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嘘を希望に

 拳を握る。僕レベルの人魂の力ではまだ……彼の身に何が起きているかなんて、分からない。

 精神世界で、ジャックと戦っているのか? ——なんて、幼稚な想像をすることくらいしかできない。

 だけど、信じると決めたんだ。あいつが……以前、僕を信じてくれたみたいに。


「まずは、ミツバさんの鎖を解きましょう」


 土台モンの声で、現実へ引き戻される。

 その視線の先には……床へ横たわる、小さな身体。


 ——拘束されたままの、ミツバ。


 口元には血。呼吸は弱々しく。

 今にも消えてしまいそうだった。


「っ……」


 酷い光景に、足が止まる。


 ——何をやっているんだ、僕は。


 ずっと。本当に……ずっと、会いたかった人じゃないか。

 彼女を救うために、僕はここまで来たじゃないか。


 気付けば、駆け出していた。

「ミツバっ……!!」


「マスター!?」

 土台モンの声も、もう聞こえない。


 崩れた床を飛び越え。砕けた石材を踏み越え。

 僕はミツバの元へ膝をついた。


「ミツバ……!」


 当然、返事はない。


 目は閉じたまま。身体は冷たい。

 拘束している石鎖だけが、無機質に彼女を縛り続けている。


 今まで、ジャックとの戦いに夢中で、無意識のうちに心のどこかに追いやっていた現実。だけどその光景を見てようやく……ようやく、実感した。


 ジャックは……この子に。何をした?


「——決まってる」

 数十日にわたって身体の自由を奪い、僕を陥れるための道具として利用し、挙げ句の果てには舌を噛み切り、瀕死状態に追いやった。


 胸の奥で、ぐちゃりと何かが潰れる。

 これは怒りだ。今まで感じたことがないくらい……静かで。冷たくて。

 どうしようもない怒り。


「……絶対に許さない」


 小さく、でもはっきりと漏れ出た声。

 怒りを向ける対象は、もう気を失っている。おそらく、ゴハートの意識が踏ん張ってくれているからだろう。倒れている隙にぶん殴ってやりたい……そんな考えもよぎったが、この場にはゴハートの身体しかないから殴れない。つくづく、厄介極まりない能力だ。


 それでも……この怒りを、ぶつけずにはいられなかった。


 震える手を伸ばし——石鎖に触れる。


 冷たい。まるで墓石みたいだった。

 ミツバの体は、まだかろうじて体温が残っているけれど……急がないと、こうなってしまうかもしれない。それだけは、駄目だ。


「土台モン、お願い」

「ええ……」


 彼は何も聞かずに前へ出た。

 指先を軽く鳴らす。


「『腐食』」


 すると、石鎖が崩れ落ちていく。表面を赤茶けた錆が深く覆っていき、まるで皮膚がただれたかのようにボコボコと隆起。触れるだけでパラパラと細かい粒子になって剥がれ落ちる。金属が錆びて綻んでいく現象を、高速化したんだ。

 土台モンの能力は、こんなこともできるんだな。


 そして——腕を縛っていた鎖が砕ける。

 足の拘束が外れ……最後に、口元を塞いでいた石が崩れ落ちた。


「っ……」


 その瞬間だった。

 べたりと、唇の端から流れていた血が露わになる。


 顎を伝い……首元へ。

 白い服を赤く染めていった。


「……」

 言葉が出ない。


 こんな姿、見たくなかった。

 もっと笑ってほしかった。

 もっと隣にいてほしかった。

 もっと……無事に、再会したかった。


「マスター。」

 土台モンが静かに促す。


 僕は震える手で、そっと彼女を抱き上げた。


 彼女の体はあまりに、軽かった。信じられないくらい……壊れ物みたいに軽い。少し力を入れただけで砕けてしまいそうなほどだ。


 ——そうだ。

 何気に、抱き抱えたのはこれが初めて。


 ミツバには……ずっと、支えられてばかりだった。

 逆に、僕がお姫様抱っこされたこともあったっけ。


「ミツバ……」


 返事はない。ぐったりと力の抜けた身体が、僕の腕の中へ収まる。

 その時、不意に、鼻を掠めた匂い。


「うっ……!!」

 思わず息が止まる。


 甘い……いや。甘すぎる匂いだ。

 果実の香りじゃない。花の香りでもない。

 砂糖を煮詰めたみたいな……頭が痛くなるほど濃い甘ったるさ。


 まるで菓子の山に顔を突っ込んだような匂いだった。


「畜生……」

 僕は、言葉を失う。


 本当の、ミツバの匂いは、こんなんじゃない。

 彼女の近くにいた、以前は。春の風みたいな香りがした。咲いたばかりの花みたいで、熟れた果実みたいな。優しくて……どこか安心する香りだった。


 だけど今は違う。

 鼻につく、不自然な甘さ。口内にこびり付いた糖分の匂い。べたついた果汁。洗い流されなかった汚れ。

 そんなものまで混ざっている気がした。


 ジャック。

 あいつが……この身体で何をしていたのか、嫌でも想像できてしまう。


 どうして、こんなことになったんだ。

 胸が痛い。苦しい。

 でも今は、立ち止まれない。


「マスター、試してみませんか?」

 土台モンが指差す。


「え……何を?」

「ジャックが貴方を絶望させるべくほらを吹いたというなら、『治し方は奴しか知らない』のも真実ではないということです」


「あ……『浄化の花粉』か!!」


 僕は土台モンの言う通りに……頷き、両手を傷口へ重ねる。

 ミツバの口元へ向け、震える声で詠唱した。


「ひとつの声は風に消え ふたつの想いは空に散る

 みっつの祈りが重なる時 道なき道が開かれる

 私の声を標とし 今ここに血の力を」


 金色の光。優しい花の香り。

 花粉が舞って……ゆっくりと。ミツバの身体を包み込む。


「『浄化の花粉』」


 傷を癒やす、この力。他でもない、ミツバ自身のものだ。

 リラックスさせ、痛みを和らげる。毒も、呪いも、穢れも……何でも浄化できるはずなんだ。この力があれば——きっと。

  

 本来であれば——術者当人であるミツバが意識を失っている現状では、なす術はなかっただろう。だけど僕なら。血のつながった仲間の力を借りることのできる、この僕ならば。もしかしたら……応急処置くらいは。


 だから、頼む。


「届いてくれ」


 金色の花弁が弾けた。

 数秒の間、誰も動かない。僕は祈り、目を瞑る。


「……!」


 目を開くと——やがて。

 ミツバの口元の血が、ゆっくりと薄れていくのが見えた。


 傷は塞がっている。少なくとも表面上は。

 完治……なんて、大それた成果ではないが、確かに効果があった。


「呼吸は……?」


 一瞬、期待をしてしまったけど。

 僕が耳を近づけると……まだ、弱い。


「完全には治っていません」


 土台モンが冷静に告げる。

「ですが——少なくとも、ジャックの喜ぶ結果ではなさそうです」


 平静を装っているけど、彼もまた。わずかに安堵していた。

 その言葉で……僕はミツバを抱き締める腕へ力を込めた。


 まだ勝ったわけじゃない。

 むしろ何も終わっていない。


 だけど、希望も……まだ消えていない。


 ジャック……お前が弱いと、醜いと罵ったこの僕は、こうして希望を紡ぐことができたぞ……なんて。物理的に怒りをぶつけることができないこの状況で、僕は奴に勝った気がして、少しだけミツバの仇を果たせた気がした。


「だから絶対に繋ぐ」

 ゴハートが命を懸けて繋いでくれた、この希望だけは。


 師匠のクローンは、師匠本人が請け負ってくれている。

 僕のクローンは、もう動けないだろう。

 残った最大の障壁であるジャックは、ゴハートが食い止めてくれている。


 なら……この隙を、無駄にはできない。


 ——任務通りに先に進む。

 僕らは、上層へ。謎に包まれたボスとの交渉へ。


 そして……『探検隊』の、医療班に会おう。

 正門前での乱闘も、そろそろ終わっているはず。そうしたら、他の班たちからの増援が望めるはずだ。彼らと合流したら……ミツバの傷を治してもらおう。


 改めて、倒れた彼の体を見る。

 ジャック……恨みしかない因縁の相手も、この中にいるのだろうけど。次にこの姿と再開した時は、きっと中身はゴハート自身だと、僕らは信じている。


「今度は、無事に……四人で会おうな」


 返事はない。だけど、どこかで。

 『当たり前だろ』と、笑われた気がした。


「行きますよ、マスター」

「うん」


 僕らは歩き出す。

 崩れた居住区を抜け、第三層へ続く通路へ。


 背後では、ゴハートがまだ戦っている。

 だから僕らは、信じて先に進む。


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