空白 #6
数週間経ったある日。あの男が来ない日が続いた。
理由は分からない。そもそも、知らないことのほうが多かった。
元通りになっただけだと言えば、そうだった。
この静けさが普通だったのだ。前までは。
「お疲れ様でした」
定時上がり。繁忙期でもないので、最近は残業のほうが少なかった。
帰り道はいつも通りだ。横断歩道をふたつ渡った先に駅がある。途中に例の赤いコンビニが一軒、ドラッグストアが一軒、それから夜になるとやけに明るいクリーニング店がある。
毎日通る景色は、大きくは変わらない。
だいたい同じ時刻、同じ人通り、同じ明るさ。
電車の窓の外も、だいたい同じ暗さだった。
そして改札を出る。
ここで右に曲がれば、あの男が働いていた青いコンビニがある。あれ以来、寄っていなかった。寄る理由がなかったのだ。
そのとき、ふと濃い匂いが鼻の奥に広がった。
ラーメン屋だった。以前、塩とんこつを食べたあの店。
……腹が減っただけだ。
野尾はそう結論づけて、店に入った。
「いらしゃっせーー!」
カウンターに座り、同じものを頼む。
しばらくして運ばれてきた丼から、湯気が立ちのぼった。
ズズズ。
味は悪くなかった。
悪くなかったが、それだけだった。
前に食べたときは、もう少しうまかった気がする。いや、うまかったというより、妙に記憶に残っていた。
とはいえ、野尾は数年前に塩とんこつを食べて美味しいと思ったときでさえ、顔に出なかった男だ。今さら味の違いを繊細に言語化できるはずもない。
ズズズ。
食べ終わった。替え玉はしなかった。もともとそこまで食べるほうではない。
「あざっしたー!」
店を出ながら、野尾は思った。
一杯で満足したのは、単に腹具合のせいではない気がした。
何かが違った。
前に食べたあの味と、少しだけ。
……この店には、しばらく来ないかもしれない。
街灯が帰り道を照らしていた。
同じ景色のはずなのに、ふと妙なことを考える。
あの男が勝手に入り込んできたせいで、一人でいるときの生活の感覚まで、少し狂ってしまった気がする。
……いや。気がする、ではない。たぶん、そうだった。
だが野尾は、その答えを妙に知りたかった。
なぜラーメンの味が違ったのか。なぜ今さら気になるのか。
気づけば、少し遠回りをしていた。
視界の端に、青いコンビニが見える。
……やはりいた。
だが、今回は一人ではなかった。
三井は外にいた。たぶん上がったばかりなのだろう。隣には男女が二人。派手な服装で、三井の金髪が違和感なく馴染むような空気だった。距離も近い。片方は、当たり前みたいに三井の肩に腕を回している。
別に、自分には関係のない話だった。
あの男の交友関係を知って、どうするというのか。別の顔なんて誰にでもある。
……今までだって、きっと気まぐれだったのだ。それだけだ。
野尾秀隆がこの三十年で身につけたことの一つに、物事をうまく片づける癖がある。
感情でも違和感でも、面倒なものには名前をつける。ラベルを貼って、分類して、箱にしまう。
気まぐれ。
そう結論づけて、野尾はそのままコンビニに入り、パンと缶コーヒーを買った。
もう頭の中では、明日の予定をなんとなく組み立てていた。
会計を済ませ、帰るのも、そのまま自然に終わるはずだった。
……のだが。
店の端のパーキングブロックに、三井が一人で座っていた。
少し体育座り気味に。人通りの落ち着いてきた夜のコンビニで。背中に、店のうすい光が落ちていた。
「……お久しぶりです」
三井が振り返る。
「ん、野尾さん? ……え、いつの間に?」
片手に持っていたカフェオレを危うく落としそうになっていた。
そんなに驚くことなのか、と野尾は思う。
「聞いてよー、野尾さん」
そこからはいつもの調子で喋り出した。
早口で、軽くて、隙間を埋めるみたいに。
――いつもの三井だ。
逆に少し安心した。
……でも、違った。
「……大丈夫です」
「え?」
「気を使われるの、得意じゃないので」
三井が一瞬だけ黙る。
いつもなら、もっと先に立ち上がっているはずだった。もっと体ごとこっちに来て、距離を詰めてくるはずだった。
なのに今日は、そこに根を張ったみたいに座ったままだった。
その感じが、野尾には少し分かった。
自分も似たようなふうに、動けなくなることがあるからだ。
「……は、野尾さんらしいや」
ワントーン下がった声だった。
初めて聞いた気がした。
「さっきさ、ホスト時代の知り合いとたまたま会ってたんだよね」
「はい」
「で、まあ、ちょっと昔話してて」
三井はカフェオレのラベルを親指でこすった。
「コンビニのバイトも、今日で終わり。店長に、もういいって言われちゃってさ」
「……そうですか」
「うん。別に帰る場所がないとか、そういうんじゃないんだけど」
視線が、どこか遠くに散っている。
「たまに思うんだよね。おれの居場所って、昼より夜なのかもって。……そっちのほうが息しやすいし」 「……そうですか」
野尾は、いつも通りの言葉数で返した。
三井はそれでも、ぽつりぽつりと喋り続けた。
「……昔いた店の近くにさ、変なおっさんいたんだよね。毎回なんかしらで警察に怒られてるような人」
「変ですね」
「でしょ。でもおれ、その人のこと結構好きだったんだよね」
「……なぜです?」
「なんでだろ。面白かったし、目が離せなかったからかな」
三井は少しだけ笑った。
「別に優しいって訳じゃないんだけどさ。おれ、ああいうの見て見ぬふりできないんだよね。気になっちゃうっていうか」
「……そうですか」
「だから、最初に野尾さん見たときも、もったいないなーって思った」
「何がですか」
「電車で、床ばっか見てたから」
野尾は黙って聞いた。
「付き合って、って言ったのもさ。ああでも言わないと、言葉届かなそうだったし」
「……」
「実際、合ってたでしょ? たぶん」
野尾はしばらく無言だった。
メガネの奥の目は相変わらず読みづらい。
だが、やがて静かに言った。
「……違います」
「え?」
「気づいてました。金髪は目立つので」
「……え?」
「正確には、見て見ぬふりをしてました」
三井が固まる。
「でも、分かりました」
「何が?」
「話しかけてきた理由です。納得はできます」
一拍おいて、三井が吹き出した。
「……っ、なにそれ」
「事実です」
「いや、前から思ってたけどさ、野尾さんってちょっと変わってるよね。いい意味で?」
「……疑問形ですか」
三井はしばらく笑っていた。
いつもより少し深く、でもようやく自然に笑った気がした。
「……あー、笑った。ねえ」
「何ですか」
「野尾さん家のお湯、借りていい?」
三井がコンビニ袋を持ち上げる。中にはカップ焼きそばが入っていた。
「店長にもらったんだよね、これ」
「……どうせ断っても来るんですよね」
「あ、バレてた? ってことで、今日も後ろついてくねー」
「……自覚あったんですね」
帰り道。
少し前と同じようでいて、やはりどこか違っていた。
静かなはずの道を、二人分の足音が並んでいく。
野尾は前みたいに傘も差していないのに、なぜかその歩幅を気にしていた。
お湯は返せない。
そんなことを、野尾はひっそりと内心で突っ込んでいた。




