責任の休息
今回はフウロウ視点です。
深夜三時。世界は、音を失っていた。
見渡す限りの海は、黒く沈み——どこからが空で、どこまでが水面なのか、境界すら曖昧だ。
月は雲に隠れ、星明かりだけが頼りない光を落としている。
その中を。水中班長であるホゲの巨体だけが、確かな質量として海を割って進んでいた。
——ドン……ドン……
規則的な水のうねり。低く、重く、だが確かに生きている証のような鼓動。
その背の上では、俺たち以外全ての隊員が、眠りについていた。
隊長、シャド殿、スライム、そしてカビ助……。
彼らはまだ若い。この時間ともなれば、眠らなければ成長に悪いだろう。
静かな寝息。疲労に沈んだ身体。戦いを前にした者にしては、緊張感のない姿。
リラックスできていると言えば聞こえは良いが、悪く言えば無防備だ。
——この瞬間での敵襲があり得てしまう。
だからこそ俺が、守らなければならない。
俺は、目を閉じることなく空を見上げていた。
風が、流れている。
湿った潮風。微かな気流の乱れ。遠く、遥か彼方で生まれた波の気配。
すべてが『情報』だ。
敵が近づけば——必ず“異物”として混ざる。俺の一族に伝わる能力である。
それを見逃すことは、許されない。
命を預かる者、"班長”として。
——絶対に。
「お前さん、そろそろ寝たらどうだァ?」
足元から、低い声が響く。
俺と同じで一晩中気を抜かない男……ホゲだった。
彼は一見陽気で自分勝手に見えるが、やる時はやる男。戦いの場に全員を無事に送り届けるという……この最重要任務を、全霊をかけて遂行している。
その声は相変わらず腹に響くが、不思議とこの静寂を壊さない。
「俺がどうせ起きてるんだ。お前さんが気を張らなくても良いんじゃねェのか?」
「この暗闇の中では、敵が襲ってきても気付くのに遅れるだろう?」
視線を動かさずに答えた。
「——俺の能力が不可欠だ。休む暇などない」
「はぁ……相変わらずだなァ」
呆れたような、だがどこか優しい響き。
ホゲはそれ以上何も言わなかった。
言っても無駄だと、分かっているのだろう。
ありがたい限りだ。
そんな時だった。
「よう、お前ら。やっぱ起きてたか」
背後から、足音。振り返るまでもなく分かる。
このずしりとした空気は——
地中班長、モグドンだ。
「仕事は終わったのか?」
俺は気がかりをすぐに尋ねる。
「ああ。あの女から、ある程度は引き出せたぜ」
彼はニヤリと笑って答えた。
だがその言葉に、俺は僅かに眉を動かす。
「……そうか」
違和感があった。風は、嘘をつかない。
この静かな海上で。女の悲鳴の一つも上がれば、気流に乗って届くはずだ。
だが——
「メドゥーサの悲鳴など、聞こえなかったが?」
淡々とした問い。
疑いではなく、“確認”として。
モグドンは一瞬だけ黙り、すぐに、肩をすくめた。
「あー……それなんだけどよ」
あまり話したくなさそうな気配。
だが、話してもらわないと困る。このままだと俺は、お前を……。
「実はな……」
そう思っていたが彼はすぐ打ち明けてくれた。心配は杞憂だった。
「アイツ、俺に惚れたみたいでさ。拷問せずともベラベラ喋ってくれたんだよ」
「…………?」
一瞬の沈黙。
ちょっと待て。今、なんと?
惚れ? ええ……惚れ?? しかも向こうから?
あり得ない……だが辻褄は合う? 畜生……俺の風を読む力じゃ、真偽までは読めない。シルヴァ殿に、確認して貰いたい話だがなぁ。
「はぁ?」
思わず、間抜けな声が漏れてしまった。
俺は急いで平静を取り戻す。
「……そうか。ご苦労だったな」
俺は、あっさりと頷いた。
まあ……納得はいく理由だ。少し笑えるが。
「疑ってすまない……。引き続き頼んだぞ」
「はは、助かるぜ。“効率厨”に褒められるとはな」
モグドンは軽く笑う。
だがその奥に、わずかな疲労が滲んでいた。あの女の相手をするのは骨が折れそうだしな……。
「お疲れ様……だ」
また、声が思わず漏れた。
見張りで一睡もしてないせいか……?
「お前も……お疲れみたいだな」
察したのか、モグドンは言った。
そして、差し出される一杯のグラス。透明な液体が、わずかに揺れる。
ああ……これは、酒の誘いか。
「一杯どうだ?」
「断る」
即答だった。
「——気を抜くつもりはない」
「かてぇなぁ……」
モグドンが肩を竦める。
その時。再び足元から響く声。
「おいフウロウ、今日くらいは良いんじゃないかァ?」
——ホゲが口を挟む。
「交代役のスライム博士達も、もうすぐ起きてくる頃合いだしよォ」
まあ、確かに……あの博士なら信頼できる。
ああ見えて、裏切ることはないだろうし……装置を用いた異物感知。見張りとしては、俺の次に適任だろう。
だが——
「駄目なものは、駄目だ」
声が、わずかに強くなる。
「それを飲んで……気を抜けば、また——」
言葉が、途中で止まる。
脳裏に浮かぶ……かつての失敗。
「あの時、俺は、一族を……!」
酔いしれた夜。遅れた判断。迫る敵軍。
——倒れていく仲間。
名を呼ぶ声。返せなかった指示。そして——静まり返った風。
俺だけ、生き残ってしまった。
「「…………」」
空気が、少しだけ重くなった。
ホゲが波を掻き分ける音だけが残る。
「——お前さ」
モグドンが、ぽつりと呟く。
「そう言って何年、気張ってんだよ?」
「……さあな」
「休まないと、どんな人間でも壊れちまうぞ……」
軽い口調。だが、言葉は真っ直ぐだった。
ホゲも再び声を上げる。
「酒が嫌いな訳じゃないんだろォ?」
「……まあ」
思えば、味の面で見れば好みの要素しかない。
自力で気を抜くことが出来ない俺に、“許された休息”を与えてくれて。酔いしれた時の、風に身を預けたような感覚。そして何より、深い味わい。上空の風、地表の風、湿った風、乾いた風……そういう“違い”を読む快感と、あの多層構造がリンクする。
だが、それでも……俺は……っ!!
そう葛藤していた時。
「ああ、そういや……これが“最後の晩餐”かもしれないしな」
モグドンがぽつりと呟いた。
俺は哀愁に満ちた彼の言葉に『碌でもない』と思ってしまった。
「冗談でも口にするな……! そんな言葉!!」
即座に返す。低く、鋭く。
その言葉を、許せなかった。我らの隊長が……あの外道共に負けるだと?
「はは、悪ぃ悪ぃ」
モグドンは笑う。まあ、疲れで彼も気が動転しているのだろう。
疲れたように腰を下ろし……そして、少しだけ真面目な声になる。
「でもな……悔いのないように生きて欲しいとは思ってる」
グラスを軽く揺らしながら、続ける。
悔い……だと? この油断が、本当の終焉を招く可能性があるのに?
「お前一人で“背負うな”って話だ」
「あ…………」
その言葉に、俺はまた声を漏らして感嘆する。
こいつは……俺に『油断しろ』と言っている訳じゃない。
『任せろ』と、言っているのだ。
こんな俺を心配して……背中を預けることの大切さを伝えようとしている。
「見張りも、責任も。全部一人でやるもんじゃねぇぞ」
静かな海の上で。
その言葉だけが、妙に重く響いた。
俺は、何も言わなかった。
ただ、風を読む。
異常は……ない。敵の気配もない。
静寂。
完全な、静寂。
——異常はない。本当に……ない。
風は静かだ。静かすぎるほどに。
(なら……今だけは)
だが——!
(いや、違う)
ほんの一瞬だけなら、休める。
仲間を、信じる。
「一杯だけだぞ?」
気付けば、そう言っていた。
ホゲとモグドンが軽い歓声を上げる。
「オオオオっ!!」
「……よっしゃあ!」
どこか、場違いなほどに陽気な声。
油断している。敵前で……?
だが——同じくらい真剣に、皆のことを想っている。
夜間の冷たい海上でも……暖かく、感じる。
この空気も、嫌ではなかった。
「さぁ。寄越せ」
「おう!」
グラスを受け取る。
冷たい感触。わずかに揺れる液体。
仲間たちの気配。守るべき存在。
この時間。この場所。あの悔恨。この教訓。
——すべてを、感じながら。
一口。喉に流し込んだ。
その……次の瞬間。
「あ……ははは」
視界が、揺れた。思考が、途切れる。
(……まずい)
風が——読めない。
音が、消えた。気配が、掴めない。
なんら、この度数わぁ?
初めての感覚だ。
……だが。仲間が、いる。
「……任せたぞぉ?」
そのまま、意識が落ちた。身体から、力が抜ける。
そのまま。ゆっくりと……上体が、傾いた。
誰かの声が、遠くで聞こえる。
「マジかよ……結構弱めなの選んだのに」
「ははァ! 弱すぎだろォ!」
笑い声。騒がしさ。
仲間たちの、温かさ。
——ああ。
守るべきものは……ちゃんと、ここにある。
そう思ったところで。
俺の意識は、完全に闇へと沈んだ。




