第2話:【事件・神隠しの上空、理性を溶かす聖母地獄】
ゴォォォ、と激しい風の音が鼓膜を震わせる。
……はずだった。
「あらあら、お姉様。風が冷たいでしょう? 私の羽を毛布代わりにしてくださいねぇ」
時速数百キロは出ているであろう超高速飛行の真っ只中。僕の身体は、彼女の大きな漆黒の羽にすっぽりと包まれ、風どころか寒さすら一切感じない完全防音・温度管理のセーフティエリアに護られていた。
気がつけば、僕たちの足元には一面の白い雲海が広がっている。
そこは、普通の人間には決して到達できない、上空に歪んで存在する怪異の巣窟だった。「ここは外から見えません。私が結界を張っていますから」彼女はおっとりと微笑んだ。(……結界。外から見えない。人を空へ連れ去る存在)さっきまで陣内くんに聞こうとしていた神隠しの話が、頭の中でぐるぐると回りだす。三人が消えた。痕跡なし。それって、まさか――。(この人が、神隠しの犯人なんじゃないか)
「あなた、いきなり教室から連れ去ってどこに行くの。あと陣内くんが完全に腰を抜かしてたよ」
「ふふ、ちょっと騒がしい害虫(一般人)がいましたからね」彼女はおっとりと微笑んだ。「……あなた、誰なの?」「あら、忘れてしまわれましたか。前世では、いつもこうしてお姉様を抱っこして、戦場から戦場へひとっ飛びしていたのですよ。お姉様の筆頭家臣、大天狗のハヤテと申します」(……天狗。大天狗。筆頭家臣)何かが、胸の奥で鳴った。前世の記憶ではない。でも、この声と、この羽の温かさが、どこか懐かしかった。
彼女は雲の上にそっと僕を降ろすと、慈愛に満ちた聖母の微笑みを浮かべた。
雲の上なのに、なぜかふかふかの絨毯のように足元が安定している。
「さあ、現世での慣れない男の子の暮らし、大変だったでしょう。毎日そんなにくまを作って……。私、悲しくて胸が張り裂けそうでした」
「え、いや、これはただの夜更かしというか、タマさんが夜這いに来るのをハリセンで――」
「いいのです、何も言わなくても分かりますよ。よしよし、頑張りましたねぇ」
その声に、一瞬だけ、おっとりとした笑みが消えた。
その人が、目の下のクマをそっと見ていた。聖母の顔でも、肉食系の顔でもない。ただ静かに、心配している顔だった。
ぎゅう、と。
再び、彼女の圧倒的な包容力が僕のすべてを包み込む。
その腕の力は、天狗としての怪力のはずなのに、驚くほど柔らかく、温かい。頭のてっぺんを優しく撫で回され、極上のアロマのような新緑の香りが脳髄を直接麻痺させてくる。
(……まずいな。今までの美少女怪異の『押し倒し』と違って、生存本能そのものが『このまま身を委ねていい』って囁きかけてくる)
現世の僕は、この「全肯定の甘やかし」に最も弱かった。
今まで張り詰めていた怪異への恐怖や、暁への戸惑いが、彼女の腕の中でみるみるうちに、とろとろと溶けていく。意識の輪郭が、根本から緩んでいくのが分かった。
「このまま……この人に、すべてを委ねたら、どれだけ楽だろう」
危うく、本音という名の濁流が口から漏れ出そうになる。
「そうですよ、お姉様。もう何も考えなくていいのです。現世の窮屈な制服なんて、今すぐ私が全部、綺麗に脱がせて差し上げますからねぇ」
「えっ」
おっとりとした聖母の微笑みのまま、彼女の指先が、物凄い手際の良さで僕の学ランのボタンをトトトトト、と超高速で外し始めた。
(笑顔で甘やかしながらやってることの手際の良さが、さすが神速の天狗だな)
「さあ、前世の時のように、私と一つになりましょう?」
彼女の細い指先が、僕のシャツの隙間から、ついに肌へと直接触れようとした、その刹那。
――ピキィィィン。
僕の魂の最深部、理性の最後の防衛線が、大音響と共にブチ切れた。




