第34話 ケジメ
陽翔の心臓が、何度も跳ねた。
目の前で拘束された千景と姫華。
助けられるのは片方だけ。
「ほな、一投目いくでぇ」
鉄のナイフが、七瀬の手から同時に二人へ向かう。
(どっちを……!?)
胸が引き裂かれるような葛藤。
刀を握る手が、震える。
千景は冷静だ。
「陽翔、安心して。私は痛みに負けない」
その声に、千景の覚悟が込められている。
姫華は、必死に声を振り絞る。
「陽翔!私に考えがある……だから千景を!」
その瞬間、陽翔の意志が決まった。
「……信じるぞ」
刀を振り、千景に向かうナイフを弾く。
鋭い金属音が空気を切り裂き、
千景は無傷でそこに立っている。
だが、振り返った先に──姫華の身体に、
ナイフが刺さっていた。
血が拘束された腕や胴に広がる。
「ひめ……!?」
姫華は痛みに歪む顔で、それでも微笑む。
「……大丈夫……千景は無事みたいね」
その笑みが、陽翔の胸を締めつける。
希望と絶望が同時に押し寄せる瞬間──。
世界は、残酷で、速すぎる。
七瀬は、冷たい笑みを浮かべ、二人を見下ろす。
「ほぉ……流石ヒメちゃんやな」
陽翔は、刀を握る手に力を込め、
胸の痛みを押し殺す。
まだ戦いは終わっていない──だが彼の中で、
信じる選択は確かに芽生えていた。
「姫華……!なんでだよ……策があるって!」
姫華は、血に染まった身体を必死に
支えながらも、揺るがない瞳で陽翔を見つめる。
「陽翔……このバカは、私のクランの仲間だった」
陽翔は息を呑む。
怒りと焦燥、胸を締め付ける絶望が
一気に押し寄せる。
姫華は言葉を続けた。
「だから、この不始末は私が引き受ける」
動けない身体でも、目だけで千景を守る姫華。
「動かないで。千景を守って……。
これが、私なりのケジメよ」
陽翔は刀を握る手を強く震わせ
胸の痛みを押さえ込む。
その瞳の奥で、怒りと焦りが燃え上がる。
────────
その後も、地獄は続いた。
「ほな、二投目いくで」
七瀬の声は、変わらない。
感情の起伏も、躊躇もない。
ただ、投げる。
陽翔は、歯を食いしばり、刀を振る。
千景へ向かう軌道だけを、必死に叩き落とす。
——金属音。
同時に、背後で。
「……っ」
短い、息を詰めた声。
振り返るまでもなく、分かってしまう。
姫華の身体に、また一本。
「姫華……!」
叫びは、もう掠れていた。
血が、床に落ちる音がする。
一滴、また一滴。
七瀬は、首を傾げる。
「まだまだ、いけそうやん」
ただ、それだけ。
「ほな」
三度目。
「次、いこか」
陽翔の心臓が、異常な音を立てる。
早すぎて、壊れそうだ。
(やめろ…………)
刀を握る手の感覚が、薄れていく。
自分の腕なのかすら、分からない。
——弾く。
——刺さる。
それだけの、繰り返し。
「……っ、ぐ……」
姫華の声は、もうほとんど音にならない。
それでも、目だけは逸らさなかった。
陽翔を心配させまいと。
気丈に振る舞い、声を出してたまるかと。
(やめろ……)
(やめてくれ……)
そう願うのに、ナイフは次々に投げられる。
「……くそ……」
喉の奥から、押し潰した声が漏れる。
(俺は、何をしてる)
(守ってる?)
(違う)
(見殺しにしてるだけだ)
七瀬は、淡々と告げる。
「安心せぇ」
その言葉が、最悪だった。
「まだ致命傷やない」
だから、続けられる。
だから、終わらない。
「……何本目やっけ?」
指を折る素振りすらせず、
ただ、次のナイフを作る。
陽翔の視界が、滲む。
(やめろ)
(もう、選ばせるな)
声にならない叫びが、胸を掻きむしる。
——それでも。
「ほな、次」
世界は、止まらない。
姫華の血が増えるたびに、
陽翔の中で、何かが静かに削れていく。
怒りでも、悲しみでもない。
もっと冷たくて、戻らないもの。
「俺は……」
言葉が、続かない。
(俺は、どうすればいい)
答えは、どこにもなかった。
姫華の呼吸が、目に見えて浅くなっていた。
血に濡れた床。
拘束された身体。
それでも、倒れないように、必死に意識を繋ぎ止めている。
陽翔が、叫ぶ。
「やめろ……もう……やめてくれ……!」
七瀬は、ちらりと視線を向けただけだった。
「まだ終わってへんで」
その瞬間。
かすれた声が、静かに割って入る。
「……姫華」
千景だった。
口だけが自由なまま、
動かない身体で、必死に声を絞る。
姫華の目が、わずかに見開かれる。
「……千景……?」
千景は、苦しそうに息を吸い、
それでも、はっきりと言葉を紡いだ。
「……もう、十分よ」
姫華が、首を振ろうとする。
だが、鉄の拘束が、それすら許さない。
「ダメ……」
千景は、続けた。
「あなたが引き受ける理由は、分かる」
声は震えている。
けれど、逃げていない。
「仲間だったことも……責任も……」
一瞬、言葉が詰まる。
「……でも」
千景の視線が、姫華を射抜く。
「それで死んでいい理由には、ならない」
姫華の唇が、わずかに動いた。
「……千景……」
千景は、必死に呼吸を整えながら言う。
「私を守れって言ったのは……あなたでしょ」
「だったら……」
声が、少しだけ強くなる。
「あなたも、生きなさい」
その言葉が、
姫華の胸を、真正面から貫いた。
「……私は……」
姫華の声が、揺れる。
七瀬は、相変わらずの調子で、こう言った。
「ハイ、次行くでぇ」
七瀬の指先が、わずかに動いた。
風を切る音すら、もう耳に入らない。
鈍い衝撃音。
そして。
姫華の身体が、がくりと揺れた。
支えていた力が、完全に抜ける。
拘束されたまま、
頭が前に垂れ、
血に濡れた髪が、床を擦った。
「……ひ、め……?」
陽翔の声は、掠れていた。
返事は、ない。
呼吸の上下も、
もう、はっきりとは分からない。
(……動かない)
(……嘘だろ)
陽翔の足が、勝手に一歩踏み出しかける。
だが────
止まる。
(……動けない)
(動いたら、千景が……)
喉の奥から、声にならない音が漏れた。
「……くそ……」
七瀬は、姫華を一瞥し、
ほんの少しだけ首を傾げた。
「あ」
軽い声。
「あ、ヒメちゃーん?」
間。
「死んでもうた?」
空気が、完全に凍る。
陽翔の視界が、狭くなる。
「……は?」
七瀬は、続けた。
確認するようでもなく、
興味本位でもなく。
ただ、事実を口にするみたいに。
「どないや、陽翔くん」
視線が、真っ直ぐ刺さる。
「言うたやろ?」
「一発では死なんけど」
「何発も食らったら、まずいって」
一歩、近づく。
「でな」
七瀬は、淡々と告げる。
「君は、千景ちゃんを選んだ」
「その結果」
姫華を、顎で示す。
「ヒメちゃんが、こうなった」
陽翔の耳鳴りが、酷くなる。
(……俺が)
(……俺が、選んだ)
七瀬は、最後の一言を落とした。
「どうや?」
「君の選択で」
「ヒメちゃん、死んでもうたよ?」
その瞬間。
陽翔の中で、
何かが、完全に折れた。
「……違う……」
小さな声。
「……違う……」
拳が、震える。
「俺は……」
「俺は、助けようと……」
七瀬は、遮る。
「そーや助けたで?」
あっさり。
「千景ちゃんは、生きとる」
だから、とでも言うように。
「せやから」
「ヒメちゃんは」
一拍。
「〝選ばれなかった〟だけや」
陽翔の呼吸が、荒くなる。
胸が、焼ける。
目の奥が、熱い。
(……助けたはずなのに、助けてない)
(……守ったはずなのに、守れてない)
(……なんで……)
視界の端で、
千景が必死に何かを叫んでいる。
だが────
もう、言葉が入ってこない。
世界が、遠い。
七瀬は、満足そうに息を吐いた。
「ええ顔になってきたな」
その声が、
地獄の続行を告げる合図だった。




