Trojan Whale
師匠が、舌打ち混じりに叫んだ。
「あぁ!? まだまだ湧いてくるのか!?」
——ドンッ!!
夜の海を裂くように、水柱が上がる。
「来たぞォ!!」
彼の怒号が、腹の底から響く。
次の瞬間、海面が一斉に泡立った。黒い水の中から——無数の影が跳ね上がる。魚のような鱗。歪んだ四肢。濁った瞳。
それらが一斉に、ホゲさんの背へと飛び乗ってくる。
「敵襲!! 数、多いです!!」
「迎撃しろ!! 乗り込ませるな!!」
隊員たちが即座に武器を構える。鋼の音と、肉を打つ鈍い衝撃が響いた。
そして。再び、巨大な波が魚人たちを呑み込む。
——ザバァァァァン!!
「ははァ!! どうしたどうしたァ!!」
ホゲさんの尾が振るわれる度、海そのものが牙を剥いていた。
援軍を寄せ付けない、物理的な壁。
豪快な笑い声を鳴らしながら、彼は攻撃を続けている。
だが——その直後。
「……っ、ぐ」
低い息が、漏れた。
「……ホゲさん?」
僕は思わず振り返る。巨体が、ほんの僅かに沈んでいた。
さっきまでと違う。海を割る勢いが、少しだけ鈍い。
——ドン。——……ドン。
間隔が、長くなっている。
彼の呼吸……その鼓動が、重い。
「おいホゲ、大丈夫か?」
モグドンさんも気付いたらしい。
「問題ねェよォ……!」
即答。だが声の張りが、少しだけ弱い。
海水が、彼の身体を流れていく。
その背中に——赤黒い傷が増えていた。
魚人たちの爪痕。無数の裂傷。しかも、そのいくつかは深い。
それでもホゲさんは、前へ進み続ける。
「まだまだァ!!」
巨体が跳ねる。だが、着水の瞬間。
——ズゥン……!!
今までのような爆発的衝撃ではなく、“重さ”が先に響いた。
波が、少し低い。
「……!」
フウロウさんの目が細まる。きっと彼も、異変を察したのだろう。
「一睡もせず移動させ……この規模の戦闘だ。消耗して当然か……!」
隊長が低く呟く。
そうだ。ホゲさんは、ずっと起きていた。僕たち全員を背に乗せ。夜通し、海を泳ぎ続け。敵襲に備えて、そして今——海上戦まで、一人で引き受けている。限界が近くないはずがない。
「班長、一旦下がってください〜!」
水中班の誰かが叫ぶ。
だが——
「馬鹿言えェ!!」
ホゲさんの怒声。海面が震える。
「俺ァ、水中班長だぞォ!!」
その巨大な瞳が、前を睨む。
「部下を乗せたままァ……止まれるかよォ!!!」
——ドォォォォン!!
再び尾が振るわれる。巨大な波濤が魚人たちを吹き飛ばす。
だが今度は。
「っ……はァ……ッ!!」
明確な息切れ。
ホゲさんの肩が、大きく上下していた。
「もう……限界だろう。一旦、我々に任せてくれ」
「「——ああ」」
隊長が静かに告げる。
他の班長たちも、みんな一斉に頷いた。
次の瞬間——!
戦場の空気が、変わった。
「『粘着バズーカ』です!」
「『黒舎利弾』」
「『蝸牛制御』!」
「『風刃』……っ」
「『鼻硬散』!!」
魚人たちが、吹き飛ぶ。
博士の装置が敵の身体を拘束し、師匠の黒い弾丸が群れを穿ち、隊長のカタツムリによる粘液が海面ごと動きを止める。そこへ——フウロウさんの『風刃』。
空気そのものが裂けたみたいだった。目に見えない斬撃が海上を滑り、魚人たちをまとめて薙ぎ払う。
最後に、モグドンさんのドリル。
——ドゴォッ!!
振るわれた瞬間、衝撃だけで数体まとめて吹き飛んだ。魚人たちの身体が宙を舞い、そのまま海へ沈んでいく。
「流石です……みなさん!」
「ほら、ホゲ班長! あんたがやらなくても平気だ!」
「俺らのリーダーたちがいれば、無敵だ!」
隊員たちが次々と歓声をあげる。
実際、その通りだった。
ホゲさんは十分すぎる働きをしてくださっている。休ませてもらった分、今度は背の上の僕らが頑張って敵を処理するべきだ。
彼が気を抜き、侵入を許したところで……
ここにいる誰もが、強い。特にリーダー格たちは圧倒的だ。
魚人たちが押し寄せているはずなのに……今だけは、負ける光景が浮かばなかった。
「…………っ」
ホゲさんは、何も言わない。
ただ、大きな目だけが静かに戦場を見ていた。
自分の背の上で。仲間たちが戦っている。
隊長が指示を飛ばし、班長たちが敵を押し返し、若い隊員たちまで、互いを庇いながら前へ出ている。
誰か一人に頼り切っている戦いじゃない。皆で、支えている。
「……へっ」
不意に。ホゲさんの口元が、少しだけ緩んだ。
その声は珍しく小さくて。波音に紛れそうなくらいだった。
「……やるじゃねェか」
その瞬間。巨体から、ほんの少しだけ力が抜けた気がした。
今までずっと。この人は、一人で全部背負おうとしていた。あのフウロウさんにも引けを取らないかもしれない。
海を進むことも。敵を迎え撃つことも。皆を守ることも……
自分が沈めば終わると、本気で思っていたんだ。だから、止まれなかった。
でも今は——自分が戦わなくても、背の上には“任せられるモノ”がいる。
その事実が。
ほんの少しだけ、ホゲさんを安心させたように見えた。
「ホゲ班長ォ! 右は任せてくだせェ!!」
「おうよ!」
「前方も押し返しました!」
「ハハァ!! 頼もしいじゃねェか!!」
笑い声が響く。
さっきまでの無理を押し通すような笑いじゃない。
仲間を信じた上での、余裕のある声。
だが——
そんな時、低く呟いた声。
「……妙だな」
フウロウさんだった。彼は今、戦場を見ていない。
空を見ている。風を、読んでいる。
「何か……違うんだ」
その声が、わずかに鋭くなる。
「風が、目的地側から来ていない」
「何……?」
隊長が反応する。
フウロウさんは目を細めたまま、静かに言った。
「本命は別かもしれないです。この連中は……陽動か?」
一瞬、空気が凍る。
その意味を、全員が理解した。
希望が見えたと思ったら……全部、敵の手の上だと?
ありえない……! 信じたくないが、この展開……僕は何度も経験してきた。あの奴らを率いるボスが本当にいるのなら、この状況にも頷けてしまう。
「……つまり」
誰かが、呟く。
「時間を稼がれている……?」
「奴らには別働隊が!?」
——ドサッ。
「……え?」
その時……誰かが、倒れた。
視線が集まる。後方にいた隊員の一人が、膝から崩れ落ちていた。
「お、おい!?」
仲間が駆け寄る。
だが。
「……っ!!」
喉元から、赤い線。斬られた跡。
——絶命、している。
そして、次の瞬間。
——ブシュッ!!
駆け寄った彼からも。血が、噴き出した。
「なっ……!?」
「敵襲!? どこだ!!」
全員が周囲を見回す。
だが——敵の姿は、どこにもない。
魚人たちは、まだ前方。奴らのうち誰も、この隊員に触れていない。
「待て……今、何が——」
さらにゾロゾロと、別の隊員たちがその場に駆け寄る。
「おい、近寄るな!!」
その瞬間。
——ガギンッ!!
火花。
大きな影が、血に濡れた二人の前へ現れた。
「ぐうッ!!」
そこでは……モグドンさんが咄嗟に腕を振るい、“何か”を弾いていた。
空中で、一瞬だけ歪みが走る。
まるで、水面越しに景色を見たみたいに。
「……透明化能力か!?」
フウロウさんの声が鋭くなる。
彼はすぐに状況を把握し、風の流れを感知する構えをとった。
——だが。
「何だと……? 俺の力でも、数が分からない……!?」
「……どういうことだ?」
しかし、また一人。
隊員の肩が、何もない空間ごと抉り取られた。
「ぐあああああっ!!」
さらに一人、血飛沫。
「ぎゃあっ!!」
「どこだ!? どこにいる!!」
見えない。気配も掴めない。
仲間のすぐ隣に、“死”だけが現れる。
魚人達の数の暴力なんて、まだ可愛かった。
“見える脅威”は……隊長たちの圧倒的な実力の前では、意味をなさない。だが“見えない脅威”には、対応が難しい。それに……頼みの綱であるフウロウさんでも、対応できないなんて……!
その言葉に、ホゲさんが大きく舌打ちした。
「……チッ、やっぱりか」
巨体がわずかに揺れる。
「あれが別働隊………?」
「……いや、待て」
「何故、奴らは当然のように背の上にいる?」
「いつの間に、侵入されたんでしょうねぇ……!」
「侵入……? 最初からいたって線もあるだろう」
「やはり、内通者……“裏切り”であるか……?」
「え……あの透明軍団が、内通者の正体ってことか?」
「どちらにせよ……よくも、彼らをっ!!」
若い隊員だけでなく、リーダー格たちも怒りを表す。
だが、ホゲさんの声は揺らがなかった。
「だが……敵が来たってことはよォ——」
彼は低く、確信を持って叫ぶ。
「城はもう、“すぐそこ”だろォ!?」
その言葉に。
まるで全員の意識が引っ張られるように、視線が前方へ向いた。
——暗い海。
夜明け前の空は、まだ薄青く濁っている。
波間の向こう。水平線のさらに先。
そこに、“何か”があった。
「……あれ、は」
最初は、ただの影に見えた。
巨大な岩山。あるいは、海霧の錯覚。
だが違う。
波が揺れるたび、その輪郭が少しずつ露わになっていく。
尖塔。黒い外壁。
断崖に突き刺さるような巨大構造。
そして——空。
その城の上空だけ、まるで夜が貼り付いたみたいに暗い。
「…………っ」
誰も、言葉を発しなかった。
長かった。ここへ来るまで、本当に。
作戦を立て。シルヴァの忠告を受け。長い夜を超え。
そして襲撃を受け……ホゲさんが体を張り。命を懸けて海を渡った。
その全ての果てに。
ようやく——見えた。
「……あれが、『闇星城』」
その名を口にした瞬間。空気が、一段冷えた気がした。




