耳を触らないで
雨は明け方になる頃には止んでいたが、空気の中にはまだ濡れたアスファルトの匂いが残っていて、
始発前の薄暗い街は、まるで巨大な水槽の底みたいに静かだった。
夜勤を終えたユキは、コンビニの裏口から外へ出ると、白く冷えた息を小さく吐きながら空を見上げた。
雲の切れ間から滲むように見える灰色の朝焼けを、ぼんやりと眺める。
この時間の街は嫌いではない。
人間達がまだ完全には活動を始めておらず、車の数も少ない。
街全体が「起きる前」の呼吸をしているように静まり返っているからだ。
耳へ刺さる音が少ない。
鼻を刺激する匂いも少ない。
だからユキにとって、この時間だけが世界と和解できる数少ない瞬間だった。
店長が裏口から出てきて煙草へ火を点けると、紫煙の匂いが風に混ざり、ユキの耳が反射的に僅かに伏せられた。
「お疲れ」
「……お疲れ様です」
「今日は変なの来なかった?」
変なの、という言葉が曖昧すぎて、ユキは一瞬だけ昨夜の泣いていた男を思い出したが、
店長が言っているのはそういう意味ではないとすぐに思い直した。
酔っ払い。
クレーマー。
獣人を面白半分に触ろうとする客。
そういう人間のことだ。
「……少しだけ」
「最近増えてるよなぁ、獣人見ると絡むやつ」
店長は同情するような声色を出していたが、その一方で、どこか他人事の響きも混ざっていた。
結局、人間にとって獣人差別というものは、
自分の身へ直接降り掛からない限り、テレビの向こう側のニュース程度の重さしかないのだろう。
店長は悪い人間ではない。
むしろかなり配慮してくれている方だ。
昼勤務を避けてくれるし、客から変なことを言われた時には間へ入ってくれることもある。
けれど、それでも「理解」はしていない。
いや、多分、一生理解できない。
それはもう仕方のないことだった。
「帰り、気を付けろよ」
「はい」
ユキは軽く頭を下げると、濡れた歩道を駅の方へ歩き始める。
足元で小さな水溜まりが揺れた。
朝の冷気は嫌いではない。
人間の匂いが薄まるからだ。
夜勤明けの体は重かったが、それでも昼間より遥かにマシだった。
駅へ近付くにつれて、徐々に人影が増えていく。
新聞配達員。
始発へ向かう学生。
朝帰りらしい若者。
皆、自分のことで精一杯な顔をして歩いている。
ユキは人の流れから少し距離を置きながら改札を通り、なるべく空いている車両を選んで乗り込んだ。
始発に近い時間だから座席はまだ空いていた。
ユキは端の席へ腰を下ろすと、キャスケット帽を少し深く被り直し、小さく息を吐く。
電車の中は苦手だった。狭い空間へ人間の匂いが充満する。
柔軟剤。
整髪料。
香水。
汗。
湿ったコート。
それら全部が混ざり合って、鼻の奥へ重く張り付く。
まだ空いている今は大丈夫だが、通勤ラッシュが始まれば地獄になる。
だからユキはいつも、ラッシュ前に帰宅できるよう時間を調整していた。
電車が揺れる。
窓の外では、眠たげな灰色の街並みが流れていく。
ユキはぼんやり外を眺めながら、昨夜の男のことを少しだけ考えていた。
今頃、ちゃんと帰れただろうか。
あの匂いは危うかった。
限界寸前の人間特有の、空っぽになりかけた匂い。
ユキは時々、ああいう匂いを嗅ぐ。
橋の上。
駅のホーム。
深夜のコンビニ。
そして大抵の場合、周囲の人間は誰も気付いていない。
人間は言葉を重視するくせに、本当に危険な感情ほど隠すのが上手かった。
だからユキは、時々思う。
もし、匂いで感情を感じ取れない人間達だけの社会なら、
誰かが静かに壊れていくことにも気付けないまま、生きているのではないかと。
電車が次の駅へ止まる。
数人の乗客が入ってきた。
その中に、大学生くらいの若い男達が三人いた。
騒がしい笑い声。
甘ったるい香水。
アルコールの残り香。
その瞬間、ユキの耳が帽子の下で小さく伏せられる。
嫌な予感がした。
男達は車両を見回し、一番端に座るユキへ気付く。
「あ、見て」
「マジじゃん、獣人」
「狐?」
ユキは反応しない。
こういう時、下手に反応すると余計に面倒になる。
男達は近くの吊革へ掴まりながら、ちらちらとユキを見ていた。視線が刺さる。
獣人は見られることに慣れている。子供の頃からずっとそうだった。
珍しい動物を見るみたいな目。
可愛いと言う目。
気持ち悪いと言う目。
怖がる目。
性的な目。
そして、「触ってみたい」と思う目。
その全部が嫌だった。
男の一人が笑いながら言う。
「耳、本物かな」
「動くんじゃね?」
「触ってみろよ」
ユキの尻尾がスカート(※ズボン)の下で硬直する。
聞こえないふりをする。
いつも通りだ。
無視すれば、そのうち飽きる。
そう思っていた。
だが次の瞬間、男の一人が本当に距離を詰めてきた。
「すみませーん」
声が近い。酒臭い。ユキは視線を上げない。
「何か」
「耳、本物?」
「……そうですけど」
「触っていい?」
その言葉を聞いた瞬間、ユキの耳がぴくりと跳ねてしまった。男はそれを見て下卑た笑みを浮かべる。
「うお、動いた」
周囲の乗客達は見て見ぬふりをしていた。
誰も止めない。
面倒事へ関わりたくないのだろう。
ユキはそれを責める気にはなれなかった。
人間社会とはそういうものだ。
「やめてください」
低く言う。
だが男は笑ったまま、強引に手を伸ばしてきた。
その瞬間、ユキの背筋へぞわりとした悪寒が走る。
本能的な嫌悪。
耳は、彼らにとって動性感器官であり、極めて敏感な部位だ。
触れられること自体が不快なのに、見知らぬ人間から突然触られるなど、ユキにとっては暴力以外の何物でもなかった。
指先が帽子へ触れる。
ユキは反射的に男の手を払いのけていた。
――ぱしっ、と乾いた音が車内に響く。
車両の空気が一瞬で凍りついた。
男の笑顔が消える。
「……は?」
低い声。
空気が変わる。
ユキは「しまった」と思った。
感情的になってしまった。
耳が熱い。
尾が警戒で膨らんでいるのが衣服越しにも分かった。
「触らないでください」
声が震えないよう意識する。男は苛立った顔で舌打ちをした。
「感じ悪……ちょっとくらい良くね?」
「良くないです」
「減るもんじゃねぇだろ」
減る減らないの話じゃない。
だが、それを説明する気力はユキにはなかった。
男は周囲の目があるからか、それ以上は何もせず仲間の元へ戻っていった。
周囲の乗客達は相変わらず知らないふりをしていた。
電車が揺れる。
誰も喋らない。
けれど空気だけが痛いほど重かった。
ユキは視線を落としたまま、自分の手を見つめる。
少し震えていた。
怖かった。
怒りよりも、嫌悪よりも先に、恐怖が来る。
獣人は人間より身体能力が高い。
だからこそ、「暴れた」と思われた瞬間にすべてが終わる。
ニュースになる。
『危険な獣人』
『感情的な獣人』
『理性の低い亜人』。
そういうレッテルが、すぐに貼り付けられる。
だからユキはずっと我慢して生きてきた。
怒らないように。
怖がらせないように。
人間社会へ馴染むように。
けれど、それでも時々限界が来る。
電車が駅へ止まる。男達は笑いながら降りていった。
最後に一人が「めんどくせぇ狐」と吐き捨てる。
ドアが閉まる。
静寂。
その瞬間、ユキはようやく溜め込んでいた息を吐き出した。
苦しい。喉が詰まる。耳の奥で心臓の音がうるさく鳴っている。
向かいの席に座っていた中年女性が、一瞬だけユキを見たあと、すぐ視線を逸らした。
その目にあったのは同情ではない。――「狂暴な動物」を見るような警戒だった。
ユキはその視線に慣れていた。
獣人が感情を露わにすると、人間は少し距離を置く。
それが当たり前だった。
ユキは窓へ映る自分を見る。帽子の下で耳が僅かに震えていた。情けなかった。
触られたくないと言っただけなのに、どうしてこちらが悪いことをした気分になるのだろう。
電車は静かに次の駅へ向かう。朝日が少しずつ街を照らし始めていた。
世界は何事もなかったみたいに動き続ける。
誰かにとっては、ただの清々しい朝。
けれどユキにとっては、また少しだけ心が削られた朝だった。
その時、ポケットの中でスマホが短く震えた。
通知。
SNSを開くと、見知らぬアカウントの投稿が目に飛び込んでくる。
『さっき電車にいた狐耳の獣人、超感じ悪かったわ。
ちょっと触ろうとしただけでキレて手ぇ上げてきた。マジで危ないんだけど』
添付された写真には、帽子を被ったユキの横顔が盗撮されていた。
胸の奥が急速に冷えていく。
指先から熱が抜けていく。
投稿には、既に数件の「お勧め」による反応が付き始めていた。
『これだから獣人は……すぐキレるから怖い』
『触られるの嫌なら耳隠して生活すれば?w』
『一瞬可愛いと思ったのに、中身は野生のままだな』
ユキは静かに画面を閉じた。
電車は変わらず走り続ける。
窓の外では、残酷なほど綺麗な朝が始まっている。
けれどユキの耳だけは、ずっと冷え切ったままだった。




