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ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
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3/24

雨の日だけ来る子

その少女が初めて店へ来たのがいつだったのかを、

ユキは正確には覚えていなかった。


ただ、気付けば雨の日になるたびに現れるようになっていて、

それ以外の日には一度も姿を見たことがない。


まるで降り続く雨そのものが人の形を取って歩いているみたいに、

静かにコンビニへ現れては、何も残さず帰っていく子だった。


三月に入ったばかりの夜だった。

春が近付いているはずなのに空気はまだ冷たく、街全体が濡れたコンクリートの匂いをまとっている。

深夜一時を過ぎた道路には、車もほとんど走っていない。


店内の窓を叩く雨粒の音を聞きながら、ユキは雑誌棚の整理をしていた。

有線放送から流れる古いバラード。

冷蔵ケースの低い駆動音。

電子レンジの待機音。

時折、換気扇が震えるような音を立てる。


深夜のコンビニという空間は、静かなようでいて、

実際には様々な人工音が幾重にも積み重なってできている。


普通の人間は気に留めもしない。

けれどユキの鋭い耳は、それら全部を拾ってしまう。

だから時々、自分の脳みそがノイズで磨り減っていくような感覚があった。


レジ奥の時計を見る。一時十二分。

この時間帯になると客足はかなり減る。

酔客の波も終わり始め、街に取り残された人間だけが、ぽつぽつと店へ流れ着く時間だった。


ユキはウォークイン(冷蔵庫)の前出しを終えると、小さく肩を回した。

耳の奥が少し痛む。


雨の日は音が柔らかくなる代わりに、湿気で匂いが濃くなる。

今日は特に、人間の湿った衣服の匂いが鼻に残って不快だった。


その時、自動ドアが開く。

冷えた空気が店内へ流れ込み、ユキの耳がぴくりと動いた。


入ってきたのは、小柄な少女だった。

年齢は十代前半、中学生くらいだろうか。


紺色の制服に黒いコートを羽織っているが、傘を持っていないせいで肩口がかなり濡れていた。

長い黒髪が頬へ張り付き、ソックスも半分ほど色が変わっている。


少女は店内へ入ってきても、すぐには商品棚へ向かわなかった。

ただ入口近くで少しだけ立ち止まり、ぼんやりと床を見ている。


ユキは無意識にその匂いを感じ取っていた。

雨、冷気、シャンプー。

それと――少しだけ、鉄の匂い。


ユキの耳が僅かに伏せられる。

怪我をしている。


少女はゆっくり歩き始めると、ホット飲料コーナーの前で立ち止まった。

しばらく缶を眺め続けたあと、一番安いミルクティーを一本だけ手に取る。


お弁当も、お菓子も買わない。

ただ温かい飲み物だけを持ってレジへ来る。


「百二十円です」


少女は濡れた小銭をカウンターへ置いた。

指先が少し赤くなっている。


寒いのだろう。


ユキはミルクティーを袋へ入れながら、少女の手首に薄い擦り傷があることに気付いた。

新しい傷ではない。数日前くらいのものだ。


「……ありがとうございました」


少女は消え入りそうな声で言うと、商品を受け取り、そのまま店の外へ出ていく。

雨はまだ降っていた。

傘も差さず、少女は暗い歩道をゆっくり歩いていく。


ユキは何となく、その背中を見送っていた。


別に珍しい客ではない。

家庭の事情を抱えた子供など、この街にはいくらでもいる。


コンビニはそういう人間が最後に流れ着く場所でもある。

だから、深く気にする必要なんてない。

そう思った。


けれど次の雨の日、また少女は現れた。

そしてその次の雨の日も。


少女は必ず深夜に来る。

必ず一人。

必ず傘を持たない。


そして毎回、温かい飲み物だけを買って帰っていく。

話しかけてくることはないし、名前も知らない。


だがユキは、徐々にその少女の存在を意識するようになっていた。

理由は自分でも分からない。

ただ、匂いが気になった。


少女からはいつも、長時間外を徘徊してきたような「冷え切った雨」の匂いがしていたからだ。


三月半ばの夜。雨。時刻は一時四十分。


少女はその日も店へ来た。

けれど、今日は少し様子が違った。


入口で立ち止まったまま動かない。

ユキはレジ越しにそちらを見た。少女は濡れた前髪の隙間から、ぼんやり床を見つめていた。

靴が泥で汚れている。制服の袖口も濡れていた。


それ以上に、匂いが違った。

強い鉄臭さ。


血の匂いだ。


ユキの耳がぴくりと震える。

少女はゆっくり歩いてくると、いつも通りミルクティーを手に取った。


その途中、僅かによろめく。

ユキは反射的にレジから出そうになったが、寸前で思いとどまった。


(関わり過ぎるな)


昔から何度も自分へ言い聞かせてきたことだった。

他人へ踏み込み過ぎると、ろくなことにならない。


特に人間相手には。


けれど少女は明らかに様子がおかしかった。

レジへ来る。

ユキは無言で商品を受け取る。


その瞬間、めくれた袖口から覗いた手の甲に、はっきりと痣が見えた。

人間が人間の手首を強く掴んだような跡。

古いものと新しいものが混ざっている。


ユキは数秒だけ迷った。

言うべきか。

黙るべきか。


結局、口から出たのは短い言葉だった。


「……怪我、してる」


少女の肩がびくりと跳ねる。

顔が上がる。

初めて、まともに視線が合った。


暗い目だった。


十代の子供が持つには静かすぎる、何も期待していない目。

少女は数秒沈黙したあと、小さく言った。


「転びました」


嘘だった。

匂いで分かる。


恐怖の匂い。

萎縮した匂い。

特定の誰かへ怯え、支配されている人間の匂い。


ユキはそれ以上何も言えなかった。

人間社会には、人間同士の事情がある。

そこへ獣人が踏み込むと、十中八九ろくなことにならない。


「獣人が人間の家庭問題へ不当に口を出した」


「暴力的に脅された」


そういう形で話が歪むことも珍しくないのだ。


少女は代金を払い、ミルクティーを受け取る。

だが、今日はそのまま帰らなかった。

入口近くのイートインスペースへ座り、小さく缶を抱きしめている。


ユキはレジからその様子を眺めていた。

少女はずっと窓の外を見つめている。


雨。

街灯。

濡れた道路。


それらを無表情に、ただ見つめていた。


三十分ほど経った頃だった。

店の外へ、一台の車が滑り込んできた。


黒いワゴン車。


その瞬間、少女の匂いが一変した。


恐怖。

圧倒的な嫌悪と怯えの匂いが、一気に店内に濃くなる。


ユキの耳がピンと立った。

少女は俯き、小さく身体を丸めている。


車から男が降りてきた。

四十代くらい。

足元が覚束ない。


自動ドアが開くと同時に、不快なアルコールの臭いが店内へ流れ込む。


「……いた」


低い声。

男はユキに目もくれず、真っ直ぐ少女へ近付く。

少女は頑なに顔を上げない。


「帰るぞ」


返事がない。

男は露骨に舌打ちすると、少女の細い腕を乱暴に掴み上げた。

その瞬間、少女が小さく息を呑む。


痛がっている。


ユキの尻尾が、反射的に制服の下で逆立った。


「……離してください」


気付けば、言葉が口から突いて出ていた。


男が不快そうに振り返る。

酒で濁った目。

苛立った顔。


「あ?」


「その子、痛がってます」


男はユキを凝視した。

そして、キャスケット帽の下からのぞく獣人の耳へ気付いた瞬間、その顔が醜く歪む。


「あぁ?なんだ獣人かよ」


その言葉と同時に、店内の空気が一変する。

ユキは自分の尾が激しく逆立っていくのを感じていた。


まずい、感情が表に出すぎている。

だが止められない。


男は鼻で笑った。


「他人の家庭に口出してんじゃねぇよ、ペットの分際で」


男が少女の腕を引く。

少女は抵抗しない。

完全に抵抗することを諦めた、操り人形のような動きだった。


ユキの耳の奥で、心臓の音がうるさく鳴り響く。


怒り、嫌悪、恐怖。


その全部が混ざり合う。

けれど、それ以上に強烈だったのは、少女から漂う匂いだった。


助けて、という匂い。

声には出さない。

出せない。


でも身体中から、助けを求める悲鳴のような匂いが溢れている。


ユキは一瞬だけ迷い――そして、カウンターの下にある通報ボタンへ手を伸ばした。


警察の前に、まずはバックヤードの店長へ直接繋がる通知ボタンだ。

ユキの視線に気付いた男は、レジ付近の防犯カメラとユキの手元を交互に見やり、顔をしかめた。


「……チッ」


これ以上騒ぎが大きくなるのは面倒だと思ったのだろう。

男は少女の腕を乱暴に放り出した。


「おい、帰るぞ」


今度は少しだけ、周囲を気にするような声色に変わっていた。


少女はゆっくり立ち上がる。

その時、一瞬だけユキを見た。


何も言わない。

けれどその目には、明確な「驚き」があった。

まるで、この世界で「誰かが自分のために動いてくれる」ということ自体を、ハナから想定していなかったみたいな顔だった。


少女は男の後に続いて店を出る。

黒い車。

雨。

赤いテールランプ。


それらが冷たい夜の中へ消えていく。


静寂が戻る。有線放送だけが、場違いに明るいポップスを流し続けていた。

ユキはゆっくりと、溜め込んでいた息を吐き出す。


尻尾がまだ細かく震えていた。


最悪だった。

感情を抑えきれなかった。


もし男が逆上して掴みかかってきていたら。

もし本当に警察沙汰になっていたら。


前回の電車と同じように、「危険な獣人が人間に暴力を振るった」として処理されて終わっていたかもしれない。


ユキはカウンターの裏へへたり込む。

指先が氷のように冷えていた。


怖かった。


けれど、それ以上に胸の奥へ焼き付いて離れなかったのは、少女の最後の目だった。

何も期待していなかった人間の、驚いたような目。


雨音が窓を叩く。

ユキはぼんやりと思う。


あの子は、次の雨の日もまた来るだろうか。

そしてもし本当に来たとして、自分は今度こそ、何か言葉をかけられるのだろうか。


店内の蛍光灯は、そんなユキの葛藤をあざ笑うかのように、相変わらず白く冷たい光を落とし続けていた。



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