久保栄子さんのこと
ゆかりは里美さんの強い勧めで眼科を受診、そのあと三日間休みをとってから、ケアハウス坂井に連れて来てもらった。
五階のラウンジにある大画面テレビは動物と自然のドキュメンタリー映画を映しており、数人の入居者がぼんやりと観ていた。黒川茂子さんの姿がないので居室のドアをノックする。
居室には黒川さんと介護スタッフである久保栄子さんが洗濯ものをたたんでいるところだった。
「お母さん。連れてきたわよ」
「 おうおう、あんたが桃園さんかい。大変だったねえ」
「 どうもはじめまして。桃園ゆかりです。お家、住まわせてもらってます」
「じゃあ、お話はまた後で」久保さんはそう言うと、ヨイショと立ち上がる。
「すまないね、いつもお願いばかりでの」
なんのなんの、と久保さんが退室すると、次に里美さんに顔を向けて、
「里美、済まないけど、桃園さんと二人きりで話したいことがあるんだ」
「あ、そッ。じゃあ外でシロクマの親子観てるから、何かあったら呼んでね」
と里美さんも退室。ゆかりは黒川さんに誘われるまま椅子に座った。
ふと窓際の棚の上に目をやると、勝軍地蔵の木彫り像が置いてあるのが見えた。愛宕坂の家で見つけた勝軍地蔵の木像だ。
「桃園さん。今回のことは謝らせてもらいます。あたしは知ってたの。ここにくる前の夜、凄く久しぶりに地蔵さんが来てね。その木彫り像を置いていくよう言われて、それで二階の押し入れに置いといたの。それで思ったのよ。いつかあの家に来る人に取り憑くつもりだな、って」
「継体天皇さんは、私をずっと待ってたって言ってました。それで、勝軍地蔵は?」
「地蔵さんはもう桃園さんの中に戻るつもりはないの」
「え?」
「地蔵さんは今、この施設の職員さんに取り憑いて、試し乗りをしている最中だわ」
「試し乗り?!なんかエッチな感じ。でもなんでそんなことを?私、迎えに来たんですけど」
「二度、危険な目には合わせたくないんですよ」
「何をいまさら。誰かが危険な目に合うんでしょ、仕方ないじゃないですか。それに取り憑く相手とは相性の良い悪いがあるって。そんな簡単に相性のいい人、いるんですかね」
「高望みしないなら、何人かはいるって言ってましたよ」
「そうですか。もう私に用はなくなったんですね」
「何言ってんの、喜ばなくちゃ。地蔵さんに取り憑かれたって、いいことなかったでしょ。それと私はこれからもお願いするよ。あの家にはいてくれるでしょう?もう変なモノはいないから、お守りをよろしくお願いします」
勤務を終えた栄子さんがゆかりを送ってくれることになった。里美さんの家はここから近いし、面倒をかけなくて済む。
「私の家は照手。三秀プールのあるところよ、近いでしょ。気にしないで乗って」
夕方のラッシュ時間で道はひどく混んでいる。
「昼勤は楽でいいんだけど、帰りがいつもこうなのよ」
「そうか。夜勤とか早出とか、いろいろあるんですね。大変そうですね、ヘルパーさんて」
「施設内だから楽なほうよ。訪問は大変。特に男性はね。あちこち触ってきたり、わざと見せてきたり。あなたみたいな若くて綺麗な子が訪問したら大変なことになると思うな。うふふ」
「うわぁ、お年寄りでもそんなんですか?」
「男は死ぬまで助平なのよ。そのエネルギーで生きてるみたいなものね。ところであなた、勝軍地蔵に取り憑かれてたんでしょ。どんな感じだった?」
「どうって、別に何も感じなかったですけど。うん?ひょっとして久保さんもタダ乗りされたんですか?」
久保さんはコホンッと空咳をした。
「なんか変に聞こえたわよ。タダ乗りじゃなくて、試し乗りだよね。そ、いろんな人に取り憑いたみたい。で結局、私を選んだみたいなんだ」
「えーッ?!いいんですか?引き受けちゃって」
「断れないでしょ。あなた、断わった?」
ゆかりはしばらく考えてから、首を振った。「そうでした」
ゆかりは不思議な感情に襲われた。神さまだろうと埴輪の精霊であろうと、取り憑かれていると思うのは気持ちのいいものじゃない。それでも一方的に出ていかれたのはショックだ。私は失敗したのだ。失望させてその結果、陽気で太ったおばさんに乗り換えられてしまったのだ。
「一応、茂子さんから聞いてるけど、少年の姿で出てくるんだってね。ねえ。嵐でいったら誰な感じ?私、和也くんが好きなの」
またそんなことを!、とゆかりは苛ついたが、
「そうですね。ちょっと似てるかも知れませんよ」と答えた。誰にも似ていない、なんて言うのは気の毒だ。
「ホント?じゃあ、お風呂入ってる時に出てこられても怒れないわねえ。えへへ、怒るどころか!って感じ」
交通渋滞が恨めしかった。久保さんのおしゃべりを一時間聞かされ、ようやく車は三秀プールの前に停まった。
「本当に助かりました、ありがとうございます」
「おやすみなさい、またね〜」
車を降りたゆかりはぶらぶらと花月橋を渡って、愛宕坂の家に帰った。向かいの資料館はすでに閉館しており、彼女は街灯の寂しげなオレンジの光を頼りに玄関の鍵を取り出した。




