第35話 覚悟
「……あぁ」
七瀬は、姫華の動かない身体から視線を外し、
興味を失ったように息を吐いた。
「でもな」
その声は、やけに穏やかだった。
「まだ、選択は終わってへんで」
陽翔は、反応できなかった。
目は開いている。
だが、焦点が合っていない。
耳鳴りだけが、世界を満たしている。
(……終わって、ない?)
(……まだ?)
七瀬は、今度は千景の方へ歩み寄る。
「ほな、次いこか」
指が、ひとつ鳴らされた。
金属音。
千景を固定していた拘束具が、
一つ、また一つと外れていく。
手首。
足首。
胴。
自由になるはずの身体は、
だが、床に崩れ落ちることもない。
最後に残ったのは……首。
首元を囲う、分厚い金属輪。
そこに、微かな魔力の脈動。
(……いつでも、爆発できる)
それが、はっきりと分かる造り。
千景は、息を呑んだ。
「……っ」
動ける。
だが、動けば終わる。
七瀬は、満足そうに頷いた。
「これで、ええやろ」
そして、何でもないことのように告げる。
「次はな」
視線が、陽翔へ向く。
「千景ちゃんと、陽翔くんの────」
一拍。
「────殺し合いや」
空気が、完全に死んだ。
「……は?」
陽翔の口が、勝手に動いた。
理解が、追いつかない。
(……殺し……合い?)
(……何を、言ってる……?)
(……こいつは、何を……)
七瀬は、説明する気もない口調で続ける。
「簡単な話や」
「どっちかが、死ぬ」
それだけ。
陽翔の喉が、引き攣れる。
視線が、千景へ向く。
千景は、立っていた。
拘束は外れ、
それでも逃げない。
逃げられない。
首元の金属輪が、静かに存在を主張している。
七瀬は、楽しそうでもなく、退屈そうでもなく、
ただ、淡々と告げた。
「さぁ」
「自分の命か」
「仲間の命か」
言葉が、刃のように落ちる。
「どっちを、選ぶ?」
陽翔の視界が、揺れた。
(……俺が、死ねば)
(……千景さんは、生きる)
(……でも)
(……俺が、生きたら)
思考が、そこで止まる。
考えたくない。
想像したくない。
なのに────
七瀬の声が、逃げ道を塞ぐ。
「言っとくけどな」
「時間、かけてもええで」
優しい声音。
「悩む時間も、絶望する時間も……」
「全部、君のもんや」
その言葉が、
何より残酷だった。
選択肢は、二つ。
もう、
“正解”は、存在しない。
千景が、ゆっくりと息を吸った。
「……陽翔」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「落ち着いて」
震えているのは、声じゃない。
指先だった。
それでも、千景は続ける。
「大丈夫よ。大丈夫」
自分に言い聞かせるように、
それでも確かに、陽翔へ向けて。
「陽翔、貴方は悪くないわ」
陽翔の喉が、ひくりと鳴る。
「……なにを……」
言葉が、続かない。
「何を、言ってんですか……」
千景は、ふっと微笑んだ。
それは、戦場で見せる強がりでも、
痛みを隠すための笑顔でもない。
ただの少女の顔だった。
「陽翔が入ってきてからね」
少し、視線を遠くへ向ける。
「随分と騒がしくて……色々あったわ」
団長の怒鳴り声。
烈の無茶。
澪の叱責。
薫の溜め息。
思い出すように、目を細める。
「……楽しかった」
陽翔の胸が、嫌な音を立てて軋む。
「それに」
千景は、一度だけ言葉を切った。
「陽翔と……」
ほんの一瞬、迷ってから、首を振る。
「ううん」
「暴黒の獅子のみんなに会えて」
はっきりと、言い切った。
「ほんとに、よかった」
「……やめて……ください……」
陽翔の声が、かすれる。
「そんなこと……」
千景は、首を振った。
「陽翔」
そして、まっすぐに見据える。
「約束して」
世界が、止まる。
「……アナタは」
一拍。
「生きなさい」
その瞬間。
千景の掌に、鉄が生まれた。
迷いのない生成。
刃は短く、鋭く、致命点を理解した形。
「……ッ!!」
陽翔が、叫ぶより早く。
千景は、自分の腹へと剣を突き立てた。
ぐ、と
鈍い音。
肉を裂く感触。
「────ッ!!!!!」
陽翔の視界が、真っ白になる。
血が、滴り落ちる。
床に、赤が広がる。
千景の膝が、崩れた。
それでも、顔は上を向いたまま。
「……ごめんね、辛いよね」
かすれた声。
「でもこれで……選ばせなくて、済むでしょ……?」
首元の金属輪が、静かに光る。
七瀬は、まだ何も言わない。
ただ。
その場に崩れ落ちる千景の姿が────
────致命的に重かった。
「あぁ……あ゛ぁ゛ぁぁぁぁ!!!!!」
声にならない叫びが、胸をえぐる。
千景の血の匂い、鉄の光、七瀬の冷たい視線、
烈の言葉、姫華の姿……全てが押し寄せ、
頭を打ち砕くようだ。
俺は……何も守れない。
烈さんも……!
姫華も……!
千景さんも……!!
「……俺の……せいで……!」
身体が震え、刀を握る手がガタガタと軋む。
指先から力が抜け、足元の床がふわりと揺れる。
世界の境界が、ぐにゃりと歪んで見える。
──どうして、俺は……。
記憶の断片が、錯綜する。
烈の笑顔、千景の声、姫華の決意……
それらが次々に遠くなる。
痛みも、恐怖も、怒りも、全部が混ざって、
胸の奥で鈍く重く、渦巻いていく。
意識が薄れ、現実の輪郭がぼやけていく。
時間の感覚も、音の感覚も、色の鮮やかさも、
全部が溶けて、霞んでいく。
「……俺は……」
声に出ているか分からないくらいの声。
心臓の鼓動だけが、耳鳴りのように耳に響く。
叫びたいのに、声は空気に溶けて消える。
「……もう……誰も……」
視界が白く滲み、世界が崩れていく。
自分が地面に沈んでいくようで
重力すら意味を失う。
光も闇も、痛みも温もりも、
すべてが遠く、遠く──。
──そんな時。
胸の奥、瞳の奥、心の奥底で、
熱い光が瞬いた。
小さく、でも確かに。
黒く、渦巻く雷のような光。
それは、意識の奥で小さくうねり、
確かに存在を主張していた。
それはまだ目に見えず、制御もできない。
だが、陽翔の全身が、
無意識にその力を感じている。
怒り、絶望、後悔、という想い。
すべてが一点に集まり、
熱を帯びて震え始めていた。
「……どうして……なんで……」
胸が引き裂かれるような絶望。
烈も、姫華も、千景も……守れない。
俺は、何もできない……!
「くそ……くそ……くそ……」
拳を握りしめても、世界は崩れるばかり。
血の匂い、鉄の冷たさ、痛み、無力……
全てが俺を押し潰す。
視界の端で、黒い雷のような光がうねった。
それは、俺の怒りでも悲しみでもない。
ただ、絶望を増幅するだけの力。
「あ゛ぁ゛ぁぁぁぁ!!!」
絶望が声となって叫び、空気を裂く。
でも、体はもう自分の意思で動かせない。
手も、足も、心も、全てが空虚に沈む。
黒い光が瞳に浮かび、視界が歪む。
電流のような感覚が、体を貫く。
「俺は……何も守れない……!」
熱と闇が混ざり、周囲の空間がぐにゃりと揺れる。
血の匂い、痛み、悲鳴……全部、遠くなる。
視界の奥で、雷の欠片がさらに大きくうねる。
それは俺の意思を無視して動き、
勝手に力を求めているようだった。
「あ゛ぁ゛ぁぁぁぁ!!!」
声と絶望が体を震わせる。
胸の奥で黒い雷が爆ぜ、痛みと絶望が交錯する。
────プツン
意識が途切れる。
身体はそこにあるのに、世界は消えた。
瞳の奥で黒い光が無意識に暴れ
陽翔と絶望、悲しみ、恐怖、後悔を糧に────
〝魔眼〟が開眼する。




