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ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
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7/24

隣人の老人

ユキが今のアパートへ住み始めてから、もう二年近くが経っていた。


築年数の古い鉄筋五階建ての建物で、外壁はところどころひび割れて色褪せ、

廊下の蛍光灯はいつからか断続的に不快な高周波を立ててちらついている。


雨の日になると、剥き出しの鉄製階段から微かに鉄錆の匂いが湿気とともに漂ってくる、

そんな場所だった。


家賃は安かった。


駅から徒歩十分以上離れており、周辺に大型商業施設もなく、

建物自体もかなりガタが来ている。


だがユキにとって最も重要だったのは、立地でも築年数でもなく、

別の部分だった。


――住人が、お互いにまったく関心を持っていない。


それが、この場所を終の棲家のように選んだ最大の理由だった。


獣人が一人で部屋探しをすると、露骨な差別はされなくても、

必ずどこか不自然な理由で断られる。


「すみません、タッチの差で先ほど別の方で埋まりまして」


「ちょっと管理会社の上層部の方針で……」


「他に入居されているお客様との『兼ね合い』がありまして……」


そういう曖昧な、けれど芯の冷たい言葉を、ユキは何度も耳にしてきた。


実際には不動産屋のカウンターで帽子を外した瞬間、

相手の空気がピキリと凍るのが分かる。


仕方のないことですね、とでも言いたげな、

憐れみと拒絶の混ざった顔をされる。


だからユキは、なるべく古くて、なるべく人付き合いが希薄で、

入居審査の緩い場所を選ぶようになっていた。


このアパートも、最初に内見へ来た時、

白内障を患った老管理人が


「近所に迷惑かけずに静かに暮らしてくれるなら、何でもいいよ」


とだけ言って煙草を吹かしたので、

その場で契約を決めた。


隣人のことも、顔すらほとんど知らない。

右隣には昼夜逆転しているらしい大学生が住んでいて、

深夜にゲームの銃撃音や低音が壁を伝って聞こえることがある。


左隣は空室。

向かいの部屋には、外国人労働者らしい男達が数人で身を寄せ合って住んでいる。


そして、二階の一番奥の部屋には、一人の老人が住んでいた。


最初に見かけた時、ユキは身構え、少しだけ驚いた。

獣人に対して露骨に嫌悪感を露わにするのは、圧倒的に高齢者が多かったからだ。


実際、以前住んでいた別のアパートでは、

同じ階の老人に


「最近は動物のなり損ないまで人間面して部屋を借りるのか」


と通路ですれ違いざまに吐き捨てられたことがある。


だからユキは、この老人とも必要以上に関わらないよう、

細心の注意を払っていた。


だが、その老人は妙に静かな人だった。


朝方、ユキが夜勤帰りでアパートへ戻ると、

時々一階の郵便受けの前や廊下ですれ違う。


毛羽立った灰色のカーディガン。

少し曲がった細い背中。

カサカサに乾いた指先。

そして、昔ながらのきつい缶煙草の残り香。


それだけだった。


特に話しかけてくることもない。

ユキの帽子の隙間から覗く白い耳を見ても、眉一つ動かさない。


ただ、気配を察して小さく、義務的に会釈を交わすだけ。

その、踏み込んじこない距離感が、ユキには何よりも有り難く、楽だった。


四月半ばの夜。夜勤明けだった。


空は薄曇りで、朝焼けはぼんやりと白く滲み、

冷えた春の風がアパートの開放廊下をゆっくりと吹き抜けていく。


ユキはコンビニの制服の上に薄いグレーのパーカーを羽織り、

徹夜の眠気で重くなった身体を引きずるようにして、コンクリートの階段を上がっていた。


今日は特に疲れていた。

深夜三時頃、酔客同士がレジ前で胸ぐらをつかみ合う喧嘩を起こし、

その仲裁と警察への対応で神経をすっかり消耗してしまったのだ。


人間の怒声は苦手だった。


どれだけ離れていても耳へ刺さる。

暴力的な音の波は、まるで金属をやすりで激しく擦るように、ユキの繊細な鼓膜の奥へいつまでも残り続ける。


二階の廊下へ差し掛かった、その時だった。

風の向きが変わると同時に、ある異質な匂いが鼻腔を突いた。


焦げ臭い。


ユキの耳が、帽子の下でピピンと静かに動く。

視線を匂いの元へ向ける。


二階の突き当たり、老人の部屋だった。


鉄製の扉が、数センチだけ隙間を開けて解錠されている。

そのわずかな隙間から、白く濁った煙が、まるで生き物のように這い出してきていた。


ユキの尻尾が、本能的な危機感でぶわりと膨らむ。


(まずい――)


考えるより先に、ユキは濡れた廊下を音もなく駆け寄っていた。


「……すみません! どなたかいますか!」


インターホンを押し、声を張るが、返事はない。

漏れ出てくる煙の匂いが一気に強くなる。


ガスの生臭さではない。

有機物がどろどろに焼き付いている、嫌な臭気だ。


ユキは躊躇いを捨て、扉を大きく押し開けた。


「失礼します!」


部屋の中は薄暗かった。

外の朝光を拒むように遮光カーテンが閉め切られ、古い畳の埃っぽい匂いと、

何種類もの薬品、それに強烈な煮焦げた臭気が混ざり合って充満している。


奥の小さな台所。

コンロの上で、アルミの片手鍋から激しく煙が上がっていた。

その手前、薄い煎餅布団の脇で、老人が床へ直接崩れるように座り込んでいる。


ユキは咄嗟に台所へ踏み込み、コンロのつまみを回して火を消した。

換気扇のスイッチを強で入れる。


鍋の中を覗き込むと、何かの煮物が完全に水気を失い、

炭化して真っ黒に変色していた。


ユキは鍋つかみ代わりにパーカーの袖を伸ばして熱い取っ手を掴み、

シンクへ移して水道の蛇口を捻る。


――じゅううう、と激しい水蒸気音が鳴り響き、

焦げた強烈な臭いが一気にとどめを刺すように広がった。


老人は壁にもたれかかったまま、小さく力なく笑った。


「あぁ……寝てしまっていたみたいだ」


ユキは激しく打つ心臓を押さえながら、

小さく、深い息を吐き出した。


本当に危なかった。


あと数分、ユキの帰宅が遅れるか、あるいは匂いに気付かなければ、

この古い木造混じりの建物は一瞬で火に包まれていただろう。


老人はしばらく呆然と自分の手元を見つめていたが、

やがてゆっくりと顔を上げた。


その瞳は薄く濁り、焦点が合うまでに少し時間がかかっているようだった。


「助かったよ、お嬢ちゃん」


掠れた、乾いた声だった。

ユキは何と返せばいいのか分からず、ただ小さく頭を下げた。


改めて見回すと、部屋の中は凄まじく散らかっていた。

いつの物か分からない古新聞の山。

中身の消えたプラスチックの薬殻。

黄ばんだ背表紙の積まれた本。

シンクに放置されたまま薄カビの浮いた洗い物。


それは、一人暮らしの人間がゆっくりと社会から脱落していくような、

静かで残酷な荒れ方だった。

その光景と、部屋の奥から漂う匂いに、ユキは胸の奥がずんと重くなるのを感じた。


――孤独の匂いだ。


長い間、誰とも言葉を交わさず、誰にも生活の機微を覗かせていない人間の部屋には、

独特の澱んだ空気が染み付く。

生活音が消失した部屋の、冷え切った匂い。


老人は、ユキの頭の上から突き出ている、

驚きでまだ少し毛羽立った耳をじっと見つめ、言った。


「狐、か」


ユキは反射的に、責められるのを恐れて耳をペタリと寝かせた。

だが、老人の声に、これまで散々浴びせられてきたような嫌悪や好奇のトゲは一切混ざっていなかった。


「……はい」


「白いな」


それだけだった。


「珍しいね」とも「可愛いね」とも、あるいは「不気味だ」とも言わない。

ただそこにある冬の雪を見て「白いな」と呟くような、純粋な事実の確認だった。


老人は手をついて立ち上がろうとしたが、膝が笑っているのか、激しくよろめいた。

ユキは反射的に手を伸ばし、その細い腕を支える。


(――軽い)


掴んだ衣服の奥にある骨格は驚くほど細く、

身体の質量そのものが衣服に負けているのではないかと思うほど、


頼りなく軽かった。


老人は自嘲気味に少し笑う。


「歳だな。身体が言うことを聞かん」


ユキの鋭い視界に、部屋の隅に散乱した調剤薬局の袋が映る。

高血圧の薬、睡眠導入剤、変形性関節症の痛み止め、心疾患の文字。


恐ろしいほどの種類が、その細い身体をかろうじて現世に繋ぎ止めているようだった。


「……ご家族は、その、いらっしゃらないんですか」


口にしてから、猛烈な後悔が押し寄せた。


踏み込みすぎだ。

他人の事情に、ましてや人間のプライベートに獣人が口を挟むべきではない。


だが、老人は怒るでもなく、遠い窓の外を見つめながら淡々と言った。


「死んだよ。もう、だいぶ前にな」


悲しみの波がとっくに引き引き、乾ききった砂浜のような声だった。

ユキはそれ以上、何も言葉を紡ぐことができなかった。


老人はゆっくりと這うようにして動き、重い窓を数センチだけ開けた。

四月の冷たい朝風が室内に滑り込み、部屋を支配していた焦げ臭さを少しずつ連れ去っていく。


「君、夜の仕事か」


「……駅前の、コンビニです」


「そうか」


それだけだった。


普通の人間なら、ここからさらに詮索を重ねてくる。

「獣人なのに偉いね」とか「夜勤は怖くないのか」とか「耳は敏感なのか」とか

配慮の皮を被った好奇心でこちらの領域を侵食してくる。


だが、老人はそれ以上何も聞いてこない。

その絶対的な無関心と静けさが、今のユキには毛布のように心地よかった。


ユキが「それでは」と辞去しようとした時、

老人が思い出したように声をかけた。


「待ってくれ。礼を、したいんだが」


「いえ、火事にならなくて良かったですし、大丈夫です」


「そういうわけにはいかん。男の面目だ」


老人は少し思案したあと、居間の隅にある古びた茶箪笥から、

小さな丸い缶を持ってきた。


色褪せた、実用性だけを遺した古い茶筒だった。


「これくらいしか、まともな煎餅が残っていなくてな」


ユキは一瞬迷ったが、老人の頑なな、けれどどこか寂しげな差し出し方を見て、

小さく両手で受け取った。


受け取った缶の隙間から、ほんのりと醤油の香ばしい匂いが漂ってくる。

不思議と、尖っていない、角の丸い懐かしい匂いだった。


「……ありがとうございます。いただきます」


老人は満足そうに、深くゆっくりと頷いた。


「火、気を付けんとなぁ……」


その呟きは、自分の不始末へ向けたものなのか、

それとも遠い過去の誰かへ向けたものなのか、ユキには判別がつかなかった。


ユキは部屋をあとにし、鉄の扉を静かに閉めた。

廊下へ出た瞬間、遮るもののない純粋な四月の朝気が肺を満たす。


冷たくて、静かで、遠くの電柱のあたりでカラスが小さく鳴く声が響く。


ユキは自分の部屋へと戻る階段を歩きながら、手の中にある茶筒を見つめた。

老人の手の熱が移ったのか、それはほんのりと温かかった。


鍵を開け、自室へ入る。


家具の最低限しか置かれていない、狭いワンルーム。

薄暗い室内には、自分の管理する冷蔵庫の規則的な駆動音だけが静かに響いている。


ユキはキャスケット帽を脱ぎ、ベッドの上へと放り出した。


窮屈に押し込められていた白い二つの耳が、ふわ、と解放されて立ち上がる。

その耳の先端の毛に、まだ老人の部屋の焦げ臭さが微かに残っていた。


窓の外では、残酷なほど正確に新しい一日が始まろうとしている。

人間達が目覚め、街の「音量」と「匂い」が一気に跳ね上がる時間。


けれど、ユキはこれから遮光カーテンを閉め、深い眠りにつく。


夜に生きる者と、昼に生きる者。

そして、社会の隅で声を潜めて生きる者。


世界は同じ場所にあるのに、住人たちの時間と境界だけが、

ほんの少しずつ、決定的にズレている。


ユキは茶筒を開け、中から薄い醤油煎餅を一枚取り出して口へ運んだ。

パキリ、と硬い歯ごたえが室内に小さく響く。


素朴な醤油の香りと、米の甘み。


(あぁ、これ――)


どこか、遠い昔を思い出す味だった。


まだ自分が小さかった頃、人間社会のルールも知らず、ただ田舎の古い家で、

祖母が茶を飲みながら同じような煎餅を割ってくれたような気がする。


その祖母が人間だったか獣人だったか、顔の記憶すらもう曖昧だ。

けれど、匂いと味の記憶だけは、驚くほど鮮明に脳の奥に焼き付いている。


匂いは時々、言葉や映像よりも長く、正しく残るのだ。


ユキはベッドに横たわり、小さく目を閉じた。

右隣の部屋から、微かに大学生のゲームの電子音が防音性の低い壁を抜けて響いてくる。


二階の奥に住む、あの老人。


名前も、かつてどんな人生を送ってきたのかも知らない。

きっと明日からも、廊下ですれ違えば、言葉もなくただ一瞬の会釈を交わすだけの関係だろう。

深く関わることも、お互いの領域を侵すこともない。


それでも。


この、刺激が強すぎて眩しすぎる巨大な街の中で。

自分の持つ獣としての特徴を、必要以上に消費せず、珍しがりもせず、

ただ「そこにある事実」として、静かに置いておいてくれる人間が一人いる。


たったそれだけの事実が、冷え切ったユキの胸の奥を少しだけ包み込み、

これから始まる長い昼の眠りを、いつもより少しだけ穏やかなものにしてくれるような気がした。



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