尻尾は感情を隠せない
深夜二時を過ぎた街には、春特有の柔らかさよりも、
冷え切った金属みたいな硬い静けさが残っている。
ユキはレジカウンターの内側でホットスナックの補充をしながら、小さく肩を回した。
今日は妙に体が重く、疲弊していた。
理由は分かっている。
昼間、まともに眠れなかったのだ。
上の階の住人が昼過ぎからずっと掃除機をかけ続け、
途中からは家具を引きずるような重い音が響き始め、
最終的には何かを組み立てる金属音が数時間、断続的に鳴り響いていた。
そのせいで、ユキの耳は完全に休まる時間を失っていた。
獣人の感覚器官は鋭い。
それは時に「便利な能力」として人間から羨まれることもあるが、
実際にはただ疲れるだけの、呪いに近いものだった。
壁の向こうの小さな物音、遠くの話し声、排水管を流れる不規則な水音、
冷蔵庫のモーター、蛍光灯が放つ不快な高周波――
普通の人間なら「静か」だと感じる空間でも、
ユキの世界には常に数え切れないほどのノイズが満ちている。
だから時々、自分の脳がやすりで削り取られていくような感覚になるのだ。
レジ横の鏡へ視線を向ける。
黒いキャスケット帽。
白い肌。
感情を綺麗に消し去った顔。
――だがその下で、尻尾だけは苛立ったように小さく、不規則に揺れていた。
隠せていない。
ユキは小さく舌打ちをしそうになり、堪える。
昔からそうだった。
耳や尾は、自分の意思に反して勝手に感情を喋ってしまう。
怒ればぶわりと膨らみ、警戒すれば硬直し、安心すれば緩やかに揺れる。
だから人間達は、獣人を「分かりやすくて可愛い」と評する。
その言葉が、ユキはどうしようもなく嫌いだった。
人間だって腹の底で何を考えているか隠しているくせに、
獣人だけが「隠せない、隠す必要のない存在」として扱われる。
その品定めされるような視線が、息苦しくて仕方がなかった。
自動ドアが開く。
冷たい風と共に、濡れたアスファルトの匂いが滑り込んできた。
入ってきたのは二十代くらいの男女四人組。
酒臭い。
香水がキツい。
笑い声のボリュームが異常に高い。
ユキの耳が、帽子の下で無意識に限界まで伏せられた。
嫌なタイプだ、と直感で分かった。
こういう客は、店内を騒がしくするだけでは終わらない。
男達は雑誌コーナーで下品に笑いながら立ち読みを始め、
女の一人はスイーツ棚の前でスマホを掲げながら「映えるー」と騒いでいる。
その高音の歓声が、針のように耳の奥へ刺さった。
ユキはレジから視線を逸らし、なるべく気配を消すように商品の陈列を直す。
関わらない。
視線を合わせない。
それが一番の自衛だった。
だが、人間という生き物は時々、自分達へ一切の関心を示さない存在を見つけると、
玩具を見つけた子供のようにちょっかいを出したくなるらしい。
「ねぇ」
声。
近い。
目の前だ。
ユキが顔を上げると、金髪に近い茶髪の男がレジカウンターにベタベタと身を乗り出していた。
胃がひっくり返りそうなほどのアルコール臭。
「その耳、本物?」
――またこれだ、と思う。
ユキは鉄の仮面のような無表情を保った。
「……はい」
「すげぇ、触っていい?」
「やめてください」
即答だった。
男は少し意外そうな、出鼻をくじかれたような顔をした。
多分、適当に笑ってあしらわれるか、恥ずかしがられるとでも思っていたのだろう。
だがユキにとって耳は、知らない人間へ軽々しく触れさせていい場所ではない。
耳は神経が集中しており、極めて敏感だ。
突然触れられれば、本気で目眩や吐き気を催すこともある。
それなのに人間達は、獣人の耳や尾を、自前の「アクセサリー」か何かのように勘違いしている。
可愛いから、珍しいから、触ってみたいから。
その地続きの傲慢さが、ユキにはどうしても理解できなかった。
「えー、ケチじゃん」
男がからかうように笑う。
後ろの女達もくすくすとお調子者のように笑い声を重ねた。
その笑い声が脳内で弾けた瞬間、ユキの尻尾が、制服の奥でぶわりと膨らんだ。
しまった、と思った。
感情が漏れた。
男達もそれを見逃さなかった。
「うわ、尻尾やば」
「怒ってるじゃん」
「分かりやすー」
と、さらに声を弾ませる。
ユキは唇の裏側を血が滲むほど噛み締めた。
嫌だった。
感情を白日の下に晒されることが。
そしてそれを、言葉を持たない動物の芸でも見るかのように面白がられることが。
「……お会計されますか」
声が震えないよう、限界まで平坦なトーンを絞り出す。
だが、尾はもう制御不能だった。
苛立ち、警戒、寝不足の疲労。
そのすべてが身体の末端から溢れ出ていく。
男は面白がって、わざとらしく顔を覗き込んできた。
「獣人ってさ、やっぱマジで怒ると噛んだりするわけ?」
女達がまた高い声で笑う。
ユキの耳の奥で、心臓が爆音で鳴り響いていた。
頭痛。
鋭い騒音。
アルコール。
安っぽい香水。
下卑た笑い声。
全部が混ざり合って、吐き気が限界に達する。
「……知りません」
「え、でも狐でしょ?」
「狐でも人間でも、嫌なことされたら怒ります」
言ってから、猛烈な後悔が押し寄せた。
感情を出しすぎた。
言葉にトゲが混ざってしまった。
男の顔から、ヘラヘラとした締まりのない笑みが消える
酔った目が、僅かに冷たく据わった。
「あー……感じ悪」
その言葉を向けられた瞬間、ユキの尾はさらに大きく逆立った。
止まらない。
疲れている時ほど、獣としての本能的な防衛反応の制御は鈍る。
男はそれを見て、あざ笑うように鼻で鳴らした。
「うわ、マジでキレてんじゃん。だから獣人って怖いんだよな、何考えてっか分かんねぇし」
その瞬間、レジ裏の空気が完全に凍りついた。
ユキは指一本動かせなかった。
(怖い――)
その言葉が、何よりも恐ろしかった。
獣人が明確な拒絶や感情を見せた瞬間、人間は時々そういう顔をする。
さっきまで「可愛い」と消費していた目を、一瞬で「狂暴な猛獣」を見る目に変えるのだ。
まるで、愛玩用のぬいぐるみが急に牙を剥いて動き出した時のような、不気味なものを見る目。
人間達は、獣人が自分達と同じように傷付き、怒り、怯える「心」を持っているということ自体を、
本当の意味では理解していないのだ。
男達は酒と菓子を乱暴に引っ掴んで会計を済ませると、吐き捨てるように笑いながら店を出て行った。
最後にすれ違いざま、一人の女が小声で呟いた。
「でも、ちょっと可愛かったね」
その歪んだ加害性のない言葉だけが、妙に耳の奥へこびりついて離れなかった。
ドアが閉まる。
静寂。
だが、ユキの尾はまだ興奮で膨らんだままだった。
呼吸が浅い。
胸の奥が痛いほどにざわついている。
レジ奥の死角へ下がり、ユキは深く息を吐き出した。
鏡を見ると、尻尾は完全に逆立っている。
自分の意志とは無関係に、恐怖と怒りを証明し続けていた。
「……最悪」
小さく呟く。
感情を抑えられなかった。
それが、何よりも情けなくて悔しかった。
獣人が感情を剥き出しにすれば、人間社会からは「危険因子」として弾かれる。
だからユキは幼い頃から、必死にそれを殺して生きてきたのだ。
笑いすぎない。
怒らない。
怖がらせない。
驚かない。
そうして透明な存在にならなければ、人間社会という檻の中で「普通」の顔をして生きることすら許されないから。
小学校の頃、悪ふざけで叩かれて思わず尾を逆立てた時、
クラスメイト達が一斉に悲鳴を上げて距離を取ったあの瞬間を思い出す。
誰も彼もが、獰猛な野生動物を檻の外で見てしまったかのような目だった。
あの日から、ユキは自分の身体も、そこから漏れ出る感情も、全部が嫌いになった。
自動ドアが再び開く。
ユキはビクッと肩を揺らし、反射的に顔を上げた。
入ってきたのは、初老に近い中年のサラリーマンだった。
クタクタに草臥れたスーツ。
疲弊しきった顔。
コンビニの袋を片手に下げている。
男は無言で弁当をレジへ置き、温めてもらい、淡々と会計を済ませた。
そこに悪意も、好奇の視線もない。
だが、商品をエコバッグへ詰め、帰ろうと背を向けた直前。
男の視線が、ふとユキの足元へ落ちた。
まだ怒りと恐怖で、ほんの少し毛羽立ったままの尻尾。
男は数秒だけ、ただ静かにそれを見つめていた。
その体からは、ユキの昼間を奪った「上の階の人間」と同じような、
社会の軋轢に揉まれて擦り減った、酷く疲れ切った人間の匂いがした。
男は小さく息を漏らすように、ぽつりと言った。
「……大変だな」
ユキは一瞬、言葉の意味が頭に届かなかった。
男はそれ以上何も言わず、ただ軽く会釈をするような動きをして、そのまま夜の闇の中へ消えていった。
残された静寂の中で、ユキは呆然と立ち尽くす。
大変だな。
それだけだった。
可愛い、という消費でもない。
怖い、という拒絶でもない。
珍しい、という好奇でもない。
ただ、自分と同じようにこの理不尽な世界で擦り減っている存在への、短い共感。
その言葉が、冷え切っていた胸の奥に、妙に熱を持って残り続けた。
ユキはレジ裏の棚から、売り物の缶コーヒーを一本取り出し、自腹の電子マネーで決済した。
冷たいアルミ缶を、きつく両手で包み込む。
少し熱を持ってしまっていた耳を、内側から冷ますみたいに。
外では、いつの間にか雨が降り始めていた。
街灯の鈍い光が、濡れた道路へじわじわと滲んでいく。
深夜の街は、どこまでも静かだった。
けれど静かなだけで、決して優しいわけではない。
誰もが生きるために疲れ切っていて、誰もが余裕を失っていて、その中で少しずつ他人への想像力を摩耗させていく。
ユキはぼんやりと、雨の窓の外を見つめた。
もし自分に、この耳も、この尻尾もなかったら。
普通の人間として生まれていたら、もう少しだけ息がしやすかったのだろうか。
そんな無意味な仮定を繰り返す夜は、昔から何度もあった。
けれど同時に、この耳も尾も失くしてしまった自分を想像すると、
それはそれで、自分の輪郭が全て消えてしまうような、酷い空虚さに襲われる。
自分の身体が嫌いだった。
けれど、それを完全に失うことは、自分が自分でなくなるようで怖かった。
その矛盾の落としどころを、ユキは未だに上手く言葉にできない。
店内の蛍光灯が、白く無機質な光を落とす。
冷蔵庫のモーター音が、低く重低音を響かせる。
窓を叩く雨音が、少しずつ激しくなっていく。
世界はユキの苦悩など置いてきぼりにして、いつも通り淡々と回り続けている。
その巨大な歯車の中で、自分だけがぽつんと取り残されているような気がしていた。
けれど、制服の奥。
先ほどまでは激しく逆立っていた尻尾が、今はもう、静かに、小さく揺れるだけの硬さに戻っていた。




