定着 #7
ある日。
三井は、言った通りしばらくあのコンビニにいなかった。
二週間ほど経っただろうか。
……もう来ないのかもしれない。
その間に、野尾は少しだけ前の静けさを思い出した。内側が乱されることも減った。カップ麺ばかり食べるのもやめた。
きっと、それでよかったのだろう。
いや、それがいいのかもしれない。
そう思う一方で、あの夜の生ぬるさが、いつの間にか自分の日常に馴染み始めていたことにも気づいていた。
気づかなかった。
自分が、もうとっくに湯の中にいたことに。
そして、ある日。
ピンポーン。
「やっほ、野尾さん。久しぶり」
扉の向こうから、聞き慣れた声がした。
「実はさ、忘れ物取りに来たんだよね。俺の帽子、見なかった? お気に入りだったんだけど」
「……見てないですね」
「んー、そっか。じゃ、一旦お邪魔するね」
そう言って、三井はいつものようにずかずかと上がり込んできた。
その瞬間、野尾は気づいた。
鼻の奥に、かすかに甘い香りが残る。
香水だった。
意外かもしれないが、この男からそういう匂いがしたことは一度もなかった。少なくとも、野尾の知る三井はそうだった。コンビニで働き始めてからは、なおさらだ。
……頭をよぎった可能性には、ひとまず蓋をした。
が。
自分でも少し驚いた。
大抵の言動は、合理の範囲で片づけられると思っていた。なのに口をついて出たのは、野尾自身の予想を裏切る言葉だった。
「……カップ麺、切れてて」
三井が、背を向けたまま固まった。
野尾は淡々と続ける。
「……まあ、どうしようが構いませんが」
「……」
「来る前には連絡してください。困るので」
三井は小さく息を吸ってから、ゆっくり振り返った。
「んー、分かった。覚えてたらするよ」
「……覚えてたら、じゃなくて善処してください」
「はいはい」
三井は少しだけ笑った。
「……てっきり怒られるかと思ってた。いつもみたいに」
「怒っているわけではありません。ただ、少し鬱陶しい瞬間があるだけで」
「わお。さらっと刺すねえ」
その口調が、少しだけいつもの調子に戻っていた。
三井はそのまま戸棚の前にしゃがみ込み、中を覗いた。そこにいつも積まれていたカップ麺の壁は、もうなかった。手前にぽつんと残っているのは、カップ焼きそばのわさび味噌。最後のひとつだった。
「……じゃ、最後のやつもらおっかな」
「勝手にどうぞ」
三井はそれを取り出して、軽く掲げてみせた。
「今度買うときさ、袋麺とかどう?」
「……なんで急に」
「ん? なんとなく」
しばらくして、三井は焼きそばにお湯を注ぎ、ローテーブルの前にしゃがみ込んだ。
「見て見て、野尾さん。俺、割り箸きれいに真っ二つに割るの得意なんだよね。ほら」
実にどうでもいい話だった。
が。
今日は少しだけ、それを鬱陶しいだけとも思わなかった。
「……」
そして結果、割り箸は見事に左右のバランスを失っていた。
「あれー? 昨日はうまくいったんだけどな」
三井は気にした様子もなく、その歪な割り箸でお湯を捨て、ソースを混ぜた。
ずる、と音を立てて焼きそばをすする。
「ねえ、十回に何回成功したら得意って言っていいのかな」
「……少なくとも、五分五分なら得意とは言えないんじゃないですかね」
「んー、じゃあ今から十本くらい試していい? 俺、買い足すから」
「……」
「ん、その顔するならやめとく」
奇妙な毎日だった。
朝起きて、会社に行って、帰る。
今までは、それだけで出来上がっていたはずの日常だった。
けれど今は、そこに三井がいた。好きにしろと言えば、本当に割り箸を十本割りかねない男が。
ずず、と三井が焼きそばをすすった。
「……ラーメン屋とかもありかもな」
「……急に何なんですか」
「いや、なんか。毎日食ってるし」
三井は少しだけ肩をすくめた。
「やりたいことやるって、案外そういうもんじゃない?」
そう言いながら、食べ終えた容器を洗って流しに置いた。
「まあ、でもどっちみち、あのコンビニにはもう少し世話になるかも」
「……この前で終わりじゃなかったんですか」
「んー、そうだったんだけどさ。いったん落ち着いただけで、いてくれたら助かるって言われて」
「そうですか」
「うん。それに、あそこだと色々都合いいし」
野尾は追及しなかった。
もはやする気がないのか、するだけ億劫なのか、自分でもよく分からなかった。
少し間を置いてから、野尾は三井の足元に置かれたコンビニ袋へ視線をやった。
「……あの」
「ん?」
「勝手に増やさないでください、カップ麺。毎日食べてるわけじゃないので」
「……え、今さら?」
「今さらです」
「んー、じゃあ牛丼? 居酒屋? 喫茶店とかも知ってるよ?」
「……そういう意味じゃないです」
「違うの?」
三井はそう言ってから、野尾の前に正座した。
妙に改まった顔で。
「じゃあさ。カップ麺補充隊に任命してよ、野尾さん」
「……は?」
「そしたら、ここ、切らさないから。無限に湧いてんじゃないかってくらい補充する」
「意味が分かりません」
三井はにやにやしている。ねぇ、だめ??と野尾の顔を伺いつつ。
「……三井さん。」
そのとき、野尾は自分が初めてその名字を口にした気がした。
三井の目が、ほんのわずかに揺れたように見えたが、野尾は見ないふりをした。
「カップ麺は自分で補充します」
「はい」
「なので、連絡だけ前もってしてください」
「……はーい。」
三井は正座を崩した。
あまりにも野尾らしいその返答に、妙に力が抜けたらしかった。
「てか、おれのこと、しょうがでいいのに」
「……」
「敬語じゃなくてもいいし」
「……」
いつもの無言。
なのに三井は、それでなんとなく納得したようだった。
「……まあ、いいや。敬語じゃない野尾さんって、なんか野尾さんじゃなくなる気もするし」
それから、三井は少しだけ笑って言った。
「ありがとう、野尾さん。じゃ、次来るときは連絡する。多分」
「……多分、という言葉は聞かなかったことにします」
三井が吹き出す。
「ふっ、なにそれ?」
「確認です」
まあ、いいか、と野尾は思った。
この男は、肝心なところでは案外しれっとやる。
それくらいのことは、この数ヶ月で少しだけ知った。
それ以上のことは、まだ分からない。
分からないままでも、たぶん困らない。
カップ麺が切れたら、連絡くらいはするだろう。
あるいは、しないかもしれない。
……まあ、そのときはそのときだ。
置いていくな、カップ麺。
いや、正確には。
置いていくなら、せめて一言寄越せ。
そのくらいのほうが、今の自分にはしっくりくる気がした。
多分。




