第9話 提案
朝の光が、薄く障子越しに差し込んでいた。
陽翔はゆっくりと目を開く。
昨夜の赫月の赤い光と、振るった感触が、
まだ身体の奥に残っていた。
「……朝か」
体を起こすと、筋肉にわずかな張りを感じる。
だが、不思議と嫌な痛みではなかった。
昨夜、確かに前に進めた、
そう実感できる痛みだった。
赫月は鞘に収められ、
壁際に静かに立てかけられている。
赤い光は今は眠っているように、微動だにしない。
「……行こう」
短く息を吐き、身支度を整えると、陽翔は家を出た。
⸻────
朝の空気は澄んでいて、街はまだ静かだった。
暴黒の獅子のビルが見えてくるにつれ、
胸の奥に溜まっていた不安が、じわじわと顔を出す。
千景さん……。
ビルに入り、いつものフロアへ向かうと、
廊下の先に見慣れた後ろ姿があった。
「……澪さん」
振り向いた守谷 澪は、陽翔の顔を見た瞬間、
ほっとしたように微笑む。
「おはよう、陽翔」
「おはようございます……千景さんは……?」
問いかける声に、澪は一歩近づき、
安心させるように優しく言った。
「大丈夫よ。もう峠は越えたわ」
「……!」
陽翔の肩から、力が抜ける。
「安心して。あとは安静にしてれば、
何日か後には元通りよ」
「……よかった……本当に……」
思わず俯く陽翔に、澪はくすりと笑う。
「無茶しすぎ。あの子も、あなたも」
「……すみません」
「ふふ。でも、生きて帰ってきた。それが一番よ」
澪はそう言って、治療室の方へ視線を向けた。
「今は眠ってるわ。
起きたらきっとあの子、怒るわよ。
弱みを見せるのが苦手な子だから……」
「……それでも、顔だけでも見ていいですか」
「ええ。静かにね」
陽翔は小さく頷き、胸の奥に溜まっていた重石が
少しだけ軽くなったのを感じていた。
医務室の扉を、陽翔は音を立てないよう
静かに開けた。
中は白く清潔で、朝の光がカーテン越しに
柔らかく差し込んでいる。
ベッドの上で、千景はぐっすりと眠っていた。
包帯に覆われた身体とは裏腹に、
その寝顔は驚くほど穏やかで、
戦場に立っていた姿が嘘のようだ。
短い灰髪が枕に広がり、
規則正しい呼吸に合わせて
小さな胸が静かに上下している。
綺麗、というより……
「……かわいい」
そんな言葉が、つい口に出てしまい、
陽翔は思わず視線を逸らした。
ツンとした態度も、きつい言葉も、
今は影も形もない。
そこにいるのは、ただ静かに眠る、
可憐な少女だった。
ベッドの傍まで歩み寄り、陽翔は拳をそっと握る。
(……こんなに、小さな体で)
自分よりも細く、軽いはずのその身体が、
あの時は迷いなく前に出た。
恐怖も痛みも承知の上で、それでも守るために。
「……俺を、守ってくれたんだよな……」
言葉にした途端、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
もし一歩間違っていたら。
もし澪が来るのが遅れていたら。
考えるだけで、背筋が冷えた。
陽翔はそっと頭を下げる。
「……ありがとうございます、千景さん」
眠る少女は、当然答えない。
ただ、穏やかな寝息だけが返ってくる。
その静けさが、彼に確かな現実を教えていた。
助かった。生きている。
そのとき────
コンコン、と控えめなノック音が病室に響いた。
「……はい」
陽翔が顔を上げると、扉が静かに開き、
雨夜が中へ入ってきた。
いつもの穏やかな表情だが、
どこか様子を窺うような目をしている。
「邪魔じゃなかったかな」
「いえ……千景さんも、
ぐっすり眠ってるみたいです」
陽翔の視線を追うように、
雨夜もベッドに横たわる千景を見る。
静かな寝息、安らいだ表情。
「……よかった。本当に」
そう呟いてから、雨夜は一拍置いた。
「昨日のことなんだけど」
その一言で、陽翔の背筋がわずかに強張る。
「君が、澪の治療を断った理由……」
雨夜は責めるでもなく、ただ静かに続ける。
「痛みを忘れたくない、って言ってたね」
陽翔は視線を落とし、拳を握る。
「……はい」
沈黙が流れる。
雨夜は少し考えるように目を伏せ
それからゆっくりと口を開いた。
「その無茶を止めるつもりはないよ。
君の覚悟は、本物だと思う」
陽翔は思わず顔を上げる。
「ただ、その覚悟を独りで抱え込む必要はない」
雨夜は一歩近づき、穏やかな声で告げた。
「修行、しようか」
「……え?」
「君が“強くなる”ためのやり方を、
ちゃんとした形で」
その言葉は押し付けでも命令でもなく、
“提案”として、静かに差し出されたものだった。
「君が誰かを守れるようになる為の修行だ」
陽翔は息を呑み、胸の奥が熱くなるのを感じる。
「……お願いします!」
短く、しかし迷いのない返事。
雨夜は、少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、決まりだね」
病室の静寂の中で、
新たな一歩が、確かに踏み出された。
「じゃあ……早速、始めようか」
雨夜のその一言で、空気が少し引き締まった。
「はい」
二人は病室を後にし、ビルの奥へと向かう。
烈と手合わせしたあのトレーニングルームへ。
────
重い扉が開くと、広い空間が姿を現した。
前回、烈に負けた苦い思い出がある場所だ。
「ここは……」
陽翔が思わず呟くと、雨夜は小さく笑った。
「派手さはないけどね。
ここは“積み上げる場所”だから」
そう言って歩き出した雨夜が、ふと足を止める。
視線は、陽翔の腰元。
「……その刀」
陽翔は一瞬、反射的に手を添えた。
雨夜の目が、わずかに見開かれる。
「へえ……そうか。君も刀を……」
驚きはあったが、否定や戸惑いはない。
むしろ、納得したように小さく息を吐いた。
「実はね」
雨夜は自分の腰に手をやる。
「僕も刀を使うんだ」
カチリ、と留め具を外す音。
「二刀流だけど」
青い鞘と黒い鞘から抜かれた二振の刀が、
静かに姿を見せる。
一振は、淡い青。
澄んだ夜明け前の空を思わせるような刃で、
光を受けるたびにひんやりとした輝きを放っている。
鋭さの中に、どこか静謐さを宿した色だった。
もう一振は、深い黒。
光を吸い込むような刀身で、
輪郭さえ曖昧に見えるほど暗い。
しかし、その奥には確かな重みと圧があり、
近づくだけで空気が引き締まるのが分かる。
対照的な二振。
だが、どちらも雨夜の手の中では
不思議なほど自然に収まっていた。
「……え」
「意外?」
「正直……はい」
雨夜はくすっと笑う。
「よく言われるよ。見た目で判断されがちだから」
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「刀はね、人を〝殺す〟為に作られた武器だ」
「でも」
雨夜は真っ直ぐに陽翔を見る。
「正しく積み上げれば、“守る力”になれる。
だからこそ、君の修行は僕が見る」
陽翔は、腰の赫月に触れながら、力強く頷いた。
「……お願いします。雨夜さん」
「こちらこそ」
雨夜は一歩前に出て、穏やかに、しかしはっきりと言いった。
トレーニングルームに、静かな緊張が満ちる。
雨夜は軽く肩を回しながら、陽翔に向き直った。
「よし。じゃあ、まずは基礎からいこうか」
「基礎……ですか?」
「うん。修行って言うと、派手な技を思い浮かべがちだけどね」
雨夜はにこりと笑って、ぽん、と自分の胸を指差した。
「僕を殴ってごらん」
「……え?」
思わず聞き返す陽翔。
「い、いいんですか?」
「大丈夫大丈夫。ほらほら、遠慮しない」
軽く手招きされ、陽翔は一瞬迷ったが、
赫月の柄から手を離し、拳を握る。
「……行きますよ」
踏み込み、拳を突き出す。
ドンッ、と鈍い音。
雨夜の体は、ほとんど揺れなかった。
「……っ」
陽翔は目を見開く。
「やっぱりね」
雨夜は腕を下ろし、穏やかな声で続けた。
「陽翔くん。身体強化魔法は知ってるよね?」
「はい。もちろんです」
基礎中の基礎。
魔力を身体に巡らせ、筋力や反射、
耐久を引き上げる魔法。
「じゃあ、烈や……
昨日のあの男と戦った時を思い出してみて」
雨夜は一歩近づき、低い声で言う。
「相手の攻撃、やけに“重い”って感じなかった?」
「……感じました」
思い出すだけで、拳が疼く。
「それはね」
雨夜は自分の拳を軽く握り、陽翔の拳と並べる。
「陽翔くんの身体強化魔法が、原因なんだ」
「……え?」
「魔法ってね、ただ使える・使えないだけじゃない」
雨夜は床に指で線を引く。
「強さには段階がある。
弱い順に──Lv1からLv5まで」
陽翔はごくりと喉を鳴らす。
「Lv1は、いわば“基礎”。
烈がハンマーに魔力を付与して、爆発させるだろ?」
「はい」
「アレは典型的なLv1の魔法だよ。
単純、分かりやすい、でも十分に実戦的」
雨夜は次に、拳を自分の胸に当てる。
「身体強化魔法も同じだ。
Lv1なら、筋力が少し上がるだけ」
「でもね」
雨夜は視線を鋭くした。
「Lvが上がるほど、強化の“質”が変わる」
「質……?」
「筋力だけじゃない。
衝撃の伝わり方、耐久、魔力の反発──全部だ」
雨夜は、さっき殴られた場所を軽く叩く。
「さっきの一撃。
僕は受け流したんじゃない。弾いたんだ」
陽翔は、ハッとする。
確かに、拳に残った感触は“当たった”というより、
“返された”感覚だった。
「つまり」
雨夜は穏やかに結論を告げる。
「陽翔くんの身体強化は、まだまだ未熟だ」
「だから、相手の攻撃は重く感じるし、
逆に相手から見れば君の一撃は、想像以上に軽い」
陽翔は自分の拳を見つめる。
雨夜は柔らかく微笑んだ。
「まずはそこからだよ」
「身体強化のLvを上げること。
修行は、そこから始まる」
雨夜は一度、軽く息を整えた。
「補足しておくね」
陽翔の目を見て、はっきりと言う。
「身体強化魔法は、いくら鍛えてもLv3が上限だ」
「……え?」
「それ以上は、身体が持たない」
雨夜は自分の腕を軽く叩く。
「Lv4以上になるとね、
筋肉も骨も、魔力に耐えきれずに壊れる」
「だから」
一歩前に出る。
「身体強化において、
Lv2は“中級編”」
「戦闘に立つなら、
ここに届いていないと話にならない」
その言葉の重みが、陽翔の胸に沈む。
今の自分は、そのラインにすら立てていない。
その事実が、胸に静かに刺さった。
「今の君はLv1。
だからまずはLv2を目指そう」
雨夜はそう言って、少し距離を取った。
「百聞は一見に如かず、だね」
そう言って、静かに目を閉じる。
次の瞬間。
空気が、変わった。
雨夜の体から、目に見えない圧が滲み出る。
床を踏む足音が、
さっきとは比べ物にならないほど重く響いた。
「……これが、身体強化Lv2」
陽翔は思わず息を呑む。
派手な光も爆発もない。
なのに、そこに“確かな違い”がある。
「コツはね」
雨夜は拳を握り、胸の前で止める。
「最初は魔力を全開にする」
「そこから」
ぐっと、何かを押し潰すように指を握り込む。
「ギュッと潰すイメージで、
体全体に魔力を広げる」
「外に漏らさない。
内側に、均等に」
雨夜は軽くその場で踏み込む。
床が、ミシリと鳴った。
「Lv1は“流す”」
「Lv2は、“圧縮して満たす”」
その一言で、違いがはっきりした。
「やってみようか、陽翔くん」
雨夜は構えを解き、微笑む。
「失敗してもいい。
今日は、その感覚を掴む日だから」
陽翔は深く息を吸い、拳を握る。
Lv2。
身体強化の中級編難易度。
そこに届くかどうかは、自分次第だ。
「じゃあ、やってみようか」
雨夜の言葉に、陽翔は深く息を吸った。
(魔力を……全開に……)
目を閉じ、体の奥に意識を沈める。
胸の奥、腹の底、手足の先へと魔力を巡らせる。
一気に、解放した。
瞬間。
「──っ!?」
体の内側で、何かが弾けた。
熱い。
重い。
魔力が、制御を待たずに溢れ出す。
「くっ……!」
床を踏みしめると、バンッ、と乾いた音が響いた。
だが、体が軽くなる感覚はない。
むしろ逆だ。
魔力は体の外へ漏れ、
筋肉の隙間をすり抜けて、空気に散っていく。
「……今のは、Lv1だね」
雨夜の声は落ち着いていた。
「魔力を“流した”だけだ。
全開にはなってるけど、圧縮できてない」
陽翔は息を荒くしながら、拳を見つめる。
「……もう一回、いいですか」
「うん。いいよ」
もう一度、深く息を吸う。
(今度こそ……潰す……!)
魔力を限界まで引き上げ、
体の中心で、ぎゅっと押し固めるイメージ。
次の瞬間──
バチッ、と空気が震えた。
床に細かな亀裂が走り、
壁際の器具がカタカタと揺れる。
「……っ、待って」
雨夜が、思わず一歩踏み出した。
「……陽翔くん」
驚いたように、陽翔を見る。
「君……」
「え……?」
「今の出力……Lv1の身体強化にしては、
明らかに多すぎる」
雨夜は、苦笑気味に息を吐いた。
「質はLv1。
でも、量だけ見れば……下手なLv2より多い」
陽翔は言葉を失う。
「魔力の量が多すぎて、
上手く圧縮できないのか……」
雨夜は顎に手を当て、真剣な目で続けた。
「なるほど……だからこそ、Lv2が遠い」
陽翔の胸が、どくんと鳴った。
雨夜は微笑んだ。
「でも逆に言えば……」
「圧縮さえできるようになれば、
君の身体強化は相当なものになる」
嬉しい、というよりも。
安心とも違う。
ただ──
(……強くなれる)
昨日感じた無力さ。
千景が倒れ、何もできなかった自分。
あの時の悔しさが、頭の奥でじっと疼く。
(絶対ものにしてやる……!)
拳を握ると、まだ微かに震えていた。
「…………よし!」
陽翔は、顔を上げて雨夜を見る。
雨夜は、その小さな変化を見逃さず、静かに笑った。
「うん。いい目だ」
「じゃあ本格的に行こうか」
守れるようになる為の修行が始まる。




