第四章 運命の流れ ~〝獏〟の行方~
耳が音を拾った。
器具の触れ合う音や、人のざわめく音。
黒かった頭の中が白へ戻る。そしてさっきとは逆に白い霧が少しづつ薄れていった。
ざわめきや器具の音が大きくなってくる。
「意識が戻りました。問題ありません」
誰かの声がした。機械のように抑揚のない声だ。
体の末端部分から痺れがとれていく感じがする。
指を動かしてみる――動くでも腕はまだ重くて動かない。
瞼を上げてみようとした。ノリでも付いたみたいになかなか開かない。眉を寄せ、力を込めてみると、ようやく少しだけ開いた。
「覚醒です」
また誰かの無機質な声がした。
視力が回復してくる。
霞が掛かっていた視界に影が現れ、次第に鮮明な像を結ぶ。
無表情な《センター》の白衣の局員の姿が飛び込んでくる。
「『探査』は終了しました。起き上がれますね」
抑揚の無い声で彼が言う。
一度瞼を閉じてから再び開く。腕に力を込めてみる。ゆっくりと上体が動いた。
起き上がった途端に無表情な先生の顔が目に入った。
すべてを悟った――――失敗したんだ。
俯いて唇を噛み締めた。涙が滲んでくる。
(……ごめん)
あたしは〝獏〟の事を記憶から消せなかったんだ……。
(ごめん、〝獏〟。ごめん……)
機械を誤魔化せなかった――頭のどこかで「出来るはずがない」と思っていたんだ。あたしの思い込みが足りなかった。
「残念でしたね」
平坦な声で先生が言った。
「帰りますよ」
俯いたまま頷いて、のろのろとベッドから降りた。
先生の後ろを俯いたままついていく。前を歩く靴の踵を見詰めながら、あたしは嗚咽を必死に噛み殺していた。
一旦学校に戻った後、あたしはすぐに解放された。先生達は今まで以上に余所余所しい態度だった。
涙がポロポロ零れた。
あたしは泣きながらロードウエイに乗った。
涙が出るのは《探査》に不合格だったからじゃない。周りの人たちの態度の冷たさでもない。〝獏〟の事を、おそらく隠しきれなかったから……。それが悔しい――。
と、そこまで考えて、急に思い出した事に全身から血の気が引く思いがした。
ユニットの徹底チェック!
――〝獏〟、〝獏〟は……?
〝獏〟の安否が気になった。悪い予感に心臓が音をたてだした。
異変を察知して逃げてくれればいいけど、もし気付かずに《センター》の局員とハチ合わせしていたら……!
頭で考えるより先に体が動いた。
あたしはロードウエイを全速力で駆けだした。
ロードウエイには結構人がいた。それらの人達が走り抜けていくあたしを奇異の目で見ていたようだが、気にならなかった。途中で何人かにぶつかったが、謝っている余裕は無かった。あたしの背中にいくつもの罵声がぶつかった。
息を切らせて『箱』に飛び込んだ。
あたしの眼に映ったのは、いつもより生活臭の無い部屋の中だった。
「〝獏〟……」
ぼんやりと呟きながら足を踏み出した。足の下はふわふわとして、感覚が無いようだった。
よろめくように部屋の中に入って、もう一度〝獏〟を呼んだ。
返事はない。
呼びながらベッドに近寄り、シーツを持ち上げてみる。下を覗き込でみた。
チェストや棚の扉を全部あけて、中身を出して覗きこんだ。
机の下も、ダストシュートの中も見た。床に空洞が無いか叩いて調べた。――〝獏〟はいなかった。
部屋の中央にペッタリと座り込んだ。立っている力も出なかった。
涙が出た。ぼろぼろ出て止まらなかった。
〝獏〟を護れなかった。むざむざ《センター》に渡してしまった、あたしの大切な……。
胸が痛い。胸が苦しい。――〝獏〟!
あたしの中で〝獏〟が占めていた比重の大きさに、改めて気付いた。
〝獏〟がいるだけで、あんなに充実していたのに。幸福だったのに。今はぽっかりと空いた穴を風が通り抜けていく感じがする。
あたしを慰めてくれた。励ましてもくれた。同じ感性を持っていて、当たり前のように側にいて、拗ねたり笑ったり、少しだけケンカもした。分身みたいだったのに……。
〝獏〟はあたしにいろいろしてくれたのに、あたしは何もしていない。何ひとつ返していないのに……。
護ってあげることができなかった。大丈夫だって、笑い飛ばしていたのに……。『探査』なんて蹴とばして〝獏〟に危険を知らせに来ていれば……!
頭の中をいろんな考えが廻った。心の中をいろんな想いが廻った。
微かに、戻ってくるかもしれないという思いもあって、あたしは『箱』の中で〝獏〟の帰りを待っていた。
三日間、呆けたように座り込んでいた。
頭の中はすでに朦朧としていた。四日目の朝が来た。
霞がかかったような頭の中が、突然晴れた。
――――外!
急に頭にひらめいた。――そうだ、外へ行ったかも……! 外で隠れて待っているかもしれない!
がばっと立ち上がると、目の前が真っ暗になって足がふらついた。そのまま後ろへひっくり返った。急な行動に脳貧血を起こしたらしい。
しばらくじっとしていてから、今度はゆっくりと立ち上がった。
ドアから出て左右を見回す。頭の中には〝獏〟の事しかなかった。
「〝獏〟」
小さく呼んで、耳を澄ませてみる。――返事はない。
今度はもう少し大きな声で呼んでみた。――やっぱり返事はない。
不安が胸を締め付けた。――もうなりふりなんてかまってられなかった!
「〝獏〟!」
あたしは叫ぶように呼ぶと、駆け出した。
別に目的地があったわけじゃない。確信があったわけでもない。だから〝獏〟と行った事のある場所をすべて回った。
中央公園、図書館、博物館、美術館、医療センター……。
「〝獏〟!」
大声で呼んだ。誰もいないのを幸い(いくら平日とは言え、係り員以外日中誰もいないなんて思わなかった)何度も何度も呼んだ。でもどこからも返事は返って来なかった。
最後に《センター》へ足を向けた。
《センター》へは〝獏〟と一緒に行った事はなかった。
《センター》へ行くのはあたしにとって最後の賭けだった。出来るなら行きたくなかった。それは〝獏〟の終わりを――死を確認することになると思っていたから……。
《センター》の前に立って建物を見上げた。足が微かに震えているのが分かる。《センター》というところがあたしにとって良い思い出の無い、どちらかと言えば恐怖に近い感情の対象と言うだけじゃなく、〝獏〟の安否を知る最後のところだからだ。
あたしはずいぶん長い時間、建物を睨んで立っていた。
足を踏み出し、中へ入って行って、〝獏〟を呼んで、探して……でも足が動かなかった。
最初に〝獏〟に会った時に想像していた通りの事が行われているかもしれない。もしかするとあたしの想像の範疇外のことかもしれない。どんな事でもこの目で見てしまえば、現実だと絶望しなくてはいけない。でも見ていなければ一縷の望みを持っていられる……。
自分勝手な甘い考えだと思った。逃げだという自覚もあった。でも、生きていくための希望もほしかった。……心が揺れた。




