小雨 #5
野尾秀隆の勤めている会社は、中堅どころのメーカーだった。
三十歳。経理部。勤続八年。
新卒から同じ会社に勤め続けている。堅実さだけが取り柄だった。
毎日出社して、伝票や請求書を処理し、数字の合わない箇所を潰していく。勤務中の私語は少ない。出世欲もない。会社の雰囲気も、可もなく不可もなく。月末や締め前は少し残ることもあったが、別にブラックというわけでもなかった。アットホームでもなければ、派手でもない。ごく普通の会社。
それが野尾にはちょうどよかった。
帰宅後の部屋も同じだ。
静かで、狭くて、必要最低限のものだけがある。変わらない毎日。本来なら、それで足りていた。
なのに、その日は妙なことばかり目についた。
手首のボタンの糸のほつれ。
冷蔵庫の空白。食の偏り。
そして、棚に並べていたカップ麺が尽きていること。
戸棚をゆっくり閉める。
……仕方ない。買い出しに行こう。
今日は日曜で、外は小雨だった。もともと出かける予定はなかったが、在庫がないまま何もしないのは落ち着かない。野尾は重い腰を上げて身支度をした。
しばらくして、地味な色合いの傘を差して玄関を出る。服も傘も、無難な色ばかりだった。
だが、家の前には見慣れた金髪が立っていた。
「あ、野尾さん。ちょうどいいや」
もはや、なぜいるのかは聞かなかった。
「傘、もう一本ない? 同じ傘でもいいけど」
その問いへの答えも、もはや一択だった。
野尾は黙って部屋に戻り、予備の傘を一本持ってくる。
「……どうぞ」
「ん、ありがと」
三井の髪は、根元に黒が混じりはじめていた。ところどころに小さな水滴がついている。
「で、今日は何の日? 買い出し?」
「そうです」
「じゃー、俺もついでに何か買お」
雨の中を、二人で歩く。
スーパーの自動ドアが開き、同時に傘を閉じた。
「見て見て、野尾さん。キャベツ安い。買おーよ」
「あまり自炊しないので結構です」
「えー、安いのに」
「安くても使わないなら同じです」
「おれ、こう見えて卵焼くくらいならできるから。米も炊けるし」
……最低限ではないだろうか。一人暮らしならば。
その後も三井はいちいち安売りの札に反応し、野尾はそれを流しながら必要なものだけを籠に入れていった。気づけば三井の買い物籠の中身は、野尾の倍くらいに膨らんでいた。
そして三井は、当たり前のように家までついてきた。
「お邪魔しまーす」
言いながら、当たり前のように買ったものを広げる。
そのタイミングで、野尾のスマートフォンが震えた。会社からだった。
「……すみません」
短く言って、寝室へ下がる。扉を閉めてから電話に出た。
「お疲れ様です」
とはいえ、扉一枚では完全に音は遮れない。
野尾の声はうっすらと向こうにも聞こえていただろう。確認します、とか、折り返します、とか、そんな事務的な言葉がいくつか続く。
しばらくして電話を切った。
が、その直後、寝室まで焦げ臭い匂いが漂ってきた。何かを炒めるような音まで聞こえる。
嫌な予感しかしない。
野尾は小さく息を吐いて、寝室の扉を開けた。
「……何してるんですか」
ローテーブルの上には、チャーハンによく似た焦げたものが皿に盛られていた。
いや、一応料理なのだろう。見た目はだいぶ怪しいが。
「あ、野尾さん。暇だったから即席チャーハン作ってみた。キムチ入れとけば大体どうにかなるかなって。おれ、ピリ辛好きだし」
「……どうにかならなかったみたいですね」
野尾はとりあえず換気扇を回した。
そしてすぐに思い知る。この男が一人で放置しても大人しく待っているほうだと、考えたのが間違いだった、と。
結果として、余計なタスクが増えてしまった。
「ちょっと焦げたけど、味は悪くないよ。食べてみて」
「……いただきます」
野尾は箸を取った。
やはり、焦げていた。
キャベツも入っている。たぶん芯のほうまでしっかり入っている。
だが、食べられないほどではなかった。
思っていたよりは、ずっとましだった。
というかそもそも野尾は、食べ物にそこまで強いこだわりがない。大抵のものは美味しいかどうかより、食べられるかどうかで判断してしまうところがある。
「……ありがとうございます」
「ふ、どーいたしまして?」
三井は味の感想を深くは聞いてこなかった。
ただ黙って、野尾が食べ終えるのを見ていた。本当に、それだけを見届けるみたいに。
その視線が少しばかり気まずくて、野尾は余計なことを考えないように、目の前のチャーハンを片づけた。
「……ご馳走様でした。皿は洗っておくので」
「……そっか。じゃー、よろしく」
三井はあっさりそう言って、立ち上がった。
「じゃあね、野尾さん。また来る」
…いつもなら、もう少し居座る。
そう思ったが、引き止めはしなかった。今までも、引き止めたことなど一度もない。
玄関の扉が閉まる音がして、部屋が静かになる。
野尾は皿を洗いながら、ふと思った。
たしかにあのチャーハンは少し焦げていた。だが、匂いから想像していたほどひどくはなかった。
そのことが少しだけ引っかかった。いつもそうだった。あの男が帰った後は、必ずと言っていいほど小さな引っ掛かりを残していく。だが、考えても仕方がない気がして、やがて頭の中から薄れていった。毎回そうだった。
一人になると、残るのは現実だった。
片づけるべきこと。返すべき連絡。考えたくないこと。
気が重い。
やはり、一人でいる日のほうが平常心ではいられる。
皿を拭いて棚に戻す。小さく、乾いた音がした。
野尾は酒も煙草もやらない。
だが、今日のような無性に疲れる夜をごまかす方法は、知りたかった。
特に、ここ最近は。




