092 :// 超えられない壁 -1-
「……おかしい」
迎賓館のメインルーム。
食事をとり終えると食器はメイドたちが下げ、ゾルカスが食後のお茶を淹れる。
この流れもルミナディアに来て1か月も経つと、もう慣れたものだ。
ゾルカスが入れてくれたお茶はいつも通りいい味だ。
そしてそのお茶の水面に波打つ自分の顔も、いつも通りに美しい。
しかし納得行かず、ファグロは憂鬱で溜息を吐いた。
「どんなに口説いても振り向いてもらえないことですかな?」
「……残念だが、そのことではない」
ふう、とファグロが物憂げに漏らせば、ゾルカスが豊かなヒゲを揺らす。
これはおそらく笑っている。
「そうですな、忘れておりましたぞ。“仕上げ”までは、1割ほどには靡いてもらえないのでしたな」
「……ゾルカス」
「おっと失礼。坊っちゃんについて周るのも久々です故、この老骨舞い上がっておるようです」
「だから坊っちゃんはやめろと言っているだろう」
「坊ちゃんと呼ばなくなるのは、この老骨が死んだ時でしょうな」
ゾルカスはドーラスト家に古くから仕えている家臣で、ファグロが物心ついた頃にはすでに今と同様の豊かな白髭を揺らしていた。
ファグロのおむつの色すら知っているので、メイドたちとは違いこうして気安く話す仲である。
「……そうではない。何か妙な違和感があってな」
「違和感? 何にですかな?」
「それもよくわからないが……このルミナディアにいると、時折妙な……背中が震えるような感覚がする」
「まさか……」
ゾルカスが大きく目を見開いた。
「本当にクロア嬢に惚れてしまっ……!?」
「いや、それはない」
「でしょうなぁ」
即答に、ゾルカスもわかっていたとでも言いたげに納得して見せる。
ファグロは熱いお茶を喉に滑らせて、煌びやかな過去に思いを馳せた。
遊び慣れた貴婦人。
西魔国から伯爵家に嫁いできた、元は西魔国侯爵家の三女だったか。
政略結婚だったからか、何年も前から夜会の度に姿を消し、朝になって隠れるように邸宅へ戻る姿が目撃されていた。
男を知らなかった無垢な男爵令嬢。
身分は低いが、女神の愛を受けて生まれたに違いないと誰もが疑わない美少女。
だが本人は奥手で、手を差し伸べる数え切れない男たちの甘い誘いからずっと逃げていた。
南魔国王城図書館の司書。
平民ながら優秀な記憶力を持ち、身分として異例の司書となった。
表情が乏しいために本が恋人と王城務めの者たちから揶揄されているが、その眼鏡の奥には艶美な顔が隠されていた。
他にも、既婚者も未婚者も、貴族も平民も、城下の町娘、とっくに孫もいる老婆すら。
女性であれば、自分に見つめられて頬を赤らめない者はいなかった。
それはファグロにとって、至極当然のことだった。
何故なら、自分が誰よりも美しいからだ。
こうして思い返してみても、彼女たちの方が好みだし、魅力的だ。
それは間違いない。
今回の仕事もいつもと変わらぬもので、当然すぐに終わるものだと思っていたというのに。
■□
『ご機嫌麗しゅう存じます、南魔王様。召喚に応じ、馳せ参じました』
『ご苦労、ドーラスト男爵。早速だが頼みたい仕事があってな』
王城から呼び出され、南魔王からの勅命を受けた日。
『【非干渉地帯】に新たな居住地区が出来た。
名をルミディア自治区と言うのだが、これがまた面白いところでな。魔族に半獣族、人族、全てが住まう場所だそうだ』
『人族も……ですか』
小さな頃に読んだ童話以来、聞いていない単語だった。
ファグロとしては角があろうがなかろうが、尻尾があろうがなかろうが、瑣末なこと。
大事なのは、美しいか否か。
『ああ。率いているのは海の外から来たという者で、我々の見知らぬ高度な技術を有しているらしい。
こちらでは入手困難な巨大魔鉱石と卓越した魔導具の安定供給をしてくれるのでな、未発達な地区だが対等な商売関係を築き始めた。
そこで、ドーラスト男爵には使者としてしばらくそちらに滞在して貰いたいのだ』
『使者……。南魔国の代表とするならば、もっと身分の高い者の方がよろしいかと思いますが』
『いいや、君が適任だ』
完全な断定の言葉に、ファグロはその意味を即座に察した。
『ルミナディア自治区を束ねる者の名は、クロア・ルミナディア。女性だ。
あとは言わずともわかるだろう? ドーラスト男爵』
妖しく笑みを浮かべる南魔王に、あえて口には出さなかった真の命令を察した。
『ああ、そういうことでしたか。御意に』
そういった仕事は、何度も引き受けてきた。
この国で最もその仕事が得意な者が自分である自負がある。
慣れたものだ。
『あまり南魔国を離れると悲しむレディーが多すぎますので、早めに片付けてしまっても?』
『出来るものなら構わん。俺の想定では時間はかかるだろう。
アレは稀有な存在だ……過程も楽しみにしているぞ』
『南魔王様も、相変わらずお人が悪いですね』
■□
それがルミナディア自治区に来てから、初めての挫折を感じている。
ドーラスト侯爵家の四男として生まれ、当然、何不自由なく育った。
幼い頃から美しいと誰もが褒めたたえた容姿に生まれ、当然、仕事にもそれを生かし、功績が認められて一代貴族として叙爵。
貴族なのだから当然、何にも困ったことはない。
それが今、順風満帆な人生に初めて不穏な影が差した。
任務失敗の文字が頭の片隅をちらついては消えるを繰り返している。
(しかしなんだ、この感覚は)
ゾルカスの言うような恋慕でもなければ、苛立ちでも不安でもなければ、憤りでもない。
ルミナディアに来てからというもの、何か妙な感覚がある。
まるで背中をぞわりと、柔らかな羽根で撫で上げられるような。
最初に感じたのは、ルミナディア自治区に来て初めてクロア・ルミナディアを見たとき。
見たこともない、見るはずのない、全身漆黒に包まれた姿。
別にその直前に目にした麗人に比べれば落胆も否応なしであるほど、彼女は普通のどこにでもいる人間だった。
さほど美しくもなく、官能的でもなく。
普通の服装をして南魔国を歩いていたなら、きっと目にも留めなかっただろう。
そう、何よりも目を引いたのは、服装だ。
呪いの色たる黒を自ら身にまとう人間がいるなど、想像したこともなかった。
存在するはずがないその姿を見たとき、ぞわりとしたのを鮮明に覚えている。
そしてその感覚は、それからも時折現れては姿を消した。
名の分からぬ、どこか懐かしいような不思議な感覚。
「坊ちゃんの初めての敗戦に立ち会えて何よりですぞ」
「まだ負けてないからな」
まだ負けが決まった訳では無い。
しかしゾルカスにそう言われても仕方ないほど、不甲斐ない現状だ。
ファグロは立ち上がり、備え付けの戸棚に保管していたものを取り出す。
「ついにそれを使うのですかな?」
「そろそろ南魔国で待っているレディーたちがあまりに可哀想だ。
もう少し手ごたえを感じてからが良かったが、仕方ない」
なみなみと液体の入った大きめの瓶。
最終手段として念の為に持ってきたものだったが、まさか出番が来るとは思っていなかった。
その瓶を手にするファグロを前に、ゾルカスがやれやれとでも言うように豊かなヒゲを撫でつけた。
「……ルミナディアにいる限りは、ご当主様から血統術は解かぬよう言われております。
仕掛ける際には“誤作動”には充分にご注意なされますよう」
「私を誰だと思っている」
最終手段を使ったならば、失敗はあり得ない。
ファグロは不敵に笑みを浮かべた。
「“誤作動”はない」
■□
「っしゃー! できたー!!」
「やっと完成だね!」
シロネ社の裏で、クロアとシグは手を叩き合って喜んだ。
鍋に入った水色が鮮やかな液体、スライム洗剤の完成である。
「ゼロから作るって大変だったけど、なんだかすごくいい気分」
「我々はルミナディアの歴史変遷に大きく貢献したのだ……。シグ君、これが達成感というものだよ。
ヘイヘイ、タッチしてタッチ!」
「こう?」
クロアとシグでハイタッチして、喜びを分かち合う。
スライム洗剤の素材別割合テスト、およそ10回。
その後の摩耗テストは数百回にも至った。
結果、服を急激に傷めてしまうこともなく、簡単に汚れ落ちが可能な洗濯用スライム溶液が出来上がった。
あとは各所に依頼済みの、洗濯のための設備と建物の完成を待つばかりだ。
「お疲れ様でした」
最後まで遠くから見守るだけだったファグロが歩み寄ってくる。
手伝ってもらっていないので当然だが、全く感動のなさそうな顔は、おそらく洗濯の苦労を一ミリも知らないからだろう。
これだから貴族は、などと思うクロアの内心を知らないファグロが、そっと微笑んだ。
「もしよければ、私からも労いをさせて頂けませんか?
明日は休日とお聞きしました。日頃の感謝も込めて、少々特別な夜をこのあと共に出来ればと」
「いや、別にそこまで特別なことは……」
確かに苦労はしたが、そういう表現されると何か違う気がする。
戸惑っていると、ファグロはクロアの耳元に口を寄せた。
「実は西魔国から仕入れた特別なお酒があるのです」
「酒……」
クロアの耳がピンと立つ。
「なんと米から作るらしく、酒精も高いのです。珍しいでしょう?」
米から作る酒ということは。
「に、“日本酒”……!?」
「リホン?」
クロアの戸惑いは何事もなかったかのように空へと消えていった。
満面の笑みでファグロに敬礼して見せる。
「いいおつまみを作ります!」
「ありがとうございます。それでは今晩、迎賓館でお待ちしておりますね」
珍しくキラキラと輝く瞳になったクロアに満足した様子のファグロはどこかへと去っていく。
まだ時間はあるが、もう準備するのだろうか。
「……クロア……」
シグがそれ以上は何も言わずにじっとクロアを見つめる。
顔にこれでもかと言うほど心配といくつも書いてあって、クロアは苦笑いした。
「ダイジョーブだよ。こっちも準備は万端なのさ」




