第3章:天狗のハヤテと空中境界線 第1話:【日常・一般男子の胃袋と、おっとり天狗の急襲】
「なぁ姫宮。お前、昨日の放課後どこ行ってたんだよ。大雨の中、忘れ物取りに行くとか言って猛ダッシュで消えやがって。……って、おい、聞いてるか?」
昼休み。購買の焼きそばパンを頬張りながら、陣内が怪訝そうな顔で僕の顔を覗き込んできた。
「あ、うん。聞いてるよ、ごめんね陣内くん。ちょっと、ね。本当に大事な忘れ物だったから」
僕は小さな笑みを浮かべ、自分の右手をそっと隠した。
昨日、高架下で雨女をハリセン論破で成仏させ、そのまま前世の恋人(暁)に抱きしめられて性自認が爆発四散した記憶が蘇り、顔がカッと熱くなる。
「ふーん……。まぁいいけどさ。それよりお前、あの転校生の神代と何かあったのか?」
陣内が声を潜め、チラリと僕の斜め後ろの席に視線をやった。
「な、何もないよ」
「嘘つけ。神代の奴、お前が俺と話してる時だけ、周囲の気温を3度くらい下げて俺を凝視してくるんだよ。目が笑ってねえんだよ、ガチの殺意なんだよ。お前あいつに借金でもあんのか? 困ったら先生に言えよ?」
(借金じゃなくて前世の重すぎる愛なんだよ陣内くん。あと君の命が危ないからそれ以上こっちを見ないで神代くん)
背中に突き刺さる、暁からの「俺の姫に馴れ馴れしくするな」という無言の霊圧に冷や汗を流しながら、僕は必死に陣内を宥めた。
怪異に群がられ、陰陽師に執着される僕の現世において、こうして普通の男子高校生として心配してくれる陣内の存在だけが、僕の理性をこの世界に繋ぎ止める唯一の錨だった。
「そういえば陣内くん、最近よく聞く『神隠し』の噂ってどういう感じなの? うちの一族、怪異が絡んでる案件を調べてるんだけど」
「ああ、あれか。ここ二週間で近所の人が三人消えたらしいぞ。全員ある日突然いなくなって、痕跡もなし。警察が行方不明で処理してるけど、地元じゃ完全に怪異扱い」
(三人。全員痕跡なし……)
調伏の一族としての直感が、ざわりと肌を刺す。これは放っておけない。「消えた場所の共通点とか、時間帯とか、何かパターンは――」
深掘りしようとした、その時だった。
「――あらあら、見ぃつけた。私のお可愛いお姉様」
ふわり、と。
窓を閉め切った教室の中に、なぜか心地よい新緑の風が吹き抜けた。
同時に、僕の耳元で、脳がとろけそうなほど優しく、おっとりとした大人の女性の声が響く。
「え――」
振り返る暇すらなかった。
気がついた時には、僕の身体は「もの凄く柔らかくて、温かくて、良い香りのする大きな何か」に、後ろからすっぽりと包み込まれていた。
「あ、あの……?」
「ふふ、現世の肉体は随分と小さくて可愛らしいのね。そんなに細くなって……可哀想に。さあ、私の胸でよしよしされて、たっぷり甘えなさい?」
目の前に広がったのは、圧倒的な豊満。
僕を後ろから抱きしめているのは、新緑の着物を着崩し、頭に小さな頭襟を乗せた、絶世のおっとり美女だった。背中には大きな漆黒の羽が広がっている。天狗、だろうか。
「待って、これは無理だ。包容力がすごい」
タマさんや雨女のような「押し倒し」ではない。
この人のアプローチは、現世の僕の心を根底から揺さぶる、すべてを肯定して溶かす「聖母の抱擁」だった。あまりの心地よさに、僕の意識がふっと緩んでいく。
「おい姫宮ァァァ!? お前何の中に埋もれてんだよ!? 誰だよその美人! っていうか背中に羽生えてんだけどオイイイィィィ!!」
隣で陣内が一般人として完璧な悲鳴を上げている。
「ふふ、お姉様。ここは少し騒がしいですから、静かな場所へ移動しましょうねぇ」
彼女がおっとり微笑み、パチン、と指を鳴らした。
次の瞬間、僕の身体はその人の腕に抱えられたまま、重力を無視して教室の窓を突き破り、遥か上空――雲の上の世界へと、神速で拉致されていた。
「移動速度と性格のおっとりさが釣り合ってないな」
初夏の青空の下、僕は聖母のような腕に抱かれながら、現世二度目の限界を迎えるのだった。




