視線が、重いな。本人に言うべきだろうか)
今までの怪異たちなら、対処法はいくらでもある。
だけど、あの高架下での一件以来、僕の心境は決定的に変わってしまっていた。
『今世でも、俺のすべてを賭けてお前を愛し、守り抜くと誓う』
男の身体に転生した僕を、真っ直ぐに「千鶴」と呼び、泥に汚れた手を両手で優しく包み込んでくれた、前世の最愛の騎士。
彼の顔を見るたびに、今まで女の子に恋心を抱いて生きて来たはずの僕の心臓が、胸の奥を引き裂くような切なさと共にドクドクと跳ね上がるのだ。魂が前世の純愛を覚えていて、現世の僕の理性をめちゃくちゃに揺さぶってくる。これが、何よりも気まずくて、恥ずかしくて、恐ろしかった。
「なぁ姫宮。お前が神代を意識しまくってんのもヤバいけど、神代の奴、お前が俺と目が合うたびに指の間で呪符を弄ぶのやめさせてくれねぇ? 俺の現世の寿命がマッハで削れてんだけど」
陣内が、胃のあたりを押さえながらリアルに怯えた声で囁く。
「ごめん陣内くん。今日の夜、宿に着いたら僕からちゃんと言っておくから」
「おう、頼むわ。マジでお前らの間に流れてる空気、高校生の臨海学校のそれじゃなくて『千年の因縁』の重さなんだよ」
(一般人なのに本質を突きすぎだね、陣内くん)
必死に胸の鼓動を押さえつけているうちに、バスは山道を抜け、青く広がる真夏の海へと辿り着いた。
神奈川県、某所の由緒あるお寺が管理する宿舎。
夕食のカレーを終え、自由時間になった頃には、あたりはすっかり夜の帳に包まれていた。
クラスの男子たちが「夜の砂浜で女子と花火しようぜ!」と色めき立つ中、僕は一人、宿舎の裏手にある静かな砂浜へと足を向けていた。タマさんとハヤテさんは「お姉様の水着姿を拝むまでは!」とアパートの押し入れで大人しく待機させているため、今夜は(暁の視線を除けば)静かな夜になるはずだった。
ざざん、ざざん、と。
規則正しく砂を噛む、夜の波音。
「ふぅ……」
誰もいない砂浜の波打ち際。昼間の熱気を孕んだ夜風が、僕の髪を優しく揺らす。
ここには、暁の激重な霊圧も、お姉様怪異たちのバブみの誘惑もない。ただの「普通の高校生、姫宮蓮」に戻れる、束の間の休息だった。
だけど。
その静寂を切り裂くように、僕の『調伏の一族』としての本能が、ピリピリと肌を刺した。
(……何だろう、これは。冷たいな)
真夏の夜のはずなのに、足元から這い上がってくるような、凍てつくような氷点下の空気。
ザザン、と大きな波が引いた瞬間。
濃密な、鼻の奥がツンとするような、底知れない寂しさを孕んだ『深海の霊気』が、海の底から溢れ出してきた。
「寂しい……。どうして、私を置いていってしまったの……。あんなに、あんなに泣き叫んでいた、愛しいお方……」
波の音に混じって、僕の耳に直接響く、昏い女性の声。
その声が僕の魂に触れた瞬間、なぜか僕の脳裏に、前世の記憶――あの燃え盛る戦火の光景が、いつもより鮮明に、そして酷く悲しいトーンでフラッシュバックした。
(この怪異の気配、前世の『あの日』と、繋がっているのか)
胸の奥が、静かに締め付けられる。
僕が恐怖と、魂の底から湧き上がる奇妙な哀切に身を震わせた、その瞬間だった。
ザバァァァンッ!!
目の前の海面が大きく割れ、月光を浴びて妖しく輝く、美しい鱗を持った『人魚のお姉様』が、その姿を現した。
彼女の濡れた瞳が、真っ直ぐに僕を捉える。
この真夏の臨海学校で、僕たちの「前世の愛の真実」を揺るがす、最も切なくて重厚な事件の幕が、今静かに上がろうとしていた。




