表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
PR
2/24

耳を触らないで

雨は明け方になる頃には止んでいたが、空気の中にはまだ濡れたアスファルトの匂いが残っていて、

始発前の薄暗い街は、まるで巨大な水槽の底みたいに静かだった。


夜勤を終えたユキは、コンビニの裏口から外へ出ると、白く冷えた息を小さく吐きながら空を見上げた。

雲の切れ間から滲むように見える灰色の朝焼けを、ぼんやりと眺める。


この時間の街は嫌いではない。

人間達がまだ完全には活動を始めておらず、車の数も少ない。

街全体が「起きる前」の呼吸をしているように静まり返っているからだ。


耳へ刺さる音が少ない。

鼻を刺激する匂いも少ない。

だからユキにとって、この時間だけが世界と和解できる数少ない瞬間だった。


店長が裏口から出てきて煙草へ火を点けると、紫煙の匂いが風に混ざり、ユキの耳が反射的に僅かに伏せられた。


「お疲れ」


「……お疲れ様です」


「今日は変なの来なかった?」


変なの、という言葉が曖昧すぎて、ユキは一瞬だけ昨夜の泣いていた男を思い出したが、

店長が言っているのはそういう意味ではないとすぐに思い直した。


酔っ払い。

クレーマー。

獣人を面白半分に触ろうとする客。


そういう人間のことだ。


「……少しだけ」


「最近増えてるよなぁ、獣人見ると絡むやつ」


店長は同情するような声色を出していたが、その一方で、どこか他人事の響きも混ざっていた。


結局、人間にとって獣人差別というものは、

自分の身へ直接降り掛からない限り、テレビの向こう側のニュース程度の重さしかないのだろう。


店長は悪い人間ではない。

むしろかなり配慮してくれている方だ。


昼勤務を避けてくれるし、客から変なことを言われた時には間へ入ってくれることもある。

けれど、それでも「理解」はしていない。

いや、多分、一生理解できない。


それはもう仕方のないことだった。


「帰り、気を付けろよ」


「はい」


ユキは軽く頭を下げると、濡れた歩道を駅の方へ歩き始める。

足元で小さな水溜まりが揺れた。


朝の冷気は嫌いではない。


人間の匂いが薄まるからだ。

夜勤明けの体は重かったが、それでも昼間より遥かにマシだった。


駅へ近付くにつれて、徐々に人影が増えていく。


新聞配達員。

始発へ向かう学生。

朝帰りらしい若者。


皆、自分のことで精一杯な顔をして歩いている。

ユキは人の流れから少し距離を置きながら改札を通り、なるべく空いている車両を選んで乗り込んだ。


始発に近い時間だから座席はまだ空いていた。

ユキは端の席へ腰を下ろすと、キャスケット帽を少し深く被り直し、小さく息を吐く。


電車の中は苦手だった。狭い空間へ人間の匂いが充満する。


柔軟剤。

整髪料。

香水。

汗。

湿ったコート。


それら全部が混ざり合って、鼻の奥へ重く張り付く。


まだ空いている今は大丈夫だが、通勤ラッシュが始まれば地獄になる。

だからユキはいつも、ラッシュ前に帰宅できるよう時間を調整していた。


電車が揺れる。


窓の外では、眠たげな灰色の街並みが流れていく。

ユキはぼんやり外を眺めながら、昨夜の男のことを少しだけ考えていた。


今頃、ちゃんと帰れただろうか。

あの匂いは危うかった。


限界寸前の人間特有の、空っぽになりかけた匂い。

ユキは時々、ああいう匂いを嗅ぐ。


橋の上。

駅のホーム。

深夜のコンビニ。


そして大抵の場合、周囲の人間は誰も気付いていない。

人間は言葉を重視するくせに、本当に危険な感情ほど隠すのが上手かった。


だからユキは、時々思う。

もし、匂いで感情を感じ取れない人間達だけの社会なら、

誰かが静かに壊れていくことにも気付けないまま、生きているのではないかと。


電車が次の駅へ止まる。

数人の乗客が入ってきた。


その中に、大学生くらいの若い男達が三人いた。


騒がしい笑い声。

甘ったるい香水。

アルコールの残り香。


その瞬間、ユキの耳が帽子の下で小さく伏せられる。

嫌な予感がした。


男達は車両を見回し、一番端に座るユキへ気付く。


「あ、見て」


「マジじゃん、獣人」


「狐?」


ユキは反応しない。

こういう時、下手に反応すると余計に面倒になる。


男達は近くの吊革へ掴まりながら、ちらちらとユキを見ていた。視線が刺さる。


獣人は見られることに慣れている。子供の頃からずっとそうだった。


珍しい動物を見るみたいな目。

可愛いと言う目。

気持ち悪いと言う目。

怖がる目。

性的な目。


そして、「触ってみたい」と思う目。

その全部が嫌だった。


男の一人が笑いながら言う。


「耳、本物かな」


「動くんじゃね?」


「触ってみろよ」


ユキの尻尾がスカート(※ズボン)の下で硬直する。

聞こえないふりをする。


いつも通りだ。

無視すれば、そのうち飽きる。


そう思っていた。


だが次の瞬間、男の一人が本当に距離を詰めてきた。


「すみませーん」


声が近い。酒臭い。ユキは視線を上げない。


「何か」


「耳、本物?」


「……そうですけど」


「触っていい?」


その言葉を聞いた瞬間、ユキの耳がぴくりと跳ねてしまった。男はそれを見て下卑た笑みを浮かべる。


「うお、動いた」


周囲の乗客達は見て見ぬふりをしていた。

誰も止めない。


面倒事へ関わりたくないのだろう。

ユキはそれを責める気にはなれなかった。


人間社会とはそういうものだ。


「やめてください」


低く言う。


だが男は笑ったまま、強引に手を伸ばしてきた。

その瞬間、ユキの背筋へぞわりとした悪寒が走る。


本能的な嫌悪。


耳は、彼らにとって動性感器官であり、極めて敏感な部位だ。

触れられること自体が不快なのに、見知らぬ人間から突然触られるなど、ユキにとっては暴力以外の何物でもなかった。


指先が帽子へ触れる。

ユキは反射的に男の手を払いのけていた。


――ぱしっ、と乾いた音が車内に響く。


車両の空気が一瞬で凍りついた。

男の笑顔が消える。


「……は?」


低い声。


空気が変わる。

ユキは「しまった」と思った。

感情的になってしまった。


耳が熱い。

尾が警戒で膨らんでいるのが衣服越しにも分かった。


「触らないでください」


声が震えないよう意識する。男は苛立った顔で舌打ちをした。


「感じ悪……ちょっとくらい良くね?」


「良くないです」


「減るもんじゃねぇだろ」


減る減らないの話じゃない。

だが、それを説明する気力はユキにはなかった。


男は周囲の目があるからか、それ以上は何もせず仲間の元へ戻っていった。

周囲の乗客達は相変わらず知らないふりをしていた。


電車が揺れる。

誰も喋らない。


けれど空気だけが痛いほど重かった。


ユキは視線を落としたまま、自分の手を見つめる。

少し震えていた。


怖かった。

怒りよりも、嫌悪よりも先に、恐怖が来る。


獣人は人間より身体能力が高い。

だからこそ、「暴れた」と思われた瞬間にすべてが終わる。


ニュースになる。

『危険な獣人』

『感情的な獣人』

『理性の低い亜人』。


そういうレッテルが、すぐに貼り付けられる。

だからユキはずっと我慢して生きてきた。


怒らないように。

怖がらせないように。

人間社会へ馴染むように。


けれど、それでも時々限界が来る。


電車が駅へ止まる。男達は笑いながら降りていった。

最後に一人が「めんどくせぇ狐」と吐き捨てる。


ドアが閉まる。

静寂。


その瞬間、ユキはようやく溜め込んでいた息を吐き出した。

苦しい。喉が詰まる。耳の奥で心臓の音がうるさく鳴っている。


向かいの席に座っていた中年女性が、一瞬だけユキを見たあと、すぐ視線を逸らした。

その目にあったのは同情ではない。――「狂暴な動物」を見るような警戒だった。


ユキはその視線に慣れていた。

獣人が感情を露わにすると、人間は少し距離を置く。


それが当たり前だった。


ユキは窓へ映る自分を見る。帽子の下で耳が僅かに震えていた。情けなかった。

触られたくないと言っただけなのに、どうしてこちらが悪いことをした気分になるのだろう。


電車は静かに次の駅へ向かう。朝日が少しずつ街を照らし始めていた。

世界は何事もなかったみたいに動き続ける。


誰かにとっては、ただの清々しい朝。

けれどユキにとっては、また少しだけ心が削られた朝だった。


その時、ポケットの中でスマホが短く震えた。


通知。


SNSを開くと、見知らぬアカウントの投稿が目に飛び込んでくる。


『さっき電車にいた狐耳の獣人、超感じ悪かったわ。

ちょっと触ろうとしただけでキレて手ぇ上げてきた。マジで危ないんだけど』


添付された写真には、帽子を被ったユキの横顔が盗撮されていた。


胸の奥が急速に冷えていく。

指先から熱が抜けていく。


投稿には、既に数件の「お勧め」による反応が付き始めていた。


『これだから獣人は……すぐキレるから怖い』


『触られるの嫌なら耳隠して生活すれば?w』


『一瞬可愛いと思ったのに、中身は野生のままだな』


ユキは静かに画面を閉じた。


電車は変わらず走り続ける。

窓の外では、残酷なほど綺麗な朝が始まっている。


けれどユキの耳だけは、ずっと冷え切ったままだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ