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紫色の獏  作者: 丸虫52
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第三章 地上への誘い ~初めの一歩~

「ちょっと待って下さい」

「何?」

「私が先行して様子を見てみます。少しだけ扉を開けてください」

「どうして? 一緒に行けばいいじゃない」

 あたしがそう言うと〝獏〟は、

「何かあった時のリスクは、少ない方が良いでしょう? だから私がおかしいと言ったら、すぐに扉を閉じてユニットへ帰ってください」

「そんなことしたらあなたが死んじゃうじゃない!」

「大丈夫ですよ。どうせ私は想像上の産物ですから」

「そんな言い方しないで!」

 あたしは叫んだ。

「そんなどうでもいいみたいな言い方しないで!」

 〝獏〟はなだめるように、

「あなたはもうすでに、充分リスクを負ってます。これ以上のリスクは、言い出した私が負うべきです」

 きっぱりと〝獏〟は言った。それに対してあたしは何も言えなかった。そればかりか〝獏〟にすまない思う心の片隅にホッとする部分があって、それがとても恥ずかしかった。あたしも事なかれ主義の市民と同じなのだということが悔しかった。

 〝獏〟が扉の向こうへ行く気配がした。〝獏〟からの応答があるまで実際には5秒にも満たない時間だったのだろうが、あたしは何時間も経ったような気がした。

「問題ありません。こっちへ来て下さい」

 あたしは〝獏〟の言葉を聞いた途端、開いた隙間から急いで体を横にして滑り込ませた。中へ入って一息ついて、あたしは『箱』から持ってきた物の存在を思い出した。あたふたと持ち物を探り、今更ながらゴーグルをかけ、測定機のスイッチを入れた。闇の中に安全を知らせる金属音が流れ出した。〝獏〟が小さく吹き出したような声がした。

 次にハンドライトを点ける。スポットライトが闇に円を描く。

「10mほど歩くと二番目の扉がありますよ」

 闇の中でも目が見えるのか、〝獏〟が言う。ライトを前へ向けると確かに扉が見えた。

 側面の壁を手で辿り、足元を照らしながら歩いた。

 少し歩くと第二の扉に辿り着いた。

 扉に手をかけ……あたしは躊躇った。

 この扉の向こうは地上に直結している。一切の生物が生きてゆくことのできないと教えられてきた地上の空気、それがこの扉を隔ててすぐのところにある──。

 ええい、ここまで来て何を怖気づいてるんだ! あたしは迷いを振り払うように、ノブを勢いよく回し徐々に扉に掛けた手に力を加えた。

 意外にというかやっぱりというか、この扉にも鍵はかかっていなかった。重い音を立てて扉が開いていく。あたしは反射的に息を止めた。

 10cmくらい開いたところで、また〝獏〟が止めた。声を掛ける間もなく扉を擦る音がして、やがて〝獏〟の声がした。

「大丈夫ですよ、あなたもこちらへどうぞ」

 止めていた息をゆっくり吐き出して深呼吸ひとつすると、思い切り力を込めて扉を開けた。

 開いた扉からは空気が塊で押し寄せてきた。あたしはその圧力に思わず目を閉じ、息を止めた。

 そろそろと目を開け、二度三度深呼吸をした。喉の奥が開いて、脳のどこかが目覚めるような感覚がする。微かなカビ臭さはあるけれど、肺が痛くなるほど空気が濃い。

「大丈夫でしょう?」

 足元から、姿の見えない〝獏〟の声がした。あたしは黙って肯いた。

「ここをずっと行くと地上へ出られるのね」

「そうです」

 あたしの問いかけに〝獏〟が答えた。……なんだか少し興奮してきた。

「少し歩くと階段がありますよ」

 〝獏〟の誘導通り、少し進むと光の輪の中に階段が浮かんだ。階段は上へ向かって延々続いていた。先の方は灯りが届かない。くらりと目眩がした。これを往復して、朝までに帰ってこれるだろうか―─あたしはうんざりした。

「これを登るの……?」

 思わずぼやいたあたしに、〝獏〟は軽く請合った。

「大丈夫ですよ」

 何が? と、突っ込みを入れたかったが、どうせ切り返しが来るだろうから、止めた。

 それでも気を取り直して階段に足を乗せた。十段ほど上ったところで急に階段が動き出した。省エネタイプのエスカレーターだった。あたしはほっとした。

「知ってたの?」

 思わずなじると、〝獏〟はしれっと答えた。

「古書に書いてありましたから」

 エスカレーターはどんどんスピードを上げた。どれくらいのスピードが出ているのか分からなかったが、気を抜くと足を取られそうになるほどだった。空気は壁のようにぶつかって来て、息がしにくかった。耳の奥の方も時々痛くなった。

 地上が近づくにつれて、あたしは空気の匂いが変わってきているのに気付いた。どう違うのかはっきりとは言えないが、都市の空気が『静』だとすると、ここの空気は『動』だ。長い間閉じ込められていてもエネルギーを持っている。ここに比べれば都市の空気は澱んで腐りかけている。死んでいる。

 地上からの空気は、あたしに懐かしさを感じさせると同時に生き返らせてくれた。

 どれほどの距離を上ってきたのか、やがてエスカレーターはスピードを落とし、そして停まった。丸い光の中に申し訳程度の踊り場が見える。そこから先はまた階段が続いている。

 私は踊り場に降り立ち、階段をハンドライトで隅々まで照らした。──どうやら今度の階段は自力で登らなくちゃいけないらしい。

「今度は楽できないみたいね」

 あたしは一つ息をついて呟くと、階段に足をかけた。

 〝獏〟はあたしより先に進んでいるらしく、時々上のほうから注意や励ましをよこした。

 しばらく進んで大きな曲がり角にさしかかったとき、角の向こうで〝獏〟が叫んだ。

「空が見える! 早くいらっしゃい! ほら、空が見える!」

 声につられて大急ぎで角を曲がった。

「どこ? どこに見えるの? 真っ暗で何も見えないじゃない」

 視界は相変わらず黒一色──そう思ったすぐ後でちょうど正面に当たるところが長方形に他のところと色が違うことに気づいた。周りより少し灰色を帯び、白い点がちりばめられていた。

「何? あの点々……」

「点々? ……ああ、星ですよ」

「星! あれが? へえ……初めて見る」

 あたしはぽかんと口を開けて、生まれて初めてみる星空にすっかり心を奪われていた。

 あたし達都市に住む者にとって星なんて、言葉や映像では知ってても一生どころか自分の子孫に至ったとしても絶対目にすることの出来ないもののはずなのに……あたしは今、現実に、この目で、見ているんだ! ──そう思うとなんだか異常に興奮してきて、体が震えてきた!

 そう言えば、気象用語や季節用語などは学校で必ず習うけれど、あたしたちがそれを実際に体験することはない。自然現象の発生メカニズムや影響についても、おそらく昔の人よりも詳しく知っているという自負はある。しかしそれは紙の上だけの知識であって、何の役にも立たない。人間が地上に住んでいたころは、原因や先の見通しはわからなくても身をもって体験することができた。これは何にも勝る学習だと、あたしは思う。あたしたちは訳も判らず、ただ、学習内容だからとか昔からの習慣だからと、無理やり覚えこんでいるに過ぎない。

「いつまでこんなところにいるつもりなんですか。地上へ出ればもっとたくさん見えますよ。さあ、行きましょう」

 〝獏〟が立ち尽くしているあたしを促した。あたしはゆっくりと残りの階段を上がった。

 出口が近づくにしたがって空気の流れが強く感じられてきた。

 ふと、妙な音がしているのに気づいて足を止めた。さらさらとも、かさかさとも聞こえる音──。

「どうしたんです?」

 再び足を止めたあたしに、〝獏〟が訊ねた。

「ねえ、何か音がする。……ほら!」

「ああ、草が風に吹かれてるんですよ」

 しばらく耳を澄ませていた〝獏〟が、笑いながら答えた。

 ―─草──。

 口の中で繰り返した後、あたしは階段を駆け上がった。後ろから〝獏〟が慌てて追いかけてきた。

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