第二章 秘密 ~拒絶~
そんなある夜、散歩の途中で〝獏〟がまたもや思いがけないことを言い出した。
「地上へ出てみませんか?」
中央公園の街灯の下のベンチでのことだった。
「いやよ!」
あたしは即座に、〝獏〟の言葉を遮るように叫んだ。
「冗談じゃない! あんた地上がどんなとこだか知ってんの? あそこは、あそこはね、地獄なのよ!」
あたしは自分のいる場所を失念していた。それほどあたし――いや、あたし達地下に住む人間にとって、地上は恐怖の対象でしかなかった。『あれ』を思い出して、あたしの声は震えていた。
「地上にあるのは、毒の空気と生物の死骸と毒水だけなんだから! あそこはね、どんな生物も長く生きていくことができないところなんだから! 瞬きする度に目は溶けて、身動きする度に皮膚は腐って剥がれ落ち、呼吸する度に肺は固く干からびてゆくんだから!」
あたしの見幕に驚いた〝獏〟はおずおずと口をはさんだ。
「それって、あなたが自分の目で見たんですか?」
「見たわよっ! ずうっと昔、小さい頃にフィルムを見たわよっ!」
「フィルム? どんな?」
多少嘲りを含んだ声に聞こえたのは、気のせいだったのだろうか? 〝獏〟はあたしから視線を外さずに訊いた。
「地上から地下へ下りてきて二百年ほど経った頃の実験フィルムよ! 元気なマウスが入ったガラスケースに地上からの送風孔を直接つないだ途端、くるっと一回転して死んだのよ! 足がひくひく痙攣して、みるみる内に干からびていったんだからっ! それに、20ℓの清浄な空気の中に0.1mℓの地上の空気を入れた実験も……。最初、鼻ひくひくさせてたマウスが急に暴れ出して、ガラスケースに何度も頭を打ちつけて、血が出て……。そのうちに動く度に体毛が抜けていって、動きが鈍くなる頃にはほとんどの体毛が抜け落ちてて、身体の色もピンク色がかっていたのが真っ黒になってた。その内、ひくひく動いてた腹が動かなくなって……! 一緒に入っていた花だって、何もしてないのに花びらが一枚一枚散っていったのよ。蕾なんて、そのまま真っ黒に干からびたみたいになったんだから……。あたし、フィルムを通じて地上の空気が来るかもしれないって思って、途中から息を止めて見ていたんだからっ……。だんだん気が遠くなって、苦しくなって、気がついたら救護室にいて……。地下でよかったって、死ななくてよかったって、嬉しくて涙が出たんだから……。そんな気持ち、あんたにわかるの? わかるっていうの?」
あたしはその時の気持ちを思い出して、話しながらぽろぽろと涙をこぼして〝獏〟にくってかかった。〝獏〟はそんなあたしを哀しそうな目をして見ていた。
「あたし、いやだからねっ! 死にたくないもの、絶対にいやだからねっっ!」
あたしは場所も忘れて泣き喚いた。〝獏〟はそんなあたしを黙って見詰めていた。
「……酷いことをするな……」
長い長い沈黙の後、ぽつりと〝獏〟が言った。
「小さい時に一生心から消えない傷をつけるなんて……。可哀想に……」
あたしは意外な言葉を聞いて、驚いて〝獏〟を見た。〝獏〟の目は包み込むように優しくあたしに向けられていた。
「わかりました。地上の話しはなかったことにしましょう」
〝獏〟はゆっくりと目を伏せるとそう言った。
その夜、あたしは泣きながら『箱』へ帰ってきた。〝獏〟は道すがらずっと過去の恐怖を思い出させたことを詫び、宥めてくれた。しかし、一度溢れてきた思い出はなかなか収まってくれず、思い出させた〝獏〟を恨めしく思った。
そして、後日指摘されるまであたしは気がつきもしなかったのだが、思い返してみると不思議としか言いようのないことがあった。それはあたし達は夜の中央公園の、それも街灯の下という目につくところにいたのに、そこであたしは泣き喚いたのに、誰も何も言ってこなかったことだ。普通なら《センター》の局員あたりが飛んで来そうなのに……。
理由はずっと後になって分かった。それもこの時には想像もしなかったところで。
*** ***
次の夜とその次の夜、あたし達は外へ出なかった。あたしはそんな気になれなかったし、〝獏〟も誘ってこなかった。
それでも〝獏〟と一緒にいるのは何となく気づまりで、あたしは朝黙って『箱』を出ると帰宅時間ぎりぎりまで学校にいて、街路灯がすべて点き終るまで『箱』へ帰らなかった。
帰ってきても〝獏〟と視線を合わせなかった。〝獏〟もあたしに声をかけようともせず、何か考え込んでいるようだった。
あたし達はお互いに黙って背を向けたまま、じっと座っていた。何となく重苦しい空気が『箱』の中に充満していた。
三日目の夜、〝獏〟が相も変わらず黙り込んでいるあたしの背中に向かって声をかけてきた。
「少し出かけて来ます。今夜は帰ってこないと思いますが、心配しないで下さい」
あたしは「うん」とか「ふん」とか返事をしただけで振り返りもしなかった。背中越しにドアが開いて閉じる音がしても振り向かなかった。〝獏〟が単独で行動して誰かに見つかる事をあれほど懸念していたのに、そんな事に気も回らないほどあたしは自分の感情を持て余していた。
結局、〝獏〟は二日半、帰ってこなかった。




