ケアハウス坂井の黒川さん
愛宕坂で起きている異変を察知したのは信子さんだけではなかった。
福井市から車で二十分ほど走った先に広がる福井平野に坂井町という小さな町がある。その町外れ、水田に囲まれてケアハウス坂井という老人ホームが建っている。
「はーい、黒川さん。私を呼んでるって聞いたけど何かしら」
施設内ヘルパーである久保栄子は三十手前の独身女性。体重オーバーなのも気にせず、いつもニコニコ。入居者からのおやつのお裾分けはスタッフは受け取っちゃ駄目なんだけど、彼女は気にせずその場で食べちゃう。そんなこんなで入居者たちには人気者だ。
「久保さんだ!来てくれたのね。里美に今日中に来てくれって電話して欲しいの。大事な話があるからって。それでね、竹内さんも連れてきてって言って」
「里美さんは毎週土曜日に来てくださいますよね。明日では遅いってことですか」
「遅いの。だって明日、福井に戻らなくちゃいけないから」
「あら〜。それじゃ施設長に相談しなくちゃ」
栄子さんが居室を出ると、黒川茂子は窓際の椅子に腰を降ろし、浮かない表情でガラス窓の先に広がる水田を眺める。
「ショーちゃん。待っててな、すぐ行くさかいにな」
午後の三時過ぎに里美さんと竹内さんがやってきた。
「お母さん。私はいいけど、竹内さんに無理させちゃ駄目」
「あー、ごめんねえ竹内さん。わざわざこんなところまで」
「なになに。今日は坂井郡コースですから。気にしないでください」
「えへへ。実は金曜日にこっち回ること、知ってたんだよ。つまらんことだけ覚えてるだろ」
「さすが茂子さん、相変わらずてなわんこって。さてと、お久しぶりですな。お元気そうでなによりです」
「脚が良くなったら、また店を再開せんとあかんからね。毎日ベッドの上で身体鍛えてるのよ。あ、そんな話じゃないわ。里美、愛宕坂の店で何か起きてるぞ」
「店?お母さんがここに来てからはカーテン引きっぱなし。何もしてないし、何も起きてないわよ。そうだね、ここんとこ忙しくて覗いてないわね。でも大丈夫だよ、きっと」
「およ?大学生に二階を貸したって言ってなかった?で、週末だけ店を開けるとか」
「何のこと?確かに家を貸すっての考えてはいるけど、お母さんにそんなこと言ったっけ?」
竹内さんは怪訝な目を里美さんに向けた。
「言っとったやないか。日曜日は私も店を見るから、ここには土曜日に来るって。竹内さん、あんた商品運んだでしょ?」
「えらいすんません、お店は休業中ですわ。だって店番する人いないもの」
「そうか。やっぱりおかしい。何かおきてるね」
「どうしたの?なんで竹内さんまで呼んだのよ」
黒川さんは里美さんと竹内さんの顔を交互に見て言った。「勝軍地蔵があたしに助けを求めてるのや」
翌日。竹内さんに背負われて黒川さんが愛宕坂の石段を上がっていた。後ろから里美さんが折りたたんだ歩行器を抱えてついてくる。
「おうおう、懐かしいのう。しかしこの石段を歩ける日が本当に来るか心配だよ」
「茂子さん、家に戻るのはどれくらい振りですかな」
「さあね。もう一年経ったかなあ」
「まだ半年よ、お母さん」
里美さんが黒川さんの背中に声をかけた。
「そんなもんかの。お、着いた着いた。ほれ、新しいカーテンが引いてあるぞ」
「あら」里美さんもカーテンの変わっているのに意外な面持ちだ。
バッグから鍵を取り出すと、変ね、と首をかしげながら玄関戸を引いた。
店の棚にはたくさんの商品が並んでいた。
「何よこれ・・」
呆気にとられて店内を眺める里美さんと竹内さんを尻目に、竹内さんの背中から降りた黒川さん、
「なによ。やっぱりお店やってたんじゃないの」と言ってふらつく足をゆっくり前に進めながら、店の奥に入っていった。
「ショーちゃん。将軍地蔵さんや。帰ってきたわよ」
上がり框に腰を下ろした黒川さんは腰をひねって居間の様子を眺める。
「きれいにしてるじゃないの。なんでショーちゃん、あたしを呼んだのよ。おーい、二階に誰かいる?」
「ひょっとして、誰か棲みついているのかしら。怖い、竹内さん、ちょっと二階見てきてくれない?」
「わかった。里美さんは茂子さんを頼みます」
竹内さんはそっと階段を上がっていった。
それからしばらくして、「誰もいないわ」と竹内さんの声。里美さんも二階に上がってみる。
「将軍さんの人形がどこかにあると思うの。持ってきて」黒川さんはそう声を上げると、ひとりよろよろと立ち上がって歩き、居間の奥の寝室の襖を引いた。
やがてバタバタと二人が降りてきた。
「誰かが住んでる。人はいなかったけど、知らない家具とか荷物とかがあって、かわりに押入れのものが無くなってる」
「だから里美、あたしに言ってたもの。学生さんに家を貸したからって」
「言ってないわよ。泥棒よ。泥棒が押入れのもの持っていっちゃったの」
「店に商品並べて?」
黒川さんが寝室から出てきて、左右の襖を大きく開くと、その部屋にはいろんなものが棚に並べてあったり、置いてあったり、積んであったりしている。
「何なの?」またしても呆気にとられた里美さん、ひとりぽつりとつぶやいた。
「学生さんを二階に住まわせた時に、邪魔なものをここに入れたんじゃないの?里美、あなた呆けてきたんじゃないでしょうね」
「だからそんな子は・・・そんな子?」
里美さんは何かに気づいて、首をかしげて手を顔に運ぶ。彼女の手には将軍地蔵の木像が。
「里美、それちょうだい」
「え?あ、そうそう。これ、知らない机の上に置いてあった」と、手渡した。
「これは・・・」黒川さんはじっくりと木像を眺めた。
「目を閉じてるよ。おかしいね、もっと威勢のいい目つきをして、カッと前を向いてたのにさ」
「勝軍地蔵というんですか。そういやこの間、誰かに勝軍地蔵のことを聞かれたような気がする」竹内さんが言った。
「私はその像を誰かにあげたような覚えが・・・」今度は里美さんが言った。
「あんたたちが気味悪がると思ったから黙ってたんだけど、ショーちゃんは昔、あたしに取り憑いていたんだ」
「ショーちゃん・・・」
「勝軍地蔵のことだよ。地蔵様は福井の町に変なことが起きるとあたしを自転車で現場に行かせ、それが悪い霊の仕業だとわかると、あたしの中から飛び出して、成仏させるために闘ったりするの。ショーちゃんは取り憑いた人から田んぼ三枚ほどの距離しか離れられなくて、だからあたしが霊の近くまで行かなきゃなんなくてさ。ちょっと怖い思いをしたこともあったんだよね」
竹内さんは黒川さんから一歩下がって、お腹の前あたりで両手を合わせた。
「ちょっと竹内さん!何してるの?何でお母さんに手を合わせるのよ」
「いや、その勝軍地蔵のお人形さんに手を・・・」
「もう!怖がりね。お母さんの話聞いてるだけじゃない」
「うーん、霊とかは苦手なんですよ」
「でも子どもが大きくなるにつれてあたしはやることが増えて、ショーちゃんの頼みに応えられない日が出てきた。そしたらある日、取り憑く先を別の人に替えました、今までどうもありがとう、なんて言って離れていこうとしたの。その時あたしは寂しくて、行かなくていいよ、ここにいなさいよ!って言った。そしたら俺の代わりにって、この木像を置いていったのよ」
「それっていつの話なの?」
「そうね、あんたがちっちゃかった時だから、かれこれ五十年くらい前だ」
「五十年前ねえ」
三人はあらためて、黒川さんの手にある勝軍地蔵の像を眺めた。
「あれ?目が開いたわよ」と里美さん。
「うわッ!ナンマイダーレンゲーキョー、ナンマイダーレンゲーキョー!」
「竹内さん、お経が違うわよ。ナンマイダーブツと、ナンミョーホーレンゲーキョーと、ごっちゃになってない?」黒川さんが笑って言った。
「お母さん!竹内さん!目が開いたんだって。なんで驚かないの?!」
そこに、
「シゲちゃん、来てくれてんなー」と玄関先から少年の声がした。
「あッ、ごめんね。お店、やってないのよ〜」と里美さんがすぐさま答える。
「客じゃないよ。俺、シゲちゃんのパワーでやっと起き上がれたんだ」
「え?」「シゲちゃんて・・・」
「シゲちゃんはあたし。あの子がショーちゃん」と黒川さん。
「何か大変だったみたいだね、勝軍地蔵さま」




