第7話 目覚め
雨夜との修行が始まって、数日が経っていた。
身体強化の練習から入り、疲労が溜まった後は木刀で模擬戦。
息が上がり、腕が重くなっても、雨夜は決して手を緩めなかった。
それでも、修行に向かう前、陽翔には必ずやることがある。
医療室を覗くことだ。
千景の様子を確かめる。
それが、いつの間にか日課になっていた。
「……今日も、寝てるよな」
自分に言い聞かせるように呟きながら、陽翔は医療室の扉に手をかける。
静かに開ける。
――そのはずだった。
「……え」
ベッドの上。
横になっているはずの千景が、上体を起こしていた。
朝の光が、窓から差し込み、灰色の髪を照らしている。
顔色はまだ悪い。それでも、目は開いていた。
「……起きてる」
思わず声が漏れる。
千景は、こちらに気づいたのか、ゆっくりと顔を向けた。
「……おはよう」
かすれた声。
それが現実だと理解した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「ち、千景さん……」
足が動かない。
駆け寄りたいのに、近づいていいのかわからなかった。
「……起きていいんですか」
「さあ」
短い答え。
その距離感が、逆に怖かった。
その沈黙を破るように、千景がもう一度、口を開いた。
「……新人」
呼ばれて、陽翔はびくっと肩を跳ねさせる。
「怪我は……大丈夫?」
一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。
「……え」
次の瞬間、言葉が勝手に飛び出る。
「な、何言ってんすか」
声が少し、裏返った。
「まずは自分の心配してくださいよ。
千景さん、倒れて……三日も……」
そこまで言って、言葉に詰まる。
自分で思っていたより、感情が溢れそうになっていた。
「俺は平気です。
擦り傷ですし、もう修行も────」
「……そう」
千景は、それ以上深く聞こうとはしなかった。
けれど、ほんの一瞬だけ、安堵したように視線を伏せたのを、陽翔は見逃さなかった。
「……無茶、しないでね」
小さな声だった。
それが、忠告なのか、お願いなのか、陽翔にはわからない。
「それ、こっちのセリフです」
即座に返す。
千景は、わずかに口の端を上げた。
笑ったのかどうか、判断できない程度の変化。
それでも、陽翔の胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ和らいだ。
生きている。
こうして言葉を交わせている。
それだけで、この朝は、昨日までとは違っていた。
────────
毎日、同じことを繰り返す。
魔力を巡らせ、出力を上げ、限界の一歩手前で止める。
最初は、ほんの一瞬しか保てなかった。
それが、今では――
「……ソフトボール、くらいですかね」
雨夜の前で、陽翔は肩で息をしながら呟いた。
「ええ」
雨夜は頷く。
「圧縮をかなり使えるようになってきましたね」
雨夜は、少し考えるように視線を落としたあと、口を開いた。
「……一つ、提案があります」
「はい」
「今のあなたであれば、部分的なLv2なら使えるかもしれません」
陽翔は、思わず息を呑んだ。
「部分的、って……」
雨夜は、自分の腕を軽く叩く。
「腕だけ。
あるいは、足だけ」
「身体全体ではなく、一点にだけ出力を集中させる」
頭の中で、映像が浮かぶ。
踏み込みの瞬間だけ。
振り抜く、その一瞬だけ。
「……できますかね」
「できるかどうかは、やってみなければわかりません」
雨夜は、はっきりと言った。
「ですが、成功すれば────
Lv2習得にグッと近づきます」
「……やってみます」
……足からいきましょう」
雨夜の声に、陽翔は頷いた。
右脚だけ。
踏み込む、その一瞬だけ。
陽翔は深く息を吸い、力を込める。
(――押し出せ)
魔力が脚に集まる。
その瞬間、バチッと、皮膚の内側で弾ける感覚が走った。
「……っ?」
違和感に、眉をひそめる。
次の瞬間。
バチバチッ!!
脚の周りに、青白い火花が散った。
空気が、震える。
「――っ!?」
踏み込んだ。
ビュンッ!!
視界が一気に流れる。
地面を蹴った感触が、遅れて追いかけてくる。
速い。
考えるより先に、身体が前へ飛ばされた。
「うわっ――!」
壁。
避けられない。
ドンッ!!!
衝撃が体を駆け、息が潰れる。
床に転がり、陽翔は咳き込みながら天井を見上げた。
(……なんだ、今の)
脚が、まだバチバチと微かに鳴っている。
「陽翔!!」
雨夜が駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか!?今のは……!?」
陽翔は、壁に手をつき、ふらつきながら立ち上がる。
「い、いや……」
自分の脚を見る。
「力を入れたら……
急に、電気が走って……」
雨夜は、一瞬、言葉を失った。
「……帯電、していますね」
「え?」
「雷魔法特有の反応です」
陽翔は、脚を軽く動かす。
すると、またバチッと、小さな火花が弾けた。
「……これ」
胸の奥が、ざわつく。
「これが……Lv2……?」
「違います」
雨夜は、はっきりと否定した。
「今の速度は、Lv2以上の速度です」
雨夜は、陽翔の脚から目を離さず続ける。
「偶然なのか、身体強化に、雷の性質が乗ったんです」
陽翔は、ゆっくりと息を吐いた。
説明されて、ようやく腑に落ちる。
「……だから、あんな速度が」
「ええ」
雨夜は、少しだけ考えるように視線を落とした。
「身体強化と属性付与は別物です」
陽翔は顔を上げる。
「身体強化は――
魔力を体の内側に留める魔法です」
「展開したあとは、
解除しない限り、魔力はほとんど減らない」
「……はい」
陽翔は静かに頷く。
「だからこそ、基礎として教えています」
一拍。
「ですが、属性付与は違う」
雨夜は、指先で空をなぞる。
「魔力を流し続ける魔法です」
「雷なら、雷として。
炎なら、炎として」
「使った分だけ、
確実に、魔力を消費する」
陽翔は、脚に残る痺れを意識した。
(……確かに)
踏み込んだ瞬間。
魔力が、外へ流れ出た感覚があった。
「使いすぎは厳禁です。魔力切れを起こせば、
身体強化ごと、崩れます。でも────」
「───制御できれば、あなたは
“速度”という最大の武器を手に入れます」
陽翔は、無意識に拳を握った。
(……使える)
陽翔は、もう一度、脚に意識を向けた。
まだ、微かに痺れが残っている。
(……わかる)
理屈じゃない。
どう魔力を流したのか。
どう雷に変わったのか。
説明しろと言われても、できない。
それでも――
(こうすれば、速くなる)
踏み込む瞬間。
力を込める、その“入り口”だけは、はっきりと覚えていた。
雷を纏う、という感覚。
それが、偶然にできてしまった。
(……おかしいよな)
雨夜の言う通り、本来なら別次元の難しさだ。
けれど、陽翔の中では。
身体強化よりも、
雷を“走らせる”方が――
どこか、しっくり来ていた。
「……」
陽翔は、何も言わずに脚を見つめた。
わかってしまった感覚は、
もう、なかったことにはできない。




