狂気 意 置くて 逸る・其の五
別のお話の、続き。
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二人は、いつも通りだった。
父上は机に向かい、帳簿を眺めている。
母上は、その横で果実酒を飲んでいた。
何も変わらない。
昔から、本当に、何も。
拙者が何人殺そうと。どれだけ金を持ち帰ろうと。
この家は、変わらない。
だが今の拙者には、それが酷く異様に見えた。
拙者の手元にまで金を渡す余裕があるということは。借金など、とうに返し終えているはずだ。
それでも父上は当然のように金を要求し続ける。母上も当然のように受け取る。
感謝はない。
終わりもない。
ただ、搾り取るだけだ。
『命は我らが与えたものだ。返すのが道理だろう』
本当に、当然だと思っていた。
この関係も——
「父上」
呼びかける。
彼は顔も上げなかった。
「何だ」
短い返事。それだけだった。
拙者は少しだけ考える。
昔なら、この一言だけでも嬉しかった。自分を見てくれた気がしたから。
だが今は違う。
——何も、感じない。
「拙者はいつまで返し続ければよいのでしょう」
初めて口にした疑問だった。
父上の指が止まる。
「返す?」
「あの日からの……借金のことです」
「……」
「もう十分ではありませんか」
静寂。
そして。父上はゆっくりと笑った。
侮蔑の笑みだった。
「馬鹿め。再教育が必要か?」
その一言で十分分かった。
「——恩に終わりなどあるものか」
ああ。そういうことか。
胸の奥で何かが冷えた。
最初から終わらせる気などなかったのだ。
「お前の命は我らが与えた」
父上が立ち上がる。
「ならば生涯をかけて返すのが当然であろう」
「あの日と……同じ言葉、ですね」
静寂。
母上がこちらを見る。だが、誰も否定しない。
——やはりそうか。
拙者は、何故か少しだけ安心した。
「そうよぉ。家族なんだから」
母上が微笑む。
——家族。
その言葉が妙に耳に残る。
家族。家族。家族。
その言葉がやけに耳障りだった。
家族とは何だ?
金を運ぶ道具のことか。
都合よく愛を語るための言葉か。
私が病に倒れた時、心配したか?
——違う。収入を心配した。
拙者が傷を負った時、手当てをしたか?
——違う。仕事に出られるか確認した。
ウィルが消えた時。
私が泣いた時。
▓▓が苦しんだ時。
拙者が壊れた時。
この二人は何をした?
考える。考える。考える。
そして——
答えが出た。出てしまった。
『金のために、全てを捨て去る』
「……父上」
「何だ」
「拙者は、ずっと考えておりました」
腰の刀に手を添える。父上の眉が僅かに動く。
「家族とは何か——」
鞘が鳴る。金属の擦れる音。
「そして答えが出ました」
「貴様……いつの間に……」
初めて父上が警戒を見せた。
遅い。あまりにも遅い。
貴方が、私に武術を教えたのは失敗でしたね。
——尤も、人殺しの術は与えないようにしていたようですが。
「金に目が眩んでいるから、気付かないのですよ」
「「五月蝿い、黙れ、来るな! 化け物!!」」
彼は最後に、醜く喚くだけだった。
「命を与えた恩も忘れたか、この恩知らずが!!」
顔は恐怖に歪んでいた。
それでも、口だけは止まらない。
「お前が今まで生きてこられたのは誰のおかげだ!? 飯を食わせてやった。住む場所を与えてやった。仕事も与えてやった!」
後退りながら叫ぶ。
「お前は私がいなければ何一つ出来ぬ糞だ、ただの出来損ないだ! それなのに何だ。金を稼げるようになった途端、親を捨てるのか!?」
醜い。余りにも。
「失敗だった……!」
父上は頭を掻き毟る。
「お前を連れ戻したのが間違いだった! あのまま死なせておけば良かったのだ!」
その言葉に、胸の奥で何かが軋んだ。
「いや……違うな」
父はぶつぶつと呟く。
「事故に見せかけて殺しておけば良かったのだ。保険金でも受け取った方が余程得だった……」
笑う。引き攣った笑みだった。
「そうだ。そうすべきだった。そうすべきだったのだ」
そして唐突に、こちらを睨み付ける。
「所詮お前は欠陥品だ!」
指を突き付ける。
「人の情も分からん、恩も分からん。常識も分からん!」
「そも科学者などに育てられた時点で、信用すべきでなかった!! 同類に育てられおって!」
話が飛ぶ。そこに論理などない。
恐怖が言葉を引きずり回している。
「あの男もそうだ! 金にもならん研究に人生を浪費する愚か者! 碌な人間ではない!」
そこで初めて、“男”は何かに気付いたように目を見開いた。
「そうだ……!」
声が震える。
「最近の金……お前、人を殺したな?」
沈黙。
そして、“男”の顔色が変わる。
「結局は人殺しなどで得た金だったか。万が一にでも私に歯向かう選択肢を持たぬよう、潰しておいた選択肢だったのに、許可もなく勝手に踏み込みおって……!」
「人殺しめ……! 汚い。汚▓。▓▓。▓▓。▓▓」
一歩後退る。
「▓▓▓▓!!!!」
また一歩。
「来るな……!」
また一歩。
「来るな……!」
そして、壁に追い込まれる。
「来るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「命を与えたのだから返せ、ですか」
昔から何度も聞いた言葉。
だから、その理屈を返そう。
「——返してやるよ」
抜刀……そして。一閃。
毎日の業務と何ら変わらない動作。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
父上の胴が大きく裂けた。
血が飛ぶ。赤い。驚くほど赤い。
——まるで、肥えた豚のように。
「な……」
父上が崩れる。理解できていない顔だった。
最期まで。
「なぜ……だ……」
——なぜ?
それはこちらの台詞だ。
何ゆえ、こんな人間に縋っていたのだろう。
なぜ“私”は認められたかったのだろう。
何故、無意識に“拙者”などと謙っていたのだろう。
何故。
何故。
何故。
「あ、ああ……」
母が震えている。腰を抜かしていた。
「や、やめて……」
涙を流している。
怖いのだろう。……死ぬのが。
「助けて……」
助けて?
その言葉に、一瞬だけ、胸が痛んだ。
思い出した。初めて会った日のことを。
——抱きしめられた感触を。
温かかった。
男一人に育てられ……母を知らなかった私には、特段。
少なくとも、あの瞬間は……
嘘ではなかったのかもしれないな。
本当に一瞬だけ……刀が止まる。
だが。その次に思い出したのは……
『役に立たない子なんて、私いらないのよ』
あの日の言葉だった。
「なら——あの時、“助けて”くれよ」
刀を振るう。
「ぁ——」
母上の悲鳴は途中で途切れた。
「…………」
静かになった。
あまりにも静かだった。
◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎
夜になっていた。
拙者は一人、家に残っていた。
逃げることもできた。
だが動けなかった。
父上の死体。母上の死体。
大量に付着した血。
六年間過ごした家。
そして。
手元には、大量の金。
当然だ。父上は、借金を払い終えた後も、私に働かせ続けて、ずっと蓄えていたんだ。
自分の意思で。誰に命じられたわけでもなく。
初めて、自分で選んだ殺生。
これも全て、金のため……か。
これだけあれば、生活費に困ることはない。
「……これで良かった」
口にする。
だが返事はない。
「……これで自由だ」
返事はない。
当然だ。誰もいない。
誰も……いない。
妙な静けさだった。
——疎ましかった声が消えたのに。
これだけの金がある。
もう誰にも縋らなくていい。
もう誰にも命令されない。
もう金を要求されることもない。
もう自由……だ。
ならばこそ——何故だ。
何故、心は満たされぬ。
自由。確かに自由なのに。
少しも嬉しくなかった。
◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎
金は、十二分に得た。
だが、父はあれでも社会的地位を高めていたようで。殺したのは……色々と、まずかったようだ。
故に、家にはすぐ政府の手が回ってきた。
殺害事件として捜査されることが決定した。この世には拙者以上の手練がゴロゴロといるらしい。いずれ、拙者は処刑されてしまうだろう。
だが、それを見兼ねた『組織』は拙者に“隠蔽”を提案してきた。
父の財産は全て『組織』へ渡した。隠蔽の代価として。
惜しいとは思わなかった。
金などまた稼げば良い。だが、死ねば稼げない。
それから数日間の記憶は曖昧だ。
食事をとった覚えもない。眠った覚えもない。
ただ。
気付けば組織が用意した家の中にいた。
「何故……だろう」
翌日も。その翌日も。
拙者は仕事へ向かった。
人を殺し。金を受け取り。帰宅する。
いつもと同じ、何も変わらない日常。
変わったのは……住居だけ。
そう思っていた。
組織に与えられた家は静かだ。
誰もいない。金を要求する声もない。命令する声もない。
なのに。
扉を開けた瞬間。
拙者は無意識に口を開いていた。
「只今戻りました」
返事はなかった。当然だ。
なのに……ふと。
忘れていた記憶が蘇る。
『ウィル。いいか、お前は——』
名前を呼ぶ声。
“あの男”……いや。
「カール……博士」
胸の奥が妙にざわつく。
何故、今になって?
何故。
何故。
何故。
「……っ」
拙者は首を振る。
こんな幻聴に意味はない。
終わった話だ。
あの男は金と引き換えに拙者を手放した。
それだけだ。
今更会う理由など——ない、はずだった。




