匂いの強い人
三月の終わりが近付いているというのに、
夜の空気にはまだ冬の冷たさが頑固に残っていた。
深夜一時を過ぎた街は、どこか季節そのものが立ち止まってしまったみたいに、
冷え切った静けさに包まれている。
雨は降っていなかったが、昼間に降った水気がまだアスファルトの表面を覆っている。
道路脇の街灯は濡れた地面へぼんやりと光を滲ませ、通り過ぎる車のタイヤだけが時折、
水を細く引き裂くような音を立てていた。
ユキはレジ裏で商品棚の補充をしながら、小さく眉を寄せていた。
頭が痛い。
こめかみの奥を重い金槌で叩かれているような、鈍く鋭い痛みだった。
理由は分かっている。
数分前に来店した客の香水が、まだ狭い店内に居座っているのだ。
人間用の、強いフローラル系の香水。
人工的に合成された甘ったるい花の香りが、霧のように空間へ沈殿し、
鼻の奥の粘膜へべっとりと張り付いて離れない。
普通の人間なら「少し匂いが強いな」程度で済むのだろう。
だが、ユキにとっては違った。
鼻の奥が焼けるように熱い。
気道が狭まるように喉が痺れ、胃の底からせり上がってくるような酷い吐き気が頭痛を加速させる。
獣人は嗅覚が鋭い。
特に狐系の血を引く亜人は、空気中の微細な粒子に対して過剰なほど敏感な個体が多いと言われていた。
子供の頃、母親から「デパートの香水売り場へだけは近付いちゃ駄目」と何度もきつく言い聞かされてきた。
一度だけ、大型商業施設の化粧品コーナーへ迷い込んでしまった時のことを今でも覚えている。
あらゆる人工香料の濁流に脳を殴られ、その場に倒れて嘔吐し、救護室へ運ばれたのだ。
だからユキは、人間社会の言う「良い匂い」という感覚がどうしても恐ろしかった。
香水。
柔軟剤。
制汗剤。
ルームフレグランス。
それら全てが、ユキにとっては牙を剥いて襲いかかってくる物理的な暴力と同じだった。
レジ横のコーヒーマシンが低い駆動音を立てる。
有線放送から流れる古い洋楽。
冷蔵棚の規則的なモーター音。
電子レンジの待機音。
それら全ての音が耳へ流れ込む中、目に見えない強い香水だけが、
まるで毒ガスのように鼻へ張り付いて離れなかった。
ユキは小さく息を吐き、支給された制服の袖口を鼻腔へ近付けた。
自分の匂いを嗅ぐ。
それだけで、狂いそうだった感覚がほんの少しだけ中心を取り戻す。
無機質な洗剤。
微かなシャンプーの残り香。
夜勤明けの、泥のような自分の疲労。
それだけだ。
人間達のように何種類もの人工的な匂いを重ね、周囲を侵食したりはしない。
その時、自動ドアが開いた。
冷たい外気が滑り込んでくる。
同時に、最悪な性質の「新しい匂い」がどっと流れ込んできた。
ユキの耳が、帽子の下でぴくりと悲鳴を上げるように震えた。
――強い。
さっきの残り香とは比較にならないほど、強烈な質量を持った匂い。
甘く、重く、ナイフのように鼻腔を刺す花の匂い。
香水だ。
しかも、尋常ではない量が身に纏われている。
ユキは反射的に顔をしかめそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。
入ってきたのは三十代後半くらいの女性だった。
仕立ての良さそうなキャメルのコートに、高いヒール、ブランド物のバッグ。
一見して、隙のない綺麗な人間だった。
だがユキにとって、その人の第一印象は視覚ではなく、圧倒的な「悪臭」だった。
きつい。
頭痛が一気に臨界点を迎える。
女性はスマホを片手に眺めながら、ゆったりと店内を歩き始める。
彼女が歩いた軌跡に沿って、目に見えない強烈な香水の粒子が、ポロポロと床へ落ちていくのが匂いで分かった。
ユキは無意識のうちに耳を限界まで伏せていた。
苦しい。
喉の奥が麻痺していく。
けれど、顔には出せない。
自分は今、接客業という「人間のルール」の中にいる。
女性はスイーツ棚の前でしばらく悩み、それからサラダと炭酸水を持ってレジへやってきた。
距離が縮まる。
匂いの濃度が跳ね上がる。
頭痛。
吐き気。
目眩。
ユキは喉をかきむしりたくなる衝動を必死で抑え込んだ。
「……袋、ご利用ですか」
喉が焼き付いて、声がかすれた。
女性はスマホの画面を見たまま、ユキの顔も見ずに答える。
「大丈夫です」
彼女が言葉を発した瞬間、その呼気に混ざった香水がさらに深く鼻腔へ侵入し、
ユキの視界がぐらりと揺れた。
駄目だ、連日昼間の寝不足もあって、いつも以上に過敏になっている。
女性は会計を済ませても、すぐには店を出なかった。
入口近くのスペースで立ち止まり、誰かへ電話をかけ始めたのだ。
狭い店内に、彼女の香水が容赦なく充満していく。
ユキの耳が小刻みに震えた。
本当に吐きそうだった。
それでも、深夜帯は基本一人体制だ。
レジを完全に放棄するわけにはいかない。
ユキは小さく浅い呼吸を繰り返しながら、なるべく鼻呼吸を止めようとした。
けれど、獣人にとって最も原始的な感覚である嗅覚を遮断するのは、
人間が「今すぐ耳を動かして耳の穴を塞げ」と言われるくらい不可能なことだった。
「えー、マジ最悪なんだけどぉ」
女性の甲高い笑い声が響く。
香水、アルコールの残り香、加熱式煙草、化粧品。
それら全てが、彼女という存在を中心にドロドロに混ざり合っている。
ユキはついに耐えきれず、レジのカウンターから一歩、二歩と奥へ下がった。
頭が割れそうだった。
その時だった。自動ドアが再び開く。
新しい客が入ってきた。
スーツ姿の若い男。
仕事帰りなのか、酷く疲れ切った顔をしていた。
男はレジへ向かおうとしたが、途中でピタリと足を止めた。
店内の空気に気付いたのだろう。
一瞬だけ、露骨に眉をひそめて鼻を覆うような仕草をした。
ユキはその小さな反応を見逃さなかった。
(人間でも、不快だと思うレベルなんだ――)
自分が苦しんでいるのは、獣人の過剰な被害妄想ではない。
その事実だけに、ほんの少しだけ救われるような気がした。
女性は電話を終えると、風のように店を出て行った。
自動ドアが閉まる。
だが、彼女の残した香りの呪縛は、未だに空気の底へ淀んで消えない。
ユキがレジへ戻ろうとした瞬間、足元が酷く浮き上がったような感覚に襲われ、視界が急激に暗転した。
「あ……」
小さく、情けない声が漏れる。カウンターへ、がたんと突っ伏すように手を突いた。
冷や汗が吹き出る。
呼吸が浅く、耳の奥ではキーンと高い耳鳴りまで始まっていた。
「……大丈夫ですか」
低く穏やかな声が、耳鳴りを突き抜けて届いた。
スーツの男が、心配そうにカウンターへ身を乗り出していた。
ユキは反射的に、いつものように「大丈夫です」と取り繕おうとした。
けれど、喉の筋肉が強張って言葉にならない。
本当は、一歩も動けないほど大丈夫ではなかった。
男は少し困ったように視線を泳がせたあと、棚から売り物のミネラルウォーターを一本持ってきて、
ユキの前へ置いた。
バーコードをこちらに向けて。
「これ、先に飲んだ方がいい。会計は俺の弁当と一緒にしてください」
「……す、みません……」
ユキは震える手でキャップを開け、水を口に含んだ。
冷たい液体が熱を持った喉を通っていく感覚だけが、今の世界で唯一の救いだった。
男は自分の弁当をレジへ置きながら、ぽつりと言った。
「あの人の香水、ちょっとキツすぎましたね。俺も人工的な匂いが苦手なんで、気持ちが分かります」
その言葉に、ユキは小さく目を見開いた。
分かる、という言葉を人間に掛けられたのは、生まれて初めてかもしれない。
大抵の人間は「いい匂いなのに贅沢言うな」とか「体調管理ができていない」で切り捨てるからだ。
男はユキの手元を見ないようにしながら、淡々と財布を出した。
「獣人って、耳だけじゃなくて鼻も良いんですよね。……やっぱ、色々大変なんですね」
その言葉に、悪意は一切なかった。
先日のサラリーマンが言ったような、ただ純粋な、世界への少しの想像力。
ユキは小さく息を整えながら、消え入るような声で答えた。
「……慣れてますから」
もちろん、嘘だった。
慣れるわけがない。
音は耳を塞げばある程度遮れる。
けれど、呼吸を止められない以上、匂いからは逃げられない。
人混み。
満員電車。
煙草の煙。
人間達は気軽に「自分を飾るため」に匂いを纏うけれど、その裏で、
呼吸をするだけで擦り減っている存在がいることなんて、誰も知りもしないのだ。
男は会計を終えて袋を受け取ると、去り際に小さく言った。
「無理しないでくださいね」
それだけだった。け
れど、その短い言葉が、冷え切ったレジ裏に暖留のように残った。
ドアが閉まる。
静寂。
香水の匂いはまだ微かに残っているが、外からの夜風が少しずつそれを薄めていく。
ユキはゆっくりと深い息を吐き出した。
制服の奥で、限界まで固まっていた尻尾が、弱々しく、くたりと解けるように揺れた。
疲れていた。
身体というより、神経のすべてが摩耗していた。
人間社会は、彼らに合わせて作られている。
だからこそ、全てが強すぎるのだ。
音も、光も、匂いも、ぶつけられる感情も。
だからユキは夜が好きだった。
深夜だけは、世界の音量と濃度が、少しだけ下がるから。
レジ裏の小さな鏡を覗き込む。
キャスケット帽の奥で、二つの耳が力なく、ぺたりと垂れ下がっていた。
疲弊している時は、もう隠す筋力すら残らない。
ユキは小さく、自嘲気味に苦笑した。
感情も体調も、隠したいものほど全部身体に出てしまう。
それが獣人という生き物だ。
外では、春を呼び込むための風が吹いていた。
冷たくて、少し湿った、土と雨の匂い。
その匂いだけは、ユキは心から好きだと思えた。
人工的ではない、ただ地球が、夜の街が、静かに呼吸しているだけの匂い。
ユキは少しだけ、ガラス窓の向こうの暗闇を見つめた。
もし、人間と獣人の感覚の鋭さが真逆だったら、この世界はどんな形をしていただろう。
人間達がもっと匂いに敏感だったら、もう少しだけ優しい社会だったのだろうか。
けれど、そんなことを考えても答えは出ない。
世界は今日も人間を中心に傲慢に回り続けていて、ユキはその巨大な営みのほんの片隅で、
なんとか溺れないように息をしているだけだった。
店内にはまだ微かに、通り過ぎた誰かの香水が、消えない傷跡のように残り続けていた。




