狐は犬じゃない
四月に入ったばかりの夜だった。
昼間には少しだけ春らしい暖かさが出始めていたが、
深夜になると空気はまだ冷え込み、コンビニの自動ドアが開くたびに入り込んでくる夜風は、冬の名残みたいに鋭かった。
ユキはレジカウンターの奥で公共料金の伝票整理をしながら、小さく欠伸を噛み殺した。
時刻は午前二時十一分。
深夜帯特有の、深く沈み込んだ時間だった。
有線放送は小さなピアノ曲を流し、冷蔵棚のモーター音が低く店内へ響いている。
外を走る車もまばらだ。
こういう時間だけは、ユキも少し呼吸がしやすかった。
人間の数が減ると、比例するように街の匂いも薄くなるからだ。
香水。
汗。
煙草。
アルコール。
そして、人間達が撒き散らす歪な感情。
それら全部が少しだけ遠ざかる。
だからユキは、世界そのものが仮死状態になる深夜が好きだった。
レジ横のホットスナックケースを見る。
唐揚げが二個、肉まんが一つ。
廃棄時間まではまだ少しある。
ユキはぼんやりそれを眺めながら、さっき来た常連のタクシー運転手のことを思い出していた。
「今日寒いな」とそれだけ言って缶コーヒーを買っていく中年男性で、
別に親しいわけではないが、深夜帯では珍しく、音も匂いも静かな客だった。
深夜のコンビニを訪れる人間には二種類いる。
静かに擦り減っている人間と、壊れたみたいに騒がしい人間。
ユキは圧倒的に前者のほうが好きだった。
自動ドアが開く。
冷たい風。
同時に、最悪な組み合わせの匂いが流れ込んできた。
――安物の酒と、きつい煙草の混ざった匂い。
ユキの耳が、帽子の下でぴくりと動く。
嫌な予感が皮膚を粟立たせた。
入ってきたのは若い男の三人組だった。
大学生くらいだろうか、全員が酷く酔っている。
笑い声のボリュームが異常に大きく、歩く足音もうるさい。
その時点で、ユキの尻尾は制服の内側でカチリと小さく強張っていた。
男達は店へ入るなり騒ぎ始め、雑誌棚の前で下品に笑い、
アイスケースの扉を無意味に何度も開け閉めし、ホットスナックのケースを覗き込んでは「腹減ったー!」と大声を上げる。
ユキは視線を書類へ落としたまま、なるべく気配を消した。
関わらない。
視線を合わせない。
それが一番の自衛だった。
だが、理性を失った人間は時々、静かに息を潜めている存在を見ると、
無性に構いたくなる悪癖を持っている。
男の一人がレジへ歩み寄ってきた。
短髪。
赤く上気した顔。
胃の底からせり上がるような酒臭い息。
「すみませーん」
「……はい」
ユキが顔を上げた瞬間、男の濁った視線がまっすぐキャスケット帽へ向いた。
「あ、見て、耳あるじゃん」
(――またこれだ)
ユキは心の中で小さく、冷え切った息を吐く。
最近、こういうことが本当に多い。
SNSのトレンドか何かで獣人がおもちゃのように話題になっているせいか、
以前より気軽に、そして無遠慮に話しかけられることが増えていた。
悪気のない人間も多い。
だが「悪気がない」からこそ、彼らは踏み越えてはいけない距離感を平気でぶち壊してくる。
「狐?」
「……そうです」
「すげー、本物じゃん。動かしてよ」
後ろから残りの二人も集まってきた。
カウンターを挟んで、囲まれる形になる。
ユキの耳が、拒絶を示すように頭にぴったりと伏せられた。
この、逃げ場のない檻の中にいるような感覚がたまらなく嫌だった。
「尻尾もあるわけ?」
「あります」
「触っていい?」
「やめてください」
即答だった。
だが、男達はそれをただの「つれない態度」として面白がるように笑った。
「えー、ケチ。減るもんじゃないじゃん」
その言葉を聞いた瞬間、ユキの尾がぴくりと拒絶に揺れた。
人間は時々、本気で理解していない。
獣人にとって耳や尾を触られる感覚が、どれほど不快で、精神的な侵食を伴うものなのかを。
彼らにとっては「可愛いペットを撫でる」程度の気軽なエンタメなのだろう。
だがユキにとっては違う。
見知らぬ人間から、同意もなく急に身体へ触れられることそのものが、ただの暴力であり苦痛だった。
しかも耳は神経の集まる敏感な器官だ。
突然触れられれば心臓が跳ね上がるし、強く掴まれれば本気で目眩や吐き気がする。
子供の頃、興味本位で同級生に耳を引っ張られた時には、激痛と恐怖でその場に泣き崩れてしまったこともある。
それ以来、他人から耳を触られることが、ユキにとっては明確なトラウマになっていた。
男の一人が、くすくすと喉を鳴らしながら言った。
「なぁ、お手とかできんの?」
その瞬間、ユキの耳がぴたりと動きを止めた。
店内の空気が、急速に凍りついていく。
男達はまだヘラヘラと笑っている。
彼らにとっては、ちょっとした冗談のつもりなのだろう。
悪意というよりは、ただ目の前のお珍しい亜人を面白がっているだけ。
だが、その言葉は、ユキの胸の最も柔らかい場所を深く、残酷に突き刺した。
お手。
人間が、支配下にある犬へ向ける言葉。
獣人は昔から、人間社会においてそういう扱いをされることがあった。
冗談半分で。
可愛い愛玩物として。
自分達より一段階知性の劣る、ペットみたいに。
ユキは数秒間、完全に沈黙した。
男達はその硬直すら面白いらしく、「あれ、怒った?」「マジになってんじゃん」と声を弾ませる。
その時だった。
一人の男が、本当にカウンター越しに手を差し出してきた。
手のひらを上に向けて。
「ほら、お手。できたらこれ買ってやるよ」
店内の空気が、完全に氷結した。
ユキの尻尾が、制服の内側でぶわりと猛烈に膨らんだ。
耳の奥で、頭を割るような爆音で心臓が鳴り響く。
怒り。
嫌悪。
そして、耐えがたい恥辱。
全部が一気に喉の奥まで込み上げる。
だが、それ以上にユキを支配したのは、本能的な恐怖だった。
獣人が明確な感情を出した瞬間、人間は「牙を剥いた」と怯え、こちらを排除しようとする。
だから抑えなければいけない。
怒ってはいけない。
人間に牙を剥いてはいけない。
そうやって、自分を殺してずっと生きてきた。
けれど今日は、あまりにも疲れていた。
連日の寝不足、騒音、蓄積されたストレス。
薄氷のように保たれていた理性の限界が、今、完全に音を立ててひび割れた。
ユキは差し出された男の手を凝視しながら、地を這うような低い声で言った。
「……私は、犬じゃないです」
ピタリと、下卑た笑い声が止まった。
男達の顔から余裕が消え、剥き出しの不快感が浮かぶ。
店内の空気が、鋭利な刃物のようになる。
ユキは自分の尾が、衣服の奥で完全に逆立ち、威嚇の形をとっていることに気付いた。
しまった、と思った。
感情が、拒絶が、全部表に出てしまっている。
差し出していた手を引っ込め、男の一人がチッと大きく舌打ちをした。
「なんだよ、冗談じゃん。ノリ悪」
「っていうか、そういうのマジになるの怖いんだけど。だから獣人ってさぁ……」
――怖い。
またその言葉だった。
ユキは喉の奥が、凍結していくような錯覚を覚えた。
獣人が尊厳を守るために怒ると、人間はすぐに「怖い」と被害者面をする。
けれど彼らは、自分達がどれほど無遠慮で、残酷な言葉を投げつけたのかを、想像しようともしないのだ。
男は不機嫌そうに、ポケットから出した煙草をレジへ叩きつけた。
「……会計、早くしろよ」
ユキは何も言わず、機械的にバーコードをスキャンした。
指先が、怒りと恐怖で細かく震えていた。
男達は最後までユキを睨みつけるような不満げな顔をしていたが、
それ以上は何も言わず、逃げるように店を出て行った。
自動ドアが閉まる。
静寂。
その瞬間、ユキは肺にある空気をすべて吐き出すように、
深く息を吐いた。全身が鉛のように重い。
レジカウンターへ両手を突き、なんとか身体を支える。
尻尾はまだ、興奮で大きく膨らんだままだった。
最悪だった。
また、感情をコントロールできなかった。
「私は犬じゃないです」
尊厳を守るための、たったそれだけの抵抗なのに、
なぜか胸の奥には泥のような罪悪感と自己嫌悪が残っている。
人間社会では、獣人が怒りを示した時点で、こちらが「危険な側」になる。
それをユキは昔から、痛いほど知っていた。
小学校の頃、男子生徒にわざと尻尾を踏まれて怒鳴り声を上げた時、
駆けつけた教師はまずユキを組み伏せるようにして落ち着かせようとした。
踏んだ側ではなく、踏まれて怒った側のユキを。
『獣人は感情的になりやすいから、ユキちゃんが我慢しなきゃ駄目だよ』
教師は諭すようにそう言った。
あの時の、教室中の空気を今でも鮮明に覚えている。
周囲のクラスメイト達の、怯えた視線。
「やっぱり獣人は怒ると怖いんだ」という、無言の決定事項。
あの日からユキは、怒ることが恐怖になった。
感情を出すたび、自分が人間社会を脅かす「凶暴な生き物」のように思えてしまうからだ。
レジ奥の鏡を見る。
帽子の奥で、二つの耳が悲しげに伏せられている。
尾もまだ落ち着かない。
ユキは小さく目を閉じた。
……疲れた。本当に。
自動ドアが静かに開く。
ユキはビクリと肩を揺らし、反射的に姿勢を正した。
入ってきたのは、初老に近い男性だった。
泥や塗料のついた作業着姿。
静かで、確実な足音。
男は缶のお茶を一本だけ持って、レジへやってきた。
ユキはいつも通り、震える指先を隠しながら会計を始める。
男はその途中、ふとユキの足元へ視線を落とした。
まだ怒りと恥辱で、ほんの少し毛羽立ったままの尻尾。
だが男は、怯える様子も、面白がる様子も、眉をひそめる様子もなかった。
ただ当然の事実を確認するように、ぽつりと言った。
「狐は、犬じゃねぇもんな」
ユキのスキャンする手が、ピタリと止まった。
男はユキの顔を見ることもなく、淡々とした声で言葉を続ける。
「昔、山で仕事してた時に見たことあるよ。野生の狐。ありゃあ、人間が気安く触れるような生き物じゃねぇ。
誇り高い、別の生き物だ」
その声には、人間社会の流行や偏見とは一切無関係な、圧倒的な「実感」があった。
可愛いという消費でも、怖いという拒絶でもない。
ただ、「人間とは違う、触れてはならない一匹の生き物」として、
その存在の尊厳をそのまま認めている声だった。
男は無言で代金を支払うと、缶お茶をポケットに入れ、そのまま静かに店を出て行った。
残された静寂の中で、ユキはしばらく指一本動かせなかった。
狐は、犬じゃない。
生物として当たり前のことだった。
なのに、その当たり前の尊厳を、普通に、対等な言葉として投げかけられたことが、
硬直しているユキの胸の奥を、じんわりと融かしていくような気がした。
外では、春を告げるための風が吹いている。
冷たい夜風。
静かな道路。
薄暗い深夜の街。
ユキはガラス窓の向こうを、ぼんやりと眺めた。
世界は今日も変わらない。
獣人を珍しがる人間も、ペットのように面白がる人間も、
感情を見せれば猛獣だと怖がる人間も、きっと明日もどこかにいる。
人間中心のこの世界は、明日もユキにとって息苦しいままだろう。
それでも、夜は続く。
コンビニの白い蛍光灯も消えない。
ユキは小さく息を吐き、制服の奥で
――ようやく少しだけ毛並みを伏せ、
落ち着き始めた自分の尻尾へ、愛おしさを込めるように、そっと優しく手を添えた。




