犬系警察官
八月。
梅雨が明けてからというもの、
街には真夏の暴力的な日差しが容赦なく降り注ぎ、
日中の最高気温が三十五度を超える猛暑日も決して珍しくはなくなっていた。
けれど、それでも夜の帳が降りれば、
アスファルトの熱を浚うようにわずかに涼しい風が吹き始める。
昼間の狂気じみた喧騒が少しずつ
穏やかな静けさへと移り変わっていくその時間を、
ユキは以前と何一つ変わらず、心から愛し続けていた。
その日の夜勤も、これといった特別な出来事もなく、淡々と進んでいた。
時計の針は午後十一時を指している。
コンビニを訪れる客は、深夜残業を終えたクタクタの会社員や、
夜遊び帰りの学生が数人ほど。
広すぎる店内には、大型冷蔵庫の低い駆動音と、
スピーカーから流れる店内放送の穏やかなインストゥルメンタルだけが、
静かに鼓膜へと届いていた。
誰もいないレジの前へ、足音もなく一人の客が近づいてくる。
大きめの白いパーカー。
今にも閉じそうな、酷く眠たそうな瞳。
そして、夜の光に柔らかく浮かび上がる、淡い桃色の髪。
「……ユキさん、こんばんは」
モモだった。
「こんばんは、モモ」
ユキは作業していた手を止め、
目元を和らげて微笑みながら返事をする。
モモはいつものように、500mlのペットボトルの水と、
小さな菓子パンを一つだけカウンターへ置き、静かに会計を済ませる。
「今日も……やっぱり、眠れないんですか」
ユキがそっと尋ねると、モモはパーカーの袖から覗く指先で、
少しだけ困ったように頷いた。
「うん、今日はね……眠る前に、ちょっとだけ頭を冷やしたくて散歩」
「そうですか。あまり無理はしないでくださいね」
「うん。……三時になったら、いつもの公園に行くね」
「はい。私も休憩時間になったら向かいます」
それは、ほんの十秒にも満たない短い約束だった。
けれど、夜しか生きられない不器用な二人にとっては、
それだけで十分に心を満たしてくれる約束だった。
モモは「またね」と小さく手を振り、静かに店を出ていく。
その小さくなっていく背中を見送りながら、
ユキの口元には、自然と優しい笑みが浮かんでいた。
しかし、事件はそのわずか数分後に起きた。
「――おい! 待て、お前!」
自動ドアが閉まり、静寂が戻ったはずの店の外から、
突如として荒々しい怒鳴り声が響き渡った。
ユキの狐耳が、ピクリと不穏に動く。
聞き覚えのない、ドスの利いた大人の男の声。
強い、高圧的な口調。
そして――それに怯えるような、か細いモモの悲鳴に似た声。
ユキの脳裏に最悪の予感が走り、
弾かれたようにカウンターを飛び出して店の外へ駆け出した。
熱気の残る歩道の上、街灯のオレンジ色の光の下で、
一人の警察官がモモを強引に呼び止めていた。
年齢は四十代半ばほど。
背が高く、ガッチリとした体格で、鋭い目つきのまま腕を組み、
制服姿の威圧感をもってモモを見下ろしている。
「こんな深夜に、未成年が一人で何をしている」
「……あ、あの……散歩、です」
「散歩だと? こんな夜中に、獣人がこそこそと徘徊していると、
住民が不安になるんだよ。用がないならさっさと家に帰れ」
その剥き出しの言葉に、駆けつけたユキは
思わず胸が締め付けられ、激しく眉をひそめた。
モモは白いフードを深く被り直し、小さく丸まって俯いている。
彼女はただ、眠れない夜の寂しさを
紛らわせるために水を買い、歩いていただけだ。
何も悪いことなんてしていない。
それなのに、まるで犯罪者予備軍のような扱いを受け、震えていた。
「身分証を出せ。早くしろ」
警察官の容赦のない催促に、
モモは震える手でポケットから小さな財布を取り出す。
警察官はそれをひったくるように受け取ると、無言で確認し、
それでもなお険しい表情を崩そうとはしなかった。
「……最近、この界隈では獣人絡みの騒ぎや
不審者の通報が多いんだ。お前、本当にただの散歩か?」
「私は……本当に、何も……」
「怪しい奴はみんなそう言うんだ。だったら早く帰れ。
次に見かけたら補導するからな」
冷酷で、偏見に満ちた声だった。
ユキがたまらずモモを庇おうと一歩踏み出した、その時だった。
「――先輩。そこまでにしてください」
夜の空気を穏やかに遮るように、
よく通る、けれど落ち着いた声が響いた。
パトカーの助手席側から、
もう一人の警察官がゆっくりと歩いてきたのだ。
年齢は二十代後半ほどの青年。
柔らかな茶色の短髪。
そして何より、彼の頭の上には、
感情に合わせてわずかに揺れる、立派な犬耳が生えていた。
犬系の獣人だった。
「ソガか……」
年上の警察官が不機嫌そうに振り返る。
ソガと呼ばれた若い警察官は、
モモの前にそっと立つと、先輩の警察官を見据えて言った。
「その子は、何も悪いことはしていませんよ」
「念のために身元を確認しているだけだ。警戒するに越したことはない」
「確認はもう、十分に終わっていますよね」
「……チッ」
「身分証も問題ありませんし、
この時間帯にこの子に対する通報も出ていません。
職務質問にも、怯えながらも最大限協力してくれています」
ソガはそう言い切ると、
今度は怯えるモモの視線に合わせるようにゆっくりと屈み込み、
優しく微笑みかけた。
「……怖かったね。もう大丈夫だよ」
モモは小さく、何度も頷いた。
その大きな瞳からは、今にも堪えきれずに涙が零れ落ちそうになっている。
ユキはその健気な姿を見て、怒りと悲しさで胸が痛んだ。
年上の警察官は、自分の部下に正論を突きつけられたのが面白くないのか、
不満そうに盛大に鼻を鳴らした。
「お前は甘いんだよ、ソガ。
最近は獣人絡みの軽犯罪やトラブルが増えている。
だから俺たちは市民のために警戒しているんだ」
「トラブルを起こす獣人がいるのは事実です」
ソガは声を荒らげることなく、静かに、
けれど毅然としたトーンで言葉を返した。
「それは認めます。……ですが先輩、
それは人間であっても全く同じはずです」
一瞬、現場の空気が張り詰めた。
遠くの街路樹から響く蝉の声だけが、
異様に大きく二人の間に響き渡る。
「『獣人だから怪しい』という前提で人を見るのは、
市民の安全を守る警察官として、絶対に間違っています」
ソガの声はどこまでも穏やかだった。
だが、その言葉の芯には、
決して曲げることのない鋼のような強い信念が宿っていた。
年上の警察官は苦虫を噛み潰したような顔でしばらく黙り込んでいたが、
やがて太い溜め息を吐くと、
「……勝手にしろ。お前の一族の偏屈さには付き合いきれん」
そう吐き捨て、背を向けてパトカーの中へと戻っていった。
街角に、ようやく本来の夜の静寂が戻ってきた。
モモはまだ、ショックから解放されずに肩を小さく震わせている。
ソガはもう一度彼女と目を合わせるように、優しく語りかけた。
「……本当に、怖い思いをさせてごめんね。
僕の先輩が、嫌な言い方をして」
モモは慌てて首を横に振る。
「ううん……お巡りさんが、謝ることじゃないです。
助けてくれて、ありがとうございました」
ソガは少しだけ、照れたように犬耳をパタパタと動かして笑った。
「どういたしまして」
それから彼は立ち上がり、モモの傍に寄り添っていたユキへと視線を向けた。
胸の名札には確かに『ソガ』と刻まれている。
「君は、ここのコンビニの店員さん? この子の知り合いかな」
「……はい。私の、大切な友達です」
ユキが真っ直ぐに答えると、
ソガは心底安心したように何度も頷いた。
「そうか。一人じゃなくて本当によかった。
夜道はね、獣人とか人間とか関係なく、女の子一人だと危ないから」
ユキは、ソガの頭の上で静かに揺れる
茶色の犬耳を見つめながら、静かに尋ねた。
「……獣人の方でも、警察官になれるんですね」
「うん」
ソガは少し照れくさそうに、人差し指で耳の後ろを掻いた。
「なれるよ。試験はすっごく大変だったけどね。
……僕はね、獣人だからこそ、この仕事を選んだんだ」
その言葉に、ユキは小さく息を呑んだ。
ソガは、パトカーの天井越しに、広大な濃紺の夜空を見上げた。
「子どもの頃さ、僕の周りでもね……
『獣人だから』っていうただそれだけの理由で、
何もしていないのに泥棒だと疑われたり、
警察に手荒に扱われる人を何人も見てきたんだ」
夜風が吹き抜け、彼の犬耳が静かに揺れる。
「それが、ずっと悔しくて、悲しくてさ。
だから、大人になったら自分が内側に入って、
少しでもその理不尽な現実を変えたいと思ったんだよ」
短い、飾らない言葉だった。
だが、その一言だけで十分だった。
この人は、その胸に抱いた消えない傷と痛みを忘れないために、
この重い制服を身に纏っているのだということが、
ユキには痛いほど伝わってきた。
「まあ、現実は厳しくて、
全部をいっぺんに変えることなんてできないんだけどね」
ソガは苦笑しながら、けれど希望を捨てない目で言った。
「でもね、こうして今日、君たちみたいな
一人の女の子を守ることなら、僕にもできるかもしれない」
モモはその温かい言葉を聞いて、
ようやく張り詰めていた表情を和らげ、小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます、ソガさん」
「ううん。散歩したくなったら、いつでもおいで。
でもね、もし変な人に絡まれたり、危ないと思ったら、
すぐに遠慮なく近くの交番に駆け込むんだよ?」
「はい!」
モモが元気よく返事をすると、ソガは満足そうに微笑み、
二人に小さく敬礼をしてみせた。
そして、パトカーで待つ先輩の元へと、
しっかりとした足取りで歩き出した。
遠ざかっていくソガの背中を見送りながら、
ユキは深く胸の中で思っていた。
同じ国に暮らし、同じ警察官という立場にあって、
同じ制服を着て、同じ法律を守っている人間であっても
――人を見る目は、こんなにも、残酷なほどに違うのだと。
片方は偏見という濁った眼鏡で世界を拒絶し、
もう片方は痛みを分かち合うために手を差し伸べる。
モモはまだ、少しだけ興奮が冷めやらない様子で、
自分の白いパーカーの裾を握りしめていた。
「……すっごく、怖かった」
ぽつりと呟いたモモの肩を、
ユキはそっと引き寄せるようにして頷いた。
「ええ。怖かったですね。よく頑張りました」
「でも……」
モモは、再び夜空を見上げた。
その瞳には、さっきまでの恐怖の涙ではなく、
街灯の光が綺麗に反射していた。
「……世界には、あんなに優しい警察官の人も、ちゃんといるんだね」
「はい。本当に、素敵な方でしたね」
ユキも、モモと同じ空を見上げる。
都会のネオンに遮られて、
昼間なら絶対に視認することのできない小さな星たちが、
この午前零時を過ぎた深い夜の帳の中では、
宝石のように細かく、静かに輝いていた。
この世界には、理不尽な偏見を持つ人がたくさんいる。
獣人というだけで距離を置き、腫れ物に触るように扱う人や、
悪意を向けてくる人だっている。
それはきっと、これからも完全になくなることはない現実だ。
けれど同時に――その偏見の壁を、自らの手で壊し、
正そうと命を懸けて戦っている人も、
この世界の片隅には確かに存在しているのだ。
あのソガのように。
ユキは静かに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら微笑んだ。
夜は相変わらず、どこまでも深く、静かだった。
けれど今日のこの静けさの中には、冷たい暗闇を拒絶するような、
小さくて、けれど決して消えることのない「希望」の音が、
確かに心地よく響き渡っているような気がした。




