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ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
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33/34

狐日

八月も半ばを迎え、昼間の街には相変わらず

耳を劈くような蝉の鳴き声が容赦なく降り注いでいたものの、

深夜を過ぎて通りを吹き抜ける風には、

ほんの少しだけ秋の気配が混じり始め、


真夏の容赦のない熱気に慣れた身体には、

そのわずかな涼しさが至上の心地よさとして感じられるようになっていた。


その日の夜。


ユキは久しぶりに夜勤のシフトが完全に休みだった。

珍しく何の予定もない夜だったが、

四角い部屋のベッドでじっとしているよりも、

ほんの少しだけ冷たくなった夜風を直接肌に浴びたくなり、


いつものように静寂に包まれた深夜の街へ、

宛てもなく散歩に出ることにした。


駅前から少し離れた、

シャッターの下りた古い商店街をゆっくりと歩いていると、

静かな夜の空気を破る、聞き慣れた賑やかな声が背後から響いた。


「――ユキー! 見っけ!」


タタタ、と軽快な足音を立てて勢いよく駆け寄ってきたのは、

艶やかな黒い猫耳をぴんと直立させたミナだった。


「こんばんは、ミナ。こんな時間にどうしたんですか?」


「こんばんは! ふふん、ちょっと夜の散歩だよ。ユキもでしょ?」


「ええ、そうです」


「よし、じゃあ私も行く!」


こちらの返事を聞くよりも早く、

ミナは当然のようにユキの隣へと並んで歩き出す。


いつものことながら、

その嵐のような強引さにユキは思わず苦笑してしまった。


二人で並んで夜道を歩いていると、

商店街の古びた木製の掲示板の前に、

数人の地元の高校生たちが集まり、

何やらひそひそと楽しそうに談笑しているのが耳に届いた。


「ねえ、マジだって。お前『狐火』の噂、知らないの?」


「あー、あの真夜中に青白い火がぽつぽつ浮くやつ? 都市伝説だろ」


「いや、噂だとさ、狐の獣人が夜中に静かに歩くと、

その後ろから出るらしいよ。この辺でも見た人がいるって、SNSで言ってたし」


若者たちの笑い混じりの会話は、やがて夜の闇へと遠ざかっていく。

ミナは掲示板に残された古いポスターを眺めながら、

興味深そうに三角の猫耳を動かした。


「狐火だって。ねえユキ、それってさ……」


ユキは少し困ったように狐耳を寝かせ、苦笑した。


「昔からある、よくある怪談話の類ですよ」


「えーっ! 本当にあるかもしれないじゃん!」


「ありません」


あまりにも即答だった。


「もー、ユキは夢がないなぁ!」


「ありませんから。ただの視覚的な錯覚か、昔の人の作り話です」


ミナは不満そうに頬を丸く膨らませる。


「でも、一回くらい見てみたいなぁ、青くて綺麗な炎。

もしユキが『えいっ』って出せたら、すっごく格好いいのに」


「だから、出せませんって」


他愛のないやり取りに二人は小さく笑い合いながら、夜の散歩を続ける。

そうして歩いているうちに、二人の足は自然と、

あの静かな路地裏に佇む古本屋へと向かっていた。


小さな、深い緑色に塗られた木の扉をそっと押し開く。


カラン、コロン――。


夜の静寂に、真鍮の優しい鈴の音が響く。


「……おや、いらっしゃい。

こんな夜更けに珍しい組み合わせだね」


カウンターの奥で、店主はいつものように古い和綴じの本に目を落としたまま、

穏やかな声で二人を迎え入れた。


ユキは店内へ入ると、薄暗い裸電球に照らされた棚の一角に、

かすれた文字で「郷土史」と書かれた木札を見つける。


何気なくその棚を眺めていると、背表紙の文字が少し色褪せた、

一冊の古びた和装本が奇妙に目に留まった。


本のタイトルは――『この町に伝わる異聞昔話』。


ユキが吸い寄せられるようにその本を手に取ると、

奥から眼鏡の奥の目を細めた店主が、足音もなく静かに近づいてきた。


「ほう、その本を選ぶとは。それはこの地域でも、

もう数冊しか残っていない、少々珍しい本ですよ」


「……少しだけ、ここで読んでもいいですか?」


「もちろん。夜の読書は、心を落ち着かせますからね」


そっとページをめくると、時間の経過を感じさせる古い紙特有の、

ほんのり甘い匂いが鼻腔に広がった。


パラパラと中をめくっていくと、ある一ページに、

墨一色で描かれた小さな挿絵が目に飛び込んできた。


描かれているのは、うっそうとした夜道。

そこに浮かぶ、いくつかの怪しげな青白い炎。


そして――頭に立派な狐耳を持つ、一人の美しい少女の姿。


その挿絵の横には、崩し字でこう記されていた。


『真夜中、狐火を見る者は、その炎に導かれ、

己が心の一番奥にある、本当に帰りたい場所へ辿り着くという――』


ユキの肩越しにページを覗き込んでいたミナが、

瞳をキラキラと輝かせる。


「本当に帰りたい場所……! 何それ、すっごく面白そう!」


ユキは本を優しく閉じながら、またしても苦笑を浮かべた。


「昔話ですから、かなり誇張されているんですよ」


すると、店主が口元に深い笑みを浮かべながら言った。


「ユキさん。都市伝説というものはね、完全な嘘ではなく、

ほんの少しだけ『本当の真実』が混ざっているからこそ、人々の間で囁かれ続けるのですよ」


「本当……ですか?」


ミナが身を乗り出す。


「ええ。昔の人はね、当時の科学では説明のできない自然現象や、

心の中の不思議な動きに、物語という名前を付けて保存したのです」


店主はユキの手から本を受け取り、元の棚へと優しく戻す。


「だからその狐火も、もしかしたら当時の人々が見た、

何か別の……とても美しい現象だったのかもしれませんね」


ユキは、その店主の言葉がなぜか深く胸に残り、

しばらくその本が置かれた棚を見つめていた。


古本屋をあとにする頃には、濃紺の夜空の特等席に、

息を呑むほど美しい丸い満月が浮かび上がり始めていた。


そのまま二人は、静かな夜風に導かれるようにして、

午前三時のあの小さな公園へと向かう。


公園の冷たい街灯の下。いつもの木製ベンチには、

白いパーカーのフードを頭まで被ったモモが、すでに静かに座っていた。


「……ユキさん、こんばんは」


夜風にかき消されそうな、微睡むような眠そうな声。


「こんばんは、モモ。今夜は私の友達も一緒なんです」


ユキが隣のミナを示すと、

ミナは持ち前の明るさで、元気よく右手を挙げた。


「こんばんは! 私はミナ、猫の獣人だよ!

ユキの隣の部屋に住んでるの。よろしくね!」


突然の賑やかな自己紹介に、モモは少し驚いたように大きな瞳を瞬かせ、

それからパーカーの袖から細い手をそっと出して、小さく会釈をした。


「あ……はじめまして。私は、モモ……です。

ユキさんの働くコンビニの、常連、です。よろしく、お願いします……」


少し緊張しながらも、一生懸命に自分の名前と特徴を伝えるモモの姿を見て、

ユキの胸の奥が温かくなる。


「モモちゃん、よろしくね!

今日はね、みんなで『狐火探し』をしに来たんだよ!」


ミナが興奮気味に拳を握りしめると、

モモは不思議そうに首を傾げた。


「きつねび……?」


「そう! 真夜中に青く光る、すっごく綺麗な都市伝説の炎!」


「へえ……ちょっと、綺麗そう」


モモも、微かに興味を惹かれたように、潤んだ瞳を輝かせた。


三人は、いつもより少しだけ賑やかな足取りで、公園の奥へと歩き出す。

街灯の光が届かない、夜の影が濃く落ちた遊歩道。

周囲の木々がザワザワと揺れる音と、

草むらからの虫の声だけが響く、どこまでも静かな夜。


その時、先頭を歩いていたミナが、ピタッと足を止めた。


「――あ」


「どうしました、ミナ」


「……あそこ、見て」


ミナが息を潜め、人差し指で指し示した先。

うっそうと茂る林の、さらに深い奥。

暗闇の境界線で、ほんの一瞬だけ――ゆらり、と。


まるで幻灯機のように、小さな、淡い青白さを帯びた光が、

生き物のように妖しく揺れたように見えた。


モモも思わず、小さく目を見開く。


「……いま、光った……?」


ユキも全神経をその視線へと集中させる。

確かに光った。


この世のものとは思えないほど静かで、どこか儚い光。

それは一瞬だけ闇の中で踊るように揺らめき、

そして、吸い込まれるように消えた。


「やったぁ! 本物の狐火だ! 見に行こう!」


ミナが嬉しそうに林へ飛び出しそうになるのを、

ユキは慌ててその細い腕を掴んで制した。


「待ってください、ミナ。暗がりは足元が見えなくて危ないです」


「――全く、こんな夜更けに揃いも揃って、何を騒いでいるんだ」


その時、林の影から、聞き慣れた低く落ち着いた声が響いた。

ゆっくりと姿を現したのは、アパートの隣人である無口な老人だった。

その腕の中には、すっかり安心しきって丸くなっている子猫のハルが抱かれている。


「じいさん!」

ミナが駆け寄る。


「いまね、あそこの林の奥で、本物の狐火を見たんだよ!」


老人は少しだけ眉をひそめて考え込み、

それから静かに暗い林の奥へと視線を向けた。


「ああ……あれのことか」


「えっ、知ってるの!?」


「昔からこの街にある、ただの噂だ」


老人は、腕の中のハルの柔らかな背中を大きな手で優しく撫でながら、

静かに言葉を続ける。


「私がまだ、今のミナくらいの子どもの頃にも、

悪ガキどもが今の時間帯に『狐火が出た』とよく大騒ぎしていたものさ」


「じゃあ、本当にあるの!?」


ミナがさらに身を乗り出すと、老人はほんの少しだけ、

口元に意地の悪い笑みを浮かべた。


「さあな。私には、ただの自然現象にしか見えんがね」


その時だった。


老人の腕の中で微睡んでいたハルが、

突然、ピンと耳を立てて林の方へと顔を向け、可愛らしく一声鳴いた。


「にゃう」


まるで、何かを見つけたよ、と教えてくれるかのように。

ユキはハルの視線に合わせるように、全神経を集中させて耳を澄ませた。


夜風の音。

虫たちの合唱。

木の葉の擦れ合うささやき。


そして


その静寂の隙間を縫うようにして聞こえてきた、

微かな、小さな羽音。


次の瞬間、林の茂みの奥から、一匹、また一匹と、

小さな光の粒がゆっくりと、宙を舞うようにして飛び立ってきた。


それは青白い微弱な光を放ちながら、

夜の冷たい闇の中を、まるで呼吸をするように優しく、

ゆっくりと漂っていく。


「……あ。蛍……」


モモが、消え入りそうな声でぽつりと呟いた。

ミナは、期待していたオカルト的な『狐火』ではなかったことに、

少しだけ残念そうに肩を落とす。


「なーんだ……蛍だったんだ。狐火じゃなかったね」


「でも……」


ユキは、自分の狐耳のすぐ傍をゆっくりと通り抜けていく、

儚い蛍の光を見つめながら、心の底から静かに言った。


「……すっごく、綺麗ですね」


その言葉をきっかけに、そこにある誰もが、それ以上言葉を発しなくなった。

ただ、どこまでも優しい、八月の終わりの静かな夜だけがそこにあった。


数匹の蛍たちは、夏の終わりの夜風にその小さな身体を預け、

ゆっくりと、満月の浮かぶ夜空の彼方へと溶け込むようにして消えていく。


その光の寿命は、本当に一瞬の、短いものだった。


けれど、だからこそ、その一瞬の輝きは、

何ものにも代えがたいほどに美しかった。


帰り道。


再びあの古本屋の前を通りかかると、真夜中だというのに、

店の奥の灯りはまだぽつんと点いたままだった。


ふと窓越しに目をやると、カウンターの奥にいた店主が、

こちらの気配に気づいて、嬉しそうに小さく会釈をするのが見えた。

ユキも、隣のミナと一緒に、感謝を込めて軽く頭を下げる。


店主は満足そうに少しだけ笑うと、パチン、と店内の奥の灯りを一つ消し、

静かに夜の眠りへと就く準備を始めた。


その優しくて、どこか幻想的な光景を横目で見ながら、

ユキは胸の中で深く思っていた。


都市伝説や昔話というものは、

それが科学的に「本当」か「嘘」か、

なんてことは、きっと大して重要ではないのだ。


こうして、世界が深く眠りについた真夜中に、

誰かが不思議な物語をきっかけにして夜空を見上げ、

誰かと全く同じ景色を共有し、

心から「綺麗だね」「不思議だね」と思える、


その穏やかな時間そのものこそが――その不器用な物語を、

何百年もの間、人々の心の中で生き続けさせている理由なのかもしれない、と。


結局、ミナが期待していたような、

本物の『狐火』は見つからなかった。


けれど。


隣で楽しそうに跳ねる、

天真爛漫な猫獣人のミナの笑顔も。


眠れない長い夜の果てに、ようやく穏やかな横顔を見せてくれた

桃色の少女、モモの存在も。


ぶっきらぼうだけど、誰よりも優しい眼差しで若者たちを見守る、

無口な老人の姿も。


夜の街の迷い子たちを優しく照らし出す、

あの古本屋の静かな灯りも。


そして、老人の腕の中で、何一つ疑うことなく安心して眠りについている、

小さなハルの温もりも。


そのどれもが、ユキにとっては、

この深く冷たい夜の世界をそっと温かく照らし出してくれる、

かけがえのない「小さな灯火」そのものだった。


そしてその夜、この静かな街の片隅には、また一つ、

誰も知らない新しい都市伝説が、密かに、

けれど確かに生まれていたのかもしれない。


『真夜中の公園で、もしも狐火を探そうとするとね

――代わりに、自分が心から大切だと思える誰かと、

一緒に笑い合える優しい夜に出会えるんだよ』


そんな都合のいい、優しい噂なら。

ほんの少しだけ、この夜の街の片隅で、

信じてみてもいいのかもしれない。


涼しくなった八月の夜風が、新しく紡がれた物語を運ぶように、

四人と一匹の背中を、どこまでも穏やかに優しく包み込んでいくのだった。

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