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第5話:【結・聖母の居座りと、一般男子の胃薬】


「あらあら……。二刀流の変則軌道なんて、お姉様ったら、現世で随分と意地悪な技を身につけられたのねぇ……(ぽっ)」

雲海の彼方から、衣服の土(雲?)を優雅に払いながら戻ってきた彼女は、頭から盛大に火花(霊力)を散らしながらも、おっとりとした聖母の微笑みを崩していなかった。

「……ハヤテさん」

初めてその名前を呼んだ。彼女は少し目を丸くしてから、ふわりと微笑んだ。

「……どうして神隠しを解決しようとしたの?」

「あらあら」彼女が目を細めた。「お姉様のお心をわずらわせるものを、私が放っておくわけないじゃないですか」

その一言が、すとんと胸の奥に落ちた。疑っていた。神隠しの犯人だと思っていた。なのにこの人は、最初から僕の街を守るためにここにいた。

何か言おうとした。ありがとう、の一言くらいは言えるはずだった。

「さあ、戻りましょうか、お姉様」

ハヤテさんが羽を広げて、僕をそっと抱き上げた。その動作に、いつものおっとりとした余裕と、ほんの少しの優しさが混ざっていた。

その瞬間だった。

「はぁ……っ、千鶴の放つ二条の閃光……。骨の髄まで愛の衝撃が染み渡る……。やはりお前は、俺の魂の支配者だ……」

雲海の彼方からまだ鼻血を垂らしながら戻ってきた暁が、ハヤテさんに抱えられた僕を見た瞬間、その美貌が凄絶な般若に変わった。

「……害鳥。その腕を離せ」

「あらあら、嫌ですよ。お姉様の移送は私の職務です」

「俺の千鶴を害鳥に触れさせるくらいなら、この空ごと灰にする」

暁が僕をひったくるように奪い取り、そのまま自分の胸に引き寄せた。

「千鶴、俺が連れて帰る。文句あるか害鳥」

「ございます。お姉様は私のものです」

二人が僕の両腕を引っ張り合い始めた。右が暁、左がハヤテさん。青い炎と漆黒の羽がバチバチと火花を散らし、その衝撃で結界の内壁にひびが入り始める。

「人をバトンにして引っ張り合いすな!! その衝撃で結界まで割れてきとるやないかいッ!!」

僕の魂から『千鶴姫』の残滓がスッと抜け、右手のハリセンが光の粒子となって消滅する。

と同時に、僕を取り巻いていた空中結界がガラガラと崩壊を始め、僕たちの身体はゆっくりと、元の学校の教室へと引き戻されていった。

気がつけば、僕と暁、そしてハヤテさんは、割れた窓ガラス(※暁の爆破によるもの)の前に立っていた。

「ひ、姫宮ァァァ!! お前、無事かっ!? っていうか何なんだよ今の空中散歩!? あと後ろのその、もの凄い美人と神代は何なんだよオイ!!」

教室内でガタガタと震えながら机の陰に隠れていた陣内が、僕の姿を見るなり猛ダッシュで駆け寄ってきた。

一般人である彼の脳内処理能力は、すでにキャパシティを大幅に超えているはずだ。それでも真っ先に僕の安否を心配してくれる陣内は、マジで現世のオアシスだと思う。

「あはは……陣内くん、心配かけてごめんね。これはその、ちょっとした演劇部の、高度なイリュージョン的な……」

「雲の上まで飛ぶイリュージョンがどこの世界にあるんだよ!!」

陣内の至極真っ当なツッコミが、僕の荒んだ心にじんわりと染み渡る。

「ふふ、お姉様の新しいお友達ですか? よろしくねぇ」

ハヤテさんがおっとり微笑み、陣内の頭を「よしよし」と優しく撫で回した。

「う、うわぁっ!? 何だこの人、めちゃくちゃ優しくて良い匂いするけど、背中の羽がガチの質感なんだけど! 怖い! でもちょっと甘えたい気もする!!」

「ダメだよ陣内くん。その聖母の包容力に呑まれたら、全自動で衣服を剥ぎ取られるストリップ地獄が待ってるから」

慌てて陣内くんをハヤテさんから引き離す。

すると、背後から暁が、氷点下の霊圧を放ちながらハヤテさんの前に割り込んだ。

「害鳥。作戦とはいえ、千鶴を拉致してやりたい放題やりやがって……。それだけは許せん。今すぐその羽を毟って現世から退場しろ」

「あらあら、陰陽師さん。私がここにいれば、お姉様がピンチの時にいつでも時速数百キロで送り迎えができるのですよ? いわば、お姉様専用の『超高速・聖母タクシー』です。不審者のお前より、よほど役に立ちます」

「……チッ、便利枠の分際で生意気な」

(天才陰陽師が実用性を天秤にかけて舌打ちするのか)

こうして、ハヤテさんは「お姉様の通学と怪異退治の移動手段(便利枠)」という建前のもと、我が家のアパートの押し入れ(タマさんの隣)に正式に居座ることが決定した。

現世の僕の狭い和室は、妖艶妖狐と謎の聖母という二大お姉様怪異の夜這い境界線となり、さらに学校に行けば、嫉妬で校舎を爆破するスパダリ陰陽師の視線に晒される。

僕の性自認と純潔の防波堤は、毎日が限界突破の連続だった。

「はい、姫宮。これ、胃薬」

翌日の昼休み、陣内が真顔で僕の机に胃薬の箱を置いた。

「……ありがとう、陣内くん。助かる」

普通の男子高校生としての平穏な青春は、もう二度と戻ってこないかもしれない。

 ふと、押し入れの方を見た。

 戸の隙間から、ハヤテさんの羽が少しだけ見えていた。あの肉食系の笑顔でも、聖母の微笑みでもなく、ただ静かに目を細めて、こちらを見ていた。

(……ハヤテさんも)

 続きを考える前に、戸がそっと閉まった。

 布団に潜り込んで、天井を見つめた。

 桜の精は、消える前に笑っていた。雨女も、最後に素の顔で僕を見た。みんな、千年もの間、ずっと何かを待ち続けて、それでもあんな顔で笑えた。

 ハヤテさんにも、あるんだろう。

 千鶴姫と共に過ごした時間。戦場から戦場へ、抱えて飛んだ空の記憶。「よしよし、頑張りましたねぇ」と言い続けた、千年分の言葉。それを全部、大切に持ったまま、ここに来てくれた。

 でも、僕には何もない。

 彼女たちが千年間抱えてきた「千鶴姫」を、僕は返してあげられない。前世の記憶も、共に過ごした時間の温度も、何一つ持っていない。ただ魂だけが繋がっていて、でもその中身は空っぽな、現世の男の子でしかない。

 暁も、そうだ。

 千年待って、「……関係ない」と言って、ここに来た。その重さを、僕はまだ全部受け取れていない。

目の奥が、じわっと熱くなった。

だけど、そんな僕の感傷を嘲笑うかのように、季節は急速に夏へと向かっていた。

次なるカオス――『真夏の臨海学校・水着と深海の未練編』が、すぐそこまで足音を立てて近づいていることなど、僕の疲弊した脳みそは、まだ知る由もなかった。


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