第30話 絶望
影が、ゆっくりと振り返った。
「……七瀬、さん?」
声に出した瞬間、
胸の奥に溜まっていた緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
「おー、やっと来たか」
軽い調子。
いつもと同じ声。
その“いつも通り”に、
陽翔は一歩、無意識に近づいていた。
七瀬は何も言わず、身体を半歩だけ横にずらす。
──その奥。
「…………は?」
言葉が、落ちた。
壁際。
照明の届かない場所に、ひとつの人影。
「……千景……さん?」
思わず名を呼ぶ。
返事はない。
千景は、壁に背を預けるように立たされていた。
両腕は頭上に吊り上げられ、
手首は金属製の拘束具で固定されている。
鎖ではない。
魔力を通さない、鈍い光の特殊拘束具。
足首も同じだ。
床に埋め込まれた金具に繋がれ、
一歩も動けない。
胴体には、さらに一本。
腰から胸にかけて斜めに走る固定帯。
「……っ」
陽翔の喉が鳴る。
よく見れば、拘束具の内側には
薄く刻まれた魔術紋様。
(……魔力を封じてるのか?
そもそもなんだこの状況……!)
千景の能力を、完全に殺す構造。
鉄を生み出す余地すら、与えない。
顔は青白い。
だが、血は流れていない。
拷問された痕も、ない。
だが意識は無さそうだ。
なのに。
「千景……さん?」
もう一度呼ぶ。
唇が、わずかに動いた気がした。
だが、音にはならない。
喉元。
そこにも、小さな装置が嵌められている。
声帯を抑制する器具。
振動そのものを殺すタイプだ。
(……意味がわからない……何故こうなってる)
背中を冷たいものが這い上がった。
「なん……で……」
七瀬が、頭を掻いた。
「別に、乱暴なことはしとらんで」
軽い。
あまりにも軽い。
「暴れると危ないやろ?
せやから、ちゃんと“安全に”固定しとるだけや」
安全。
その言葉が、
ここで使われることに、吐き気がした。
陽翔は、思わず足を踏み出そうとした。
次の瞬間。
姫華の腕が、強く肩を掴む。
「……動かないで」
低い声。
「……ふざけんな」
低く、押し殺した声。
我慢の限界を超えている、烈だった。
次の瞬間、
烈は一歩、前に出ていた。
「テメェ……!」
怒気が、隠されていない。
理屈も、計算も、全部すっ飛んでいる。
「千景を……!!」
踏み出そうとした烈の腕を、
「待ちなさい!」
姫華が、横から強く掴んだ。
「離せ!!」
烈が振り払おうとする。
だが、姫華の手は離れない。
「今行ったら、終わりよ!」
「終わりでも構わねぇ!!」
烈の目は、完全に据わっていた。
「目の前で、あんなことされて……
黙って見てられっかよ!!」
怒りが、熱になって溢れる。
「七瀬!!
テメェ……何してやがる!!!」
七瀬は、肩をすくめた。
「おーおー、元気やなぁ」
あくまで軽い。
「せやけどな烈くん。
今ここで暴れたら、一番困るの誰や思う?」
烈が、睨みつける。
「……黙れ!!」
姫華が、烈の前に一歩出た。
声は低い。
だが、はっきりしている。
「烈、冷静になりなさい」
烈は、息を荒くしたまま、視線を走らせる。
七瀬は手にオレンジの魔力を込めている。
千景までの距離は圧倒的に七瀬の方が近い。
「踏み込んだ瞬間、やるつもりよ」
姫華は、言い切った。
「……あの状態じゃ身体強化も封じられてるはず。
ここで突っ込めば〝最悪〟もある」
その言葉に、
烈の拳が、ぎしりと鳴った。
「……っ」
止まらない怒り。
でも、止まらざるを得ない現実。
「……くそ……!!」
烈は、歯を食いしばる。
肩が、小さく震えている。
「……なんでだよ……」
絞り出すような声。
陽翔は、その背中を見て、何も言えなかった。
自分も同じだったからだ。
動けない。
殴れない。
何もできない。
七瀬は、その様子を眺めてから、
少しだけ真面目な声を出した。
「安心しぃ」
指で、軽く千景を示す。
「まだ“壊す段階”やない」
その言葉が、
逆に、背筋を冷やす。
「……七瀬」
姫華が、静かに呼ぶ。
「これは、あなたの判断ですか?」
一拍。
七瀬は、笑った。
「せやで」
迷いのない即答。
「全部、俺の段取りや」
その瞬間。
陽翔の中で、
何かが、はっきりと音を立てて崩れた。
信頼。
安心。
“味方だ”という前提。
全部。
姫華は、烈の腕を掴んだまま、低く言った。
「……耐えて」
烈は、唇を噛み締める。
血が、滲むほど。
それでも、拳を下ろした。
「……てめぇだけは許さねぇ」
低く、殺意を含んだ声。
「必ず……取り返す」
七瀬は、くすりと笑った。
「ええ目ぇしとるやん」
そして、背を向ける。
「ほな、
次の“段階”に行こか」
〝次の段階〟それが何を意味するかはわからないが
とてつもなく嫌な予感がした。




