第36話 策略
最初に、壊れたのは音だった。
七瀬は、はっきりとそれを感じ取った。
「────あ?」
空間に満ちていたはずの、血の匂い。
鉄のきしむ音。
遠くで軋む建物の残響。
それらが、一瞬で、消えた。
まるで世界そのものが、
息を止めたかのように。
七瀬は、初めて眉をひそめた。
「……静かすぎるやろ」
陽翔は、倒れたまま動かない。
呼吸も、
鼓動も、
生きている証すら、感じ取れない。
それなのに。
“何か”だけが、
確実に、そこに在る。
床に落ちた血が、微かに揺れた。
波紋。
音もなく、広がる円。
次の瞬間。
バチ、と。
空気が弾けた。
「……ッ」
七瀬の足元を、黒い雷が走る。
床を焦がし、金属を焼き、
何の前触れもなく消える。
「……なるほどな」
七瀬は、笑った。
だがその笑みは、
これまでの軽薄なものとは、少し違う。
「こら……」
一歩、後ろへ下がる。
無意識だった。
陽翔の身体から、
“何か”が溢れ始めている。
黒い光。
雷のようで、
影のようで、
それでいて、どちらでもない。
視界が、歪む。
距離感が、狂う。
陽翔の周囲だけ、
世界の法則が、剥がれ落ちていくような感覚。
「……〝あの人〟並やで」
七瀬は、呟いた。
コピー能力者として、
数え切れない魔法を見てきた。
だが、
これは、違う。
「こんなもん、ホンマにコピーできるんかいな」
七瀬の声が、低くなる。
「でも絶対に貰うで……その〝魔眼〟」
陽翔の瞳が、
ゆっくりと、開いた。
焦点は、合っていない。
そこに“意思”はない。
あるのは────絶望だけ。
黒い雷が、陽翔の周囲で螺旋を描く。
壁が、床が、天井が、
理由もなく、崩れ始める。
「……あーあ」
七瀬は、頭を掻いた。
「これは……」
一歩、また一歩と距離を取る。
「……ちょっと、洒落ならんかもなぁ」
その瞬間。
七瀬の頬を、
黒い稲妻が、掠めた。
触れてすらいない。
見えもしない。
それでも、
確実に“何か”が当たった。
血が、頬を伝う。
七瀬は、初めて目を見開いた。
「……は?」
次の瞬間。
幾本もの黒い雷が暴れ出す。
「……なるほど」
七瀬は、喉を鳴らした。
「これが……魔眼か」
有無を言わさない魔眼の圧力に、
思わず笑顔が引きつってしまう。
陽翔は、こちらを見ていない。
なんなら意識があるのかさえも怪しい。
それでも、
世界そのものが、陽翔を中心に壊れていく。
怒りでもない。
憎しみでもない。
ただ、ただ力が溢れている。
七瀬は、静かに息を吐いた。
「……これは」
そして、ぽつりと零す。
「起こしたら、あかんヤツやったかもな」
黒い雷が、七瀬に向け、再び走る。
────────
────時は、少し遡る。
東京。
白銀の翼の拠点は、
無駄のない静寂に包まれていた。
灯りは最低限。
装飾もない。
あるのは、剣と魔法と、実戦のための空間だけ。
その中央に立つ男は、
細身の体躯に、銀白の髪。
年齢は読めない。
若くも見え、老いても見えない。
感情の起伏を感じさせない目。
立っているだけで、
“決断する側”の人間だと分かる空気。
白銀の翼・団長。
白銀正刻。
彼は、腕を組んだまま、
突入した拠点の報告を聞いていた。
「……以上です」
雨夜 薫が、短く締める。
「フードの集団がいるとされた場所でしたが」
「痕跡は、ありませんでした」
「完全に、空です」
守谷 澪が、続ける。
「結界、血痕、魔力残滓……」
「全部、ない」
「人がいた形跡自体が、感じられない」
沈黙。
誰もが、違和感を抱いていた。
あまりにも綺麗すぎる。
近衛 一真が、低く呟く。
「……最初から、誰もいなかったみたいだな」
白銀は黙ったまま、地図を見下ろしていた。
東京。
そして、赤い印で示された箱根。
やがて、ぽつりと口を開く。
「この任務」
声は低く、静か。
「誰が、話を持ってきた」
全員の視線が、一点に集まる。
雨夜が、少し間を置いて答えた。
「……作戦発案者は七瀬と聞いてますが」
その名が、空気を変えた。
白銀は、視線を上げない。
「七瀬達の本当の任務は」
「箱根での魔人討伐ではなく」
「狙われる可能性のある3人を
フードの集団から離し護衛。
その間にこっちでフードの集団を討伐……
……の予定でしたが……」
白銀は、ようやく顔を上げた。
銀色の瞳が、静かに細められる。
「……あぁ、俺もそう聞いている。
そして3人が狙われると情報を、
持ってきたのも七瀬だ」
誰も、否定しなかった。
「最高戦力で本命を叩かせる」
「…………だが」
彼は、淡々と続ける。
「それは“嘘”だった」
「つまり」
「俺達の〝足止め〟の可能性が高い」
近衛が、歯を食いしばる。
「……正刻、七瀬の目的は?」
「分からないが、“3人”の可能性は高い」
即答だった。
団長は、剣の柄に手を置いた。
「七瀬は〝計算できる男〟だ」
「仲間も、状況も、感情も」
「すべてを盤面に乗せる」
澪が、不安そうに息を呑む。
「……じゃあ、箱根は……」
団長は、地図の赤印を指でなぞった。
「危険だ」
短く、断定。
「少なくとも」
「あのメンツでは七瀬に勝つ望みは薄い」
沈黙が、落ちる。
東京の夜は、何事もなく続いている。
だが。
彼らは、もう分かっていた。
この静けさは、
嵐の前兆だ。
白銀は、顔を上げる。
「箱根へ移動する」
「今すぐだ」
迷いは、ない。
「何かあったら俺が責任を取る」
「それが、俺の役目だ」
彼は、出口へ向かう。
背中は細い。
だが、その背中に、
迷うという選択肢は存在しなかった。
「……無事でいてくれよ」
近衛が、呟く。
白銀の翼の団長は、立ち止まらずに答えた。
「それに……〝最悪〟俺がなんとかする」
その声に、迷いはなかった。
白銀は、歩き出す。
その頃、箱根では────
北側拠点への突入と、同刻だった。




