↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
PR
34/34

寝やすい布団

八月も終わりに近づき、昼間には相変わらずぎらぎらとした

強い日差しが照りつけているものの、

朝晩の冷え込む時間帯には少しだけ涼しい風が吹くようになり、

季節はゆっくりと、誰にも気付かれないくらい静かな速さで、

夏から秋へとその色彩を変え始めていた。


その日の深夜。


コンビニでの夜勤のシフトを終えたユキは、

いつものように午前三時の静まり返った公園へと向かっていた。

街は、まるで息を潜めているかのように静かだった。


かすかに冷たさを孕んだ夜風に、

草むらから響く秋の虫の鳴き声だけが優しく混じり合い、

昼間には絶え間なく響いていた車の走行音も、

今は遠くの幹線道路を走る数台の影だけになっている。


公園へ着くと、いつもの木製ベンチには、

すでに白いパーカーのフードを深く被ったモモが、

小さく丸くなって座っていた。


彼女はパーカーの袖で口元を隠しながら、

ふにゃあ、と力なく小さく欠伸をしている。


「……こんばんは、モモ」


ユキが歩み寄りながら、静かに声を掛ける。


「あ、ユキさん……こんばんは……」


返ってきた声は、いつもよりさらにか細く、

今にも夜風に消されてしまいそうなほど小さかった。


「今日も……あまり眠れていないんですか?」


ユキの問いかけに、モモは困ったように、

少しだけ苦笑を浮かべて頷いた。


「うん。昨日もね、一昨日も……時計を見たら、

二時間くらいしか、眠れなくて」


「二時間……それは……」


ユキは、思わず言葉を失ってしまった。

以前から夜が苦手で眠れないとは聞いていたし、

自分たちの深夜の逢瀬もそれがきっかけだったけれど、

ここまで深刻に睡眠不足が続いているとは思わなかったのだ。


モモの目の下には、うっすらと消えない隈の影が落ちている。


モモは、膝を抱えたまま、ぽつりと夜空を見上げた。


「なんかね……眠ろうとしてベッドに入るとね、

頭の中で『早く眠らなきゃ、明日がつらい』って、そればかり考えちゃうの」


「……」


「そうすると、心臓がトクトクして……もっと、

目が冴えて、眠れなくなるの」


その気持ちは、ユキにも少しだけ痛いほど分かった。

考えないようにしよう、と強く思えば思うほど、

脳は裏腹にそのことばかりを考えてしまう。


眠ろうと焦るほど、神経が昂って眠りから遠ざかっていく。

それは、夜しか生きられない不器用な者にとって、

あまりにも残酷な悪循環だった。


その時だった。


「――おーい! ユキー! モモちゃーん!」


静寂に包まれていたはずの公園の入り口から、

驚くほど元気な声が響き渡った。


黒い猫耳を元気いっぱいに揺らしながら、コンビニのポリ袋を片手に、

夜なのに昼間と全く変わらないトップギアの勢いで駆け寄ってきたのは、ミナだった。


「やっぱりここにいた! 勘が当たっちゃった!」


「こんばんは、ミナ。こんな時間にどうしたんですか?」


「こんばんは」


モモも、ミナの突然の登場に驚きながらも、

小さくペコリと頭を下げる。


ミナは、二人の少し暗い顔を交互に見比べると、

ピンと直立させた猫耳を微かに動かし、すぐに何かを察したようだった。


「あれ? なんだか二人とも、お通夜みたいな顔してる。どうしたの?」


ユキは、モモに視線で許可を取ってから、

彼女が最近ずっと眠れずに苦しんでいることを簡単に説明した。

何日もまともに眠れていないこと、焦るほど泥沼にはまっていくこと。


それを聞いたミナは、ふむ、と腕を組み、

何度も大きくオーバーに頷いた。


「なるほどねぇ、睡眠の呪縛ってやつか」


それは、ミナが何か新しい悪戯を思いついた時と同じ、

特徴的な顔だった。


「よし! だったら、寝る環境をガラッと変えちゃおう!」


「え……?」


モモが不思議そうに、

丸い桃色の耳をパタパタと傾けて首を傾げる。


「だってさ、いくら頭で考えないようにしても、

体が『ここは眠れない場所だ』って覚えちゃってるのかもじゃん!

布団とか枕が、モモちゃんの体に全然合ってないんだよ、きっと!」


「……考えたことも、なかったです」


「よし、決まり! 明日、モモちゃんの部屋に突撃して、お布団チェックね!」


いつものように、嵐のようなスピードでの即決だった。

けれど、その強引さが、今のモモの沈んだ心を少しだけ救い上げているようにも見えた。


翌日の夕方。


ユキとミナの二人は、

約束通り商店街の近くにあるモモの小さなアパートを訪れていた。


初めて入るモモの部屋は、

彼女の人柄を表すようにとても綺麗に整理整頓されていた。


必要最低限のシンプルな家具だけが整然と並び、

小さな木製の机の上には、静かに読みかけの文庫本が一冊、

丁寧に栞を挟まれて置かれている。


「これ……私が、いつも使ってるお布団、です」


モモが少し恥ずかしそうに指差した先には、

部屋の隅に敷かれた、驚くほど薄い一枚の敷布団があった。

ミナが真っ先に近寄り、人差し指でぐっと布団を押してみる。


「……うわ、硬っ!! 薄っ!!」


「そ、そんなに……?」


「これ、お布団っていうか、もうちょっと分厚い絨毯だよ!

下のフローリングの床の方がまだ柔らかいんじゃない!?」


「そこまでは、悪くないと、思うけど……」


モモは困ったように眉を下げて苦笑する。


ユキも傍にしゃがみ込み、その布団にそっと触れてみた。

確かに、長年使い込まれて中綿がすっかり潰れてしまっているのか、かなり硬い。


これでは体重が分散されず、

長時間横になっているだけで腰や肩に大きな負担が掛かってしまうだろう。


「枕はどれ?」


ミナが、布団の頭側に置かれていた小さな枕を持ち上げる。


「うわ、低っ! しかもペッタンコ!」


「……昔から、ずっとこれを使ってたから」


「これじゃ頭が後ろに下がって、首がすっごく痛くならない?」


「……なる。朝起きると、いっつも肩がガチガチ」


「駄目じゃん!! 原因、完全にこれだよ!」


ミナの勢いのいいツッコミに、

モモはパーカーの袖に顔を半分埋めながら、照れ笑いを浮かべた。


「……あんまり、こういうの、気にしたことなかったから」


すると、ミナはこれまでにないくらい真剣な、

キリッとした表情になってモモの肩を掴んだ。


「モモちゃん、いい? 睡眠は人生の基本!

睡眠がハッピーなら、人生の半分は超ハッピーなんだよ!」


普段は能天気なミナの言葉だったが、

不思議とそこには妙な説得力があった。


「よし! 善は急げ! 今からみんなで、新しいお布団を買いに行こう!」


「えっ、あ、今から……?」


「うん、行こう!」


結局、ミナの勢いに押し切られる形で、

三人は街外れにある二十四時間営業の大型ホームセンターへと向かった。


広大な寝具売り場には、天井の灯りに照らされて、

無数の布団や枕がずらりと並んでいる。


柔らかさを売りにしたもの。

寝返りのしやすさを追求した硬めのもの。

低反発、高反発、通気性抜群のジェル素材――。


あまりにも種類が多すぎて、モモは完全に圧倒され、

売り場の真ん中で困り果てて立ち尽くしてしまった。


「……違いが、全然分からない。どれが良いのか……」


「正直、私もどれを選べばいいのか分かりませんね」


ユキも、自分の尻尾を少し困ったように揺らしながら正直に告白する。


すると、ミナは周囲の目を気にする様子もなく、

迷うことなく展示用のサンプルベッドに置かれていた、

高反発の大きな枕へゴロンと頭を乗せた。


「んあー! これ、すっごい気持ちいい! 頭がふわふわ浮いてるみたい!」


通りかかった店員が、

少し驚いたような顔をしてこちらを見つめる。


ユキは慌てて耳を寝かせ、何度も頭を下げた。


「あ、すみません……!」


「大丈夫だよユキ! ほら、ここに『ご自由にお試しください』ってポップが書いてあるもん。 試さなきゃ分かんないよ!」


確かに、大きな文字でそう書いてあった。

間違ってはいない。

ミナのこういう物怖じしない行動力は、時に本当に頼りになる。


「ほら、モモちゃんも! 恥ずかしがってないで、一回横になってみなよ!」


「え、あ……うん」


モモは、周囲を恐る恐る見回しながら、

意を決してミナの隣の展示用ベッドへとゆっくり横になり、

自分の首の高さに合いそうな枕に頭を乗せた。


数秒の、静寂。


呼吸を整えるようにして目を閉じていたモモの口から、

ふっと、小さく、張り詰めていた糸が切れたような声が漏れた。


「あ……」


「どうですか、モモ?」


ユキが心配そうに覗き込んで尋ねる。


「……すごく、楽。首の後ろが、変に突っ張らない。

……体を、お布団がちゃんと支えてくれてる感じがする」


言葉自体は、いつも通りの静かなトーンだった。


だが、その表情は、ここ数日間の強張ったものとは明らかに違い、

まるで陽だまりに溶ける雪のように、少しだけ柔らかく解きほぐされていた。


結局、モモは自分の首のカーブにぴったりと合う高さの低反発枕と、

今の薄い布団の上に重ねて敷くだけで劇的に寝心地が変わるという、

少し厚めの高反発敷きパッドを購入することにした。


モモの部屋へ戻ると、

三人でさっそく新しい寝具を広げ、布団を整えた。

ミナはなぜか自分の部屋の模様替えをするとき以上に張り切って、

敷きパッドのゴムを布団にセットしていた。


「よーし、これで、新生・モモちゃん安眠ベッドの完成!!」


腰に両手を当てて胸を張るミナの顔は、

まるで自分たちだけの秘密基地を立派に作り上げた子供のように、

満足感に満ちあふれていた。


モモは、そのふかふかになった自分の布団を見つめ、

それから二人に向かって、静かに、けれど心からの笑みを浮かべた。


「……二人とも、本当にありがとう」


そのささやかで、けれど温かい笑顔を見るだけで、

ユキの胸の中にあった不安は綺麗に消え去り、深い安心感が広がっていく。


「今夜、さっそく試してみてくださいね」


「うん!」


ミナが力強く親指を立ててみせる。


「絶対、今夜はの〇太くん並みに一瞬で爆睡できるから!」


「ふふ、それはまだ分かりませんよ、ミナ」


ユキが苦笑すると、ミナはぷーっと不満そうに言った。


「もう、ユキは現実主義なんだから!

睡眠はね、気持ちの問題なの!

『あのお布団は気持ちいいぞー』って思いながら寝れば、

絶対に眠れる一歩になるの!」


「そういうものですかね」


「そういうもの!」


夜もすっかり更け、心地よい疲労感と共に、

ユキとミナは「おやすみなさい」と告げてモモの部屋をあとにした。


翌日の深夜。


ユキがいつものようにコンビニのカウンターで働いていると、

深夜二時を回った頃、自動ドアが静かに開いた。


店内に足を踏み入れてきたのは、白いパーカーを着たモモだった。

彼女はいつものように、500mlのペットボトルの水を一本だけ手に取り、

少しはにかむような足取りでレジへとやってくる。


しかし、今日の彼女は、昨日までとは明らかに雰囲気が違っていた。


「……ユキさん、こんばんは」


その挨拶の声が、いつもより、ほんの少しだけ透き通るように明るかった。


「こんばんは、モモ」


ユキは、彼女の顔を見て自然と目元を和らげ、満面の笑顔になった。

疲れ果てていたその瞳に、確かな生気が戻っている。


「昨日は……どうでしたか?」


モモは、レジカウンターの下で自分のパーカーの袖を少し弄りながら、

恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑った。


「……四時間、眠れたの」


「本当ですか!?」


ユキは、自分のことのように声を弾ませた。


「うん。……夜中に一回、途中で起きちゃったんだけどね。

でも、そのあとまた、すぐにウトウトできて……朝起きたとき、

いつもより、身体がすごく軽かったの」


その言葉を聞いた瞬間、ユキの胸の奥に、

じわがゆいほどの安堵感が広がっていった。


「本当によかった……。少しでも楽になって、本当に嬉しいです」


モモは代金を支払い、水を受け取ると、店を出る直前に、

もう一度だけ振り返ってユキの目を真っ直ぐに見つめた。


「……ありがとう、ユキさん」


「いいえ、私だけじゃありませんよ」


ユキは優しく微笑みながら、首を振った。


「あの素敵な枕を見つけてくれたのはミナさんですから。

ぜひ、ミナさんにもその四時間の報告をしてあげてください。

きっと飛び跳ねて喜びますから」


「うん、明日の夕方、ちゃんと言うね」


モモは今度ははっきりと、小さく手を振って、

静かな夜の街へと軽やかな足取りで歩いていった。


午前三時。


一回目の休憩時間になり、

ユキはいつものように公園のベンチへと腰掛けた。

夜風は、昨日よりもまた一段と冷たさを増しているように感じられた。

けれど、その冷気が少しも嫌ではなかった。


ふと隣のベンチを見ると、そこにはいつの間にか、

温かい缶コーヒーを両手で包み込むようにして飲んでいるミナの姿があった。


「――ねえ、ユキ。モモちゃんから聞いた?」


「はい、聞きましたよ」


「四時間だって! 四時間!!」


ミナは、缶コーヒーを持ったままベンチから飛び上がらんばかりの勢いで、

まるで自分の手柄や自分のことのように顔をくしゃくしゃにして喜んでいる。


その打算のない純粋な優しさが、ユキにはたまらなく愛おしかった。


「ええ。途中で一度目が覚めたそうですが、それでも大きな前進ですね。

少しずつ、眠ることに慣れていければいいなと思います」


「うんうん! 少しずつでいいんだよ!」


ミナは満足そうに頷くと、再びベンチに深く腰掛け、

丸い月が浮かぶ夜空を見上げた。


「……でもさ、人間も獣人も関係なく、

やっぱり眠るって、時々すごく難しくなっちゃうんだね」


「そうですね。心が繊細な人ほど、

夜の静けさに飲み込まれてしまうのかもしれません」


「ふーん……。私は、どこでも、どんなにうるさくても三秒で眠れるからさ。

あんまり分かってあげられなかったけど、

お布団変えるだけでちょっとでも楽になるなら、いくらでも付き合うよ!」


「ふふ、ミナさんがどこでも眠れるのは、私もよく知っていますよ。

以前も私の部屋の床でそのまま寝ていましたし」


「あはは! あれはユキの部屋が居心地良すぎるのが悪いの!」


二人は、冷え始めた公園の中で、

顔を見合わせて声を上げて笑った。


草むらからの虫の声が、二人の笑い声に寄り添うように静かに響き、

満月がそんな彼女たちを優しく、どこまでも均等に照らし出している。


たった一枚の敷きパッドで、

人生が劇的に変わるわけではない。


たった一つの枕を取り替えたからといって、

心の中にある夜への恐怖や悩みが、すべて綺麗に消えてなくなるわけでもない。


それでも――。


誰かが自分のために「どうすれば少しでも眠れるようになるだろう」と、

真剣に頭を悩ませ、一緒に歩いてくれたその「時間」そのものが。


どんな高価な寝具よりも、どんな睡眠薬よりも、

眠れない少女の心を一番深いところで安心させてくれたのだ。


その夜、モモはきっと、昨日よりもまた少しだけ、

穏やかで長い眠りにつくことができているだろう。


ユキは、隣で缶コーヒーを美味しそうにすするミナの横顔を見つめながら、

静かに思うのだった。


傷ついた誰かを救う方法というのは、

何も特別なことばかりではない。


誰の耳にも届くような温かい聖人の言葉や、

世界を変えるような大きな勇気だけではなく


――ほんの一枚の布団を敷き直してあげるような、

一つの枕を一緒に選んであげるような、

そんな何気ない、ささやかな思いやりこそが、

誰かの明日を静かに支える、一番大切な優しさなのだと。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。