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ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
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32/34

優しい嘘

八月に入って数日が過ぎると、

容赦なく照りつける日差しはますますその凶暴さを増し、

昼間の街はただ歩いているだけで

肌に汗がじっとりとにじむほどの酷暑に包まれていた。


だが、それでも夕方近くになれば、

どこからか救いのようなわずかに涼しい風が吹き始め、

アパートの年季の入った薄暗い廊下にも、

微かに秋の気配を孕んだような、穏やかで優しい空気が流れる。


ユキは、そんな一日の終わりの気配を、以前と変わらず深く愛していた。


その日は、ユキの夜勤のシフトも完全に休みだった。


心地よい静寂の中で昼過ぎまで泥のように眠り、

簡単に自室の片付けを済ませたあと、

いつものように隣の老人の部屋を訪ねようと廊下へ出る。


しかし、その使い込まれた木製の扉の前まで来ると、

中から何やら聞き慣れた、嵐のように賑やかな声が漏れ聞こえてきた。


「あーっ! ハル! そこはだめだってばー!」


ミナの声だった。


続いて、必死に自己主張をするような、

高くて小さな愛らしい鳴き声が響く。


「にゃあ!」


「おい、こら。そこから降りろ。本が傷むだろう」


それに重なる、老人の呆れ果てた、けれどどこか落ち着いた低い声。

ユキは思わず口元に温かい笑みを浮かべながら、そっと扉を押し開けた。


「失礼します……」


部屋の中に入ると、案の定、生後数ヶ月の子猫であるハルが

背の高い本棚の最上段にまで器用に登り詰めており、

その下でミナが両手をいっぱいに伸ばして必死に呼びかけていた。


老人はいつもの特等席である椅子に腰掛けたまま、

やれやれと頭を振ってその騒動を見守っている。


「こんにちは、皆さん」


ユキが声を掛けると、本棚の上のハルは嬉しそうに、

短い尻尾をピンと立てて「にゃ!」と一声高く鳴いた。


そして、ミナの手をすり抜けるようにして、

迷いなくユキの胸元めがけてまっすぐに飛び降りてくる。


「わっ……危ないですよ、ハル」


ユキは慣れた手つきでその小さな身体を優しく受け止め、胸に抱き上げた。

手のひらから伝わるハルの柔らかな毛並みと

温かい体温を確かめるように、そっと撫でてやる。


ミナは額ににじんだ汗をシャツの袖で拭いながら、

大きく息を吐いて笑った。


「あはは、助かったぁ……! ユキ、ありがとう。今日のハル、

なんだかすごく元気でさ、さっきから全然言うこと聞いてくれないんだよ」


「まだほんの赤ん坊だからな」


老人が、机の上の湯呑みに視線を落としながら静かに言った。


「こいつにとっては、この狭い部屋のすべてが毎日、

運動会の会場みたいなもんだ」


そのぶっきらぼうな一言に、

部屋に集まった三人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。


いつもの、張り詰めた世界の毒気を抜いてくれるような、

穏やかで温かい空気が部屋を満たしていく。


しばらくすると、

ミナは自分の家であるかのように自然な動作で冷蔵庫を開け、

大きな冷水筒から冷たい麦茶を三人分のガラスコップへトトト、と注ぎ始めた。


老人は一瞬、眉をひそめてその様子を見たものの、

もう今さら「勝手にするな」と注意する気も起きないらしい。

すっかりこの騒がしい猫娘のペースに慣らされてしまったのだろう。


「そういえばさー」


ミナが、自分の分の麦茶をごくごくと喉を鳴らして

飲み干しながら、何気ない調子で尋ねた。


「じいさんって、ここには一人で住んでるけど、

家族の人とかはいないの?」


その問いが発せられた瞬間、

部屋の空気が、ふっと密度を増したように静まり返った。

ユキの膝の上で、ハルだけが

状況を知らずに気持ち良さそうに尻尾を揺らしている。


老人は、手元で弄っていた古い文庫本を閉じる手を、

ほんの一瞬だけ止めた。


「……いない」


短く、乾いた返事だった。


「奥さんは? 昔は一緒に住んでたの?」


「……ずいぶん昔に、病気で亡くした」


ミナは、自分の質問が老人の深い傷に触れてしまったことを察し、

「あ……ごめん」と小さく丸い猫耳を寝かせて頭を下げた。


老人は、そんなミナの様子に、小さく首を横に振ってみせる。


「気にするな。もう、大昔のことだ」


言葉はそれだけだった。


だが、その短すぎる返事の奥底に、

普段の頑固な態度からは想像もつかないような、

深く、消えることのない「寂しさ」の色彩が混じっているのを、

鋭い耳を持つユキは見逃さなかった。


夕方になり、ミナは「今日の夕飯の買い物に行ってくる!」と言って、

弾むような足取りで部屋を出ていった。


遊び疲れたハルは、差し込む西日に照らされた窓辺の座布団の上で、

丸くなって小さな寝息を立てている。


部屋には、老人とユキの二人だけが残された。

静かで、どこか厳かな時間が流れていく。


ユキは、窓際の小さな棚の上に置かれた、

年季の入った木製の写真立てにそっと目を留めた。


以前にも、一度だけ見せてもらったことがあった。


そこには、まだ白髪の混じる前の若い頃の老人と、

和服を着た一人の美しい女性が、

並んで少し照れくさそうに笑っている白黒の写真が収められている。


「……奥様、ですか」


ユキの静かな問いかけに、

老人はゆっくりと写真へ目を向け、愛おしむように小さく頷いた。


「そうだ。あいつが、私の妻だ」


「とても優しそうで、綺麗な方ですね」


「……ああ」


老人は静かに笑った。

それは、ユキがこれまで見たこともないような、

本当に優しく、小さな笑みだった。


「よく笑う、騒がしい人だったよ。今のミナを見てると、

時々あいつの若い頃を思い出して、頭が痛くなる」


老人の声は、まるで遠い過去の記憶の海を泳いでいるかのように、

どこか遠くを見つめていた。


「昔な……あいつが生きていた頃、

この殺風景な部屋には、信じられないくらい花が多かったんだ」


老人は、今は何もない窓辺の空間を見つめながら、

ぽつりぽつりと話し始める。


ユキはハルを刺激しないよう、黙ってその言葉に耳を傾けていた。


「ベランダの小さな鉢植えから、部屋の隅の小さな一輪挿しまで、

全部あいつが毎日、嬉しそうに世話をして育てていた。

……当時の私は、毎日朝から晩まで仕事に追われていてね、

植物の種類や名前なんて、これっぽっちも興味がなかったんだ。


だが、あいつは毎日、私が疲れて帰ってくると

『ねえ、今日のこの子、すごく綺麗でしょう?』

と、わざわざ顔の前に持ってきて見せてくるんだよ」


老人は、当時の自分の不器用さを思い出すように、

自嘲気味に苦笑する。


「だから私は、毎日あいつの顔を見るたびに『ああ、綺麗だな』と、

お決まりの返事をするのが日課になっていた」


「本当に、その花のことを『綺麗だ』と、心から思っていたんですか?」


ユキは何気なく、けれどその優しい光景の真意を知りたくて尋ねた。

老人は、視線を窓の外へと向けた。


そこには、街並みを真っ赤に、

そして少し切なく染め上げ始めていた見事な夕焼けが広がっている。


「――半分は、嘘だ」


ユキは、驚きに琥珀色の瞳を少しだけ丸くした。

老人は静かな声を続ける。


「あの頃の私は、花を愛でるよりも、

明日の仕事の数字を出すことばかり考えていた。

疲れ果てて深夜に帰ってきて、部屋の片隅に咲いている花なんて、

じっくりと見る精神的な余裕なんて、あるはずがなかったんだよ」


少しだけ、心地の悪い、切ない間が空いた。


「でもな」


老人は、写真の中の妻へと視線を戻した。


「あいつは、私がどんなに不機嫌な顔をして帰ってきても、

『今日も綺麗だった?』って、毎日毎日、飽きもせずに聞いてくるんだ。

……だから、あいつの嬉しそうな顔を曇らせたくなくて、

私は嘘だと分かっていながらも『ああ、今日も綺麗だったよ』と言い続けていたんだ」


「……それは、とても優しい嘘ですね」


ユキがそっと呟くと、老人は寂しそうに首を横に振った。


「違うよ、ユキ」


彼は、絞り出すように笑った。


「本当に優しい人間なら……仕事の言い訳なんてせずに、

スーツを脱いで、あいつの隣に座って、一緒にその花を見てやればよかったんだ。

私はただ、あいつの質問に適当な返事をして、

自分の疲れを優先させていただけだったんだよ」


部屋が、再び深い静寂に包まれる。


窓辺で眠っていたハルが、ふにゃあ……と小さく寝返りを打ち、

微かな鳴き声を漏らした。


老人はその様子を見つめながら、言葉を続ける。


「あいつが亡くなって、この部屋からすべての花が枯れて、

何もなくなってから……ようやく気付いたんだ」


「……」


「あいつは、私に『花』を見てほしかったんじゃない」


「あ……」


「自分の大好きな人と、『綺麗だね』っていうその瞬間の気持ちを、

ただ分かち合いたかっただけだったんだ。

あいつは花を通して、私に、自分自身を見てほしかったんだよ」


ユキは、それ以上何も言えなくなってしまった。


その一言だけで、老人がどれほどの年月、

その「気付くのが遅すぎた後悔」を胸に抱えて、

この部屋で一人きりで生きてきたのかが、痛いほど伝わってきたからだ。


奥さんは、ただ花が好きだったわけじゃない。


大好きな夫が、仕事の重圧から解放されて、

ほんの一瞬でも心が穏やかになる瞬間を、

一緒に共有したかっただけなのだ。


老人はそのことに、彼女を失ってから、

何年も経ってからようやく気付いた。


「だからな、今でも時々、仕事の帰りに街の花屋の前を通りかかると

……つい、足を止めて『ああ、綺麗だな』って、心から思うんだよ」


老人は、小さく、本当に嬉しそうに笑った。


「奥様が、老人さんの心に、その花の美しさを残してくれたんですね」


「……ああ。あいつの勝ちだよ。今になって、

本当に綺麗だと思わされるんだからな」


その時だった。

ガララッ!と、アパートの建付けの悪い扉が、

遠慮のない勢いで乱暴に開け放たれた。


「ただいまー! 二人とも、お待たせ!」


ミナだった。


両手いっぱいにパンパンに膨らんだ買い物袋を抱え、

文字通り嵐のように部屋へと戻ってきた。


「ほらほら! 商店街のスーパーで、

すっごく美味しそうなアイスが安くなってたから、みんなの分、買ってきたよ!」


「……ここは、お前の家ではないと言っているだろう」


老人が、いつもの呆れ顔に戻って、わざとらしくため息を吐く。


「もー、老人さんは細かいこと気にしすぎ! ほら、ユキも早く食べよ!」


二人の、まるで本当の祖父と孫のような息の合ったやり取りを見て、

ユキは堪えきれずにクスリと声を立てて笑ってしまった。

その気配にハルもパチリと目を覚まし、アイスの袋の音に惹かれるようにして、

ミナの足元へトコトコと駆け寄っていく。


「にゃあ!」


「あ、ハル! ダメだよ、ハルの分のチョコチップアイスはありませーん!」


「にゃ……あ……」


露骨に耳をペタッと寝かせてショックを受けるハルの様子を見て、

部屋の三人は、今度こそ大きな声を出して笑い合った。


賑やかな笑い声が、古い部屋の隅々まで、温かい光のように広がっていく。

その輪の中心で、老人もまた、写真の中の妻に見せるような、

本当に小さな優しい笑みを浮かべていた。


その穏やかな横顔を見つめながら、

ユキは胸の奥で、静かに思考を巡らせていた。


この世界に生きる人は、

誰もが何かしらの「後悔」をその背中に抱えて生きている。


あの時、言えなかった大切な言葉。

最後まで、正しく伝えることのできなかった本当の気持ち。

失ってからようやく気がついた、相手の本当の想い。


老人がついていたのは、確かに『花が綺麗だ』という、

その場を凌ぐための半分嘘の言葉だったのかもしれない。


それでも、その嘘の根底にあったのは、間違いなく


「妻の笑顔を守りたい」


という、不器用な愛情そのものだったのだ。


そして、その過去の優しい嘘は、長い年月を経て、

今では老人の心の中で本物の「真実」へと変わっている。


街角で花を見るたびに、彼は今でも、

あの写真の中で笑う大切な人の温もりを、

鮮明に思い出すことができるのだから。


窓の外の夕焼けは、ゆっくりと、

濃紺の優しい夜の帳へと移り変わり始めていた。

開け放たれた窓から吹き込む涼しい夜風が、

部屋の中の熱気を浚うように、優しく通り抜けていく。


ハルはいつの間にかミナの膝の上で再び丸くなって喉を鳴らし、

老人は愛おしそうに、けれどもう寂しさはなく写真立てをじっと見つめている。


ユキは、そんな奇跡のように穏やかな時間を、

自らの鋭い記憶の底へと深く刻み込むようにして、

そっと、世界で一番優しい微笑みを浮かべるのだった。

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