きょうき 意 置くて そる・其の三
別のお話の、続き。
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「父上。本日の分です」
硬貨の重みを受け取ると、父は一度だけ頷いた。
いつもそれだけだ。
褒められることもなければ、労われることもない。
だが、怒鳴られも、殴られもしない。
それで、十分。
そんな日々が、繰り返された。
その内に、三年が過ぎた。▓▓は半成人となる。
だが、それでもやる事は変わらない。
働く。金を渡す。命令を待つ。
その中で、余計なものは削ぎ落とされていく。
例えば、迷い。疑問。……感情。
必要のないものは、すべて。
◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎
作業場は、いつも通り騒がしかった。
金属の擦れる音。機械の唸り。怒鳴り声。
その全てが混ざり合い、ひとつの“日常”になっている。
その中で、私は黙々と手を動かしていた。
与えられた作業は単純だ。
だが、単純であるほど誤差は許されない。
部品を組み、形を整える。
ズレはないか、歪みはないか。指先で確かめる。
もっと早く。もっと正確に。
「いつまでボケっとしてんだ!」
そんな時——
視線の端で、名も知らぬ上司が、別の作業員を怒鳴りつけていた。
彼は、高校生くらいだろうか。可哀想に。
「この程度のことも指示しなきゃ分かんねぇのか⁉︎ これだから最近の若者は……」
「す、すみませんっ!」
私は、その光景を一瞬だけ見た。
そのお兄さんが頭を下げている横で、上司さんは段ボールを開封していた。
——ああ、なるほど。
あの作業を、私もやれば良いのか。
そうすれば、私は怒られずに済む。
本来働けない年齢でも……このまま、この場に居させて頂ける。
「よし、やろう」
判断は早かった。
頼まれていないことでも、必要ならばやる。
それが“役に立つ”ということだからだ。
手元のカッターを取り、目の前の……
顧客向けのソファが入った、段ボールに差し込む。
まずは上部の真ん中を開いて……端のテープを切断。
そして、側面の四隅も少しずつ、上から下へと切り込みを入れる。
——これで、中身のソファは露わになる。
上司さんの、指示を出すという手間を省くことができた。
これで、すべてが上手くいく……
……はずだった。
ピッ。
音は、ほとんどしなかった。
“何か”の手応えが、指先に残った。
「あ……」
刃が滑った。
わずかに。ほんのわずかに。
「ああああ⁉︎」
その結果は、致命的だった。
ソファの表面に、細い線が走っている。
光の角度で、少しだけ分かる傷。
これ、雑布でコーティングされてなかったのか……。
「……ああ」
息が、止まった。
どうしよう。正直に頭を下げる?
それとも——
バレないように、黙っておく?
——知られなければ、“失敗”ではない。
顧客さんの元も、このくらいの傷は気にしないだろう。
この部分を、見られないように上手く……!
だが……
事は、そう上手くは運ばない。
「何やってんだ? 坊主」
「ひっ……」
上司が、いつの間にか隣に立っていた。
そして、感心したように私を見る。
「お、言われなくても開けてたんだな!」
本来なら……嬉しいお言葉だ。
だが、私の顔色は青冷め続けていた。
それに気付いたのだろうか。
上司は、私をどかして、ソファをまじまじと見る。
「ん〜? これは……」
そして、次の瞬間。
——何も言わずに、私を見た。
その目に、感情はなかった。
ただ、計算だけがあった。
「このソファなぁ……二十万の高級品なんだよ」
「へ……へぇ。そうなんですね?」
「ああ、桁を間違えてた。やっぱ二百万だった」
「へ……へぇ??」
我ながら、苦しい反応。
流れ出る冷や汗が、何も隠せていない。
「ここの傷。お前だろ? ……弁償な」
短い一言。
告げられた金額は、理解するまでもなかった。
「は、ぇ……」
今月の給料。別の会社の給料。
父上から私の手元に渡されている、少しの額。
それらをすべて足しても、届かない。
「……払えません」
正直に答えた。
嘘をつく意味はない。もう頭を下げるしかない。
「親御さんは?」
「聞いてみます。が……ち、父上は、私などのために、出してはくれないでしょう……」
すると、上司は肩をすくめた。
ああ……終わりだ。
「じゃあ働け。逃げるなよ、クソガキ。……払えるまでだ」
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打ち明けた瞬間、空気が変わった。
父上は話を最後まで聞かなかった。
……当然だ。
金稼ぎの道具である私が、逆に金を奪おうとしているのだから。
「お前のために——」
最後まで、聞こえなかった。
視界が、唐突に弾けた。
何が起きたのか理解するより先に、体が床へ叩きつけられる。
肺の空気が一気に抜け、音にならない息が漏れた。
遅れて、頬の奥が熱を持つ。鈍い痛みが、じわじわと広がっていく。
——殴られた。
そう理解したときには、もう次の言葉が落ちてきていた。
「……いくら使ったと思っている!?」
低い声だった。
その言葉の直後、またもや視界が揺れた。
口に流れ込んだのが自分の血だと理解するまで、少し時間がかかった。
息が詰まる。
肺が空気を求めて、無様に動く。
「あの男からお前を連れ戻すため、相場を調べ……買い取ったのだぞ!!」
「“あの男”って……?」
もしかして、カール博士?
だが、父上は私の言葉など耳に入っていなかった。
「『先行投資』という言葉を信じ、優秀に育っていると聞いたお前を買ったのは……とんだ失敗だったようだな!?」
「申し訳……御座いません」
「責任を返すまでは当然のこと! だがその間の収益はどうする!?」
「どんな手を使ってでも、稼いで参ります……!」
「フン、口だけの塵が。本当にやれるんだろうな!?」
淡々とした口調のまま、続ける。
「過酷な環境を生き延びた幼子……。金を生んでも、それを超える損失を出す、か」
視線が、床に落ちた。
自分の手が、微かに震えているのが見える。
「なぁ。お前は“失敗作”か……?」
父上は、そう吐き捨てて自室に戻られました。
私は、自分が今どんな感情なのか……何も分かりません。
「これから先、どうすれば……」
そんな時、母上が戸の隙間から覗いている姿が見えました。
私は、咄嗟に声をかけてしまいます。
「あの……母上?」
母は、私のことを可愛がってくれると言っていた。
何か、優しい言葉をかけてくれるはず……だと思いました。
「ああ、▓▓」
「今の、聞かれていましたか?」
「ええ……。一つだけ、言っておくわ」
……何だろう。
新しい仕事先でも紹介してくれるのかな?
「役に立たない子なんて、私いらないのよ」
母上の声が、静かに響いた。
「え……?」
優しい声色のまま、切り捨てる。
声は低く、一定だった。
——怒鳴り声ではない。
だからこそ、逃げ場がない。
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「どうしよう。どうしよう。どうする。どうするどうするどうすれば!!!」
痛みの中で、ワタシは考える。
何が間違っていたのか。
指示がなかったからか?
判断が早すぎたからか?
それとも——
“役に立とうとしたこと”自体が、間違いだったのか?
……違う。
違う、違う。私、私は……ワタシ、ああ。
そうではない。
僕……ボク、俺……当方?
うるさい。黙れ。なんだ、これ。
オレ……俺、俺、ワタクシ、小生。
捨てる。捨てる。全部、違う。違う。
なにがし……ソレガシ、某……セッシャ、▓▓?
足りなかったのである。
…………金が。
金があれば、弁償できた。
金があれば、殴られなかった。
金があれば、必要とされた。
……博士も、納得しなかった?
“あの男”は金で拙者を手放した???
——ああ、そうか。
あの男も、金の前では“納得した”のか。
ならば。
ならば、ならば、ならば。
答えは、一つしかない。
その瞬間、何かが静かに切り替わった。
心の痛みは消えない。
だが、”意味”ならば変わる。
これは“失敗の罰”ではない。
“覚悟が足りぬ咎”で候。
金のために……全てを捨て去る覚悟が。




