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ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
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27/34

古本屋

七月の空は、低く垂れ込めた灰色の雲に覆い尽くされていた。

梅雨明けの報せは、まだしばらく遠い。


空一面を閉ざす雲は太陽の強い光を容赦なく遮り続けており、

時計の針は昼過ぎを指しているというのに、

街全体がどこか夕暮れ前のように薄暗く沈んで見える。


湿り気をたっぷりと含んだ生温い風が、

古いビルや建物の隙間を通り抜けるたびに、濃密な夏の気配と、

今にも降り出しそうな雨の匂いを運んできていた。


その日のユキは、久しぶりの完全な休日だった。


コンビニの夜勤シフトは入っていない。

日中も、特にこれといった予定はなかった。

いつもなら唐突に部屋のドアを叩くミナからの呼び出しも、今のところはない。


老人の部屋へ行く約束も、今日に限ってはなかった。

ここ最近の慌ただしさから解放された、

本当に久しぶりの、誰にも邪魔されない完全な自由時間。


昼過ぎ。


ユキはあてもなく、ただ足の向くままに街を歩いていた。

目的地など最初から決めていない。


ただの気まぐれな散歩だった。


こうして一人、歩きながらあれこれと思考を巡らせるのは、

子供の頃から変わらないユキの好きな時間だった。


最近は誰かと他愛のない話をすることも嫌いではなくなったし、

むしろ楽しいとすら思える。


だが。


それとは別に、一人きりで静かに歩く時間も、

相変わらず同じくらい好きだった。


賑やかな駅前の商店街を抜け、さらに閑静な住宅街を通り過ぎる。

駅の喧騒から随分と離れた、細く古い通りへと足を踏み入れた。


その辺りまで来ると人通りはほとんどなく、

まるで時間が止まったかのような古い建物がぽつぽつと並んでいる。


年季の入った小さな食堂。

ガラスケースの曇った古い時計店。

営業しているのかさえ判別のつかない、ひっそりとした喫茶店。


そして――ユキは、その通りの片隅で、ある店を見つけた。

ひっそりと佇む、一軒の古本屋だった。


ユキは思わず足を止めた。


この道は何度か通ったことがあるはずなのに、

今まで全く気付かなかった。


いや。


視界には入っていても、ただの景色の一部として、

意識して捉えていなかっただけなのかもしれない。


店構えは、お世辞にも立派とは言えなかった。


文字の掠れた木製の看板。

雨風に晒されて色褪せたモルタルの外壁。

そして、格子のはめ込まれた小さなガラス扉。


決して目立つ店ではない。

むしろ、周囲の静けさに溶け込み、

隠れるようにしてそこに存在していた。


しかし。


ユキは何故か、その店から目が離せなくなってしまった。


――匂いが、したからかもしれない。


開いた窓の隙間から漏れ出てくる、独特な本の匂い。

幾年も重ねられた古い紙の匂い。

微かに残るインクの匂い。


そして、幾人もの手を渡ってきた「時間」そのものの匂い。

そう表現したくなるような、優しく落ち着いた香りが、

ユキの優れた嗅覚を小さくくすぐった。


ユキは引き寄せられるように扉へ近付き、

ガラス越しにそっと中を覗き込んでみる。

目に飛び込んできたのは、床から天井まで届きそうな大きな本棚、

その奥にある本棚、そしてさらにその奥に続く本棚だった。


視界を埋め尽くす、圧倒的な量の本。

誰もいない、完璧に静まり返った空間。

不思議なほど深い安らぎが広がっていた。


ほんの少しだけ迷った後、

ユキはそっと、その小さなガラス扉を押し開けた。


カラン――。


扉に取り付けられた小さな真鍮の鈴が、静かな音を立てて鳴った。


一歩足を踏み入れた店内は、想像を遥かに超えて静かだった。

扉が閉まった瞬間、外を通る車の音や風のざわめきが、

まるで遠い世界の出来事のように遮断される。


空気の密度さえも変わったかのような錯覚を覚えるほど、

そこには濃密な古い紙の香りが満ち満ちていた。


壁際を埋め尽くす高い本棚のせいで、通路は少し狭く、薄暗い。

けれど、その棚には隙間なくぎっしりと、様々な背表紙が並んでいた。


文芸小説、分厚い歴史書、皮装丁の辞典、

色鮮やかな写真集、そしてどこか懐かしい絵本。


ジャンルは完全にバラバラで、

脈絡なく並んでいるようで見事な調和を保っている。


ユキは足音を立てないようにゆっくりと歩きながら、本棚を眺めた。

何十、何百と並ぶ本の背表紙を見つめ、タイトルを目で追っていくうちに、

なんだか胸の奥がじんわりと温かくなるような、懐かしい気持ちに満たされていく。


昔から、本という存在が好きだった。

理由は単純で、本は「静か」だからだ。


本の中にいる人物たちは、

こちらの都合を無視して無理に話しかけてきたりはしない。

こちらの顔色を窺って、無理に仲良くなろうともしてこない。


自分が読みたい時に開き、立ち止まりたい時に文字を眺め、

いつでも自分のペースで付き合うことができる。


だから、人付き合いが何よりも苦手だった幼い頃のユキにとって、

本だけが唯一の避難所だった。


背表紙の文字を指先でそっとなぞっていた、その時だった。


「……いらっしゃい」


背後から、低く、けれど驚くほど穏やかな声が聞こえた。


ユキが驚いて振り返ると、店の最奥にある

小さな木製のカウンターに、一人の男性が座っていた。


年齢は三十代の後半くらいだろうか。

綺麗に整えられた黒髪に、知的な印象を与える銀縁の眼鏡。

衣服の上からでも分かる細身の体躯。

そして何より――彼自身が、この古本屋の空気そのもののような、

非常に静かな雰囲気を纏っていた。


この人は、決して大声を出して笑ったり、怒鳴ったりする人ではない。

一目見ただけで、ユキの直感がそう告げていた。


男性は手元に広げていた本から顔を上げ、静かに栞を挟むと、

ユキの狐耳や髪に視線を留めることもなく、ただ穏やかに言った。


「……どうぞ、ごゆっくり」


それだけだった。


入店を歓迎するような大袈裟な声掛けもなければ、

何かを探しているのかと尋ねてくるような、接客らしい接客もない。


だが。


その対応は、決して冷たいわけでも、突き放しているわけでもなかった。

ただ、客の領域に決して踏み込まないという、静かな優しさに満ちている。


不思議な人だな、とユキは思った。


ユキは小さく頭を下げて挨拶を返すと、

再び本棚の巡回へと戻った。


店の中では、時間の流れが外の半分くらいに遅くなっている気がした。


一冊。

また一冊。


気になる本を棚から引き抜いては手に取る。


装丁の手触りを確かめ、パラパラとページをめくっては

元の場所に戻し、また別の本へと手を伸ばす。


静かだった。


本当に、息を呑むほどに静かだった。


自分が働いているコンビニの、

絶え間なくノイズが鳴り響く空間とは全く違う。


この前まで入院していた、どこか緊張感の漂う病院とも違う。

そして、自分が逃げ場所として愛していた、誰もいない夜道とも違う。


それなのに――何故だろう。

胸の奥が、驚くほど深く安心しきっているのを感じていた。


気付けば、店に入ってから一時間ほどの時間が、

あっという間に流れていた。


ユキの腕の中には、迷った末に選び出した

数冊の本が抱えられていた。


その中に、ひときわ古い、小さな童話集があった。


布製の表紙は角が少し擦り切れて傷んでいる。

けれど、前の持ち主か、あるいはこの店主によって、

驚くほど大切に、綺麗に保管されてきたことが一目で分かる本だった。


ユキが通路の隅で、その童話集の表紙を愛おしそうに眺めていると。


「……その本」


不意に、すぐ近くから声が聞こえた。

見上げると、いつの間にかカウンターを出た店主が立っていた。


驚くほど足音がしなかった。

聴覚の鋭い自分が気付かないほどの

徹底した静かな足運びに、ユキは目を丸くする。


「……これ、珍しい本なんですか? 人気があるとか……」


ユキが尋ねると、店主は眼鏡の奥の目を少しだけ細め、

数秒間考えてから、静かに首を横に振った。


「いえ。決して人気のある本ではありませんよ。

万人受けするような、派手な物語でもありませんから」


商売気のない、あまりにも正直な物言いだった。


「そう、なんですか」


「ええ。でも――」


店主はユキの腕の中にある童話集を見つめた。

その瞳には、深い愛着と優しい光が宿っている。


「……好きな人は、とことん好きになる。そういう本です」


それだけを言うと、店主はまた静かにカウンターへと戻っていった。


短い言葉だった。


けれど、ユキにはその意味が、何となく手に取るように理解できた。

きっと、この店主自身も大好きなのだろう。


棚の隅で、静かに誰かを待ち続けていたこの本が。

ユキの口元に、自然と小さな微笑が浮かんだ。


彼女は抱えた本を胸に引き寄せ、

この童話集を自分のものにしようと決めた。


カウンターでの会計。


店主は無駄のない、流れるような手つきで古い本を薄紙で包んでいく。

カサカサという紙の擦れる音だけが、静かな空間に心地よく響く。

動作のすべてに、本への敬意が溢れていた。


やがて、包み終えた本が差し出される。

通常なら、ここで「ありがとうございました」と

頭を下げて終わるはずのやり取りだった。


だが。


ユキは、どうしても胸の中で膨らんでいた小さな疑問を、

口にせずにはいられなかった。


「……あの、すごく静かな店ですね」


店主は、本を差し出した姿勢のまま、静かに顔を上げた。


「……店が、ですか?」


「はい」


ユキは周囲の本棚を見渡しながら微笑む。


「外の音が、何も聞こえないくらいに」


店主は、ユキの言葉にほんの少しだけ笑った。


感情を爆発させるような笑い方ではない。

ただ、口元をごく微かに緩めただけの手控え目な笑顔。


「……静かな方が、本が読みやすいですから。理由はそれだけですよ」


どこまでもシンプルで、飾らない理由。

けれど、これ以上ないほど納得できる答えだった。


店主は包みをユキの手へと手渡しながら、

視線をふっと窓の外の景色へと向けた。


「それに」


「……?」


「……世の中には時々、どうしても『静かな場所』を探して、

ここに流れ着く人もいますからね。そういう人の邪魔をしたくないんです」


その言葉を聞いた瞬間。

ユキは、少しだけ目を見開いた。


静かな場所を探して、流れ着く人。


――それは、他でもない。


つい最近までの、自分自身の姿そのものだった。

人間のノイズに怯え、獣人としての視線に疲れ、誰の目にも留まらない、

誰の言葉も届かない静寂だけを求めて彷徨っていた、あの頃の自分。


店主はそれ以上、何も言わなかった。


ユキの過去を聞き出そうとする下心もなければ、

自分の経営哲学を押し付けるような傲慢さもない。


ただ、淡々と、世界にある事実を口にしただけだった。


「……ありがとうございました」


ユキは今度は心からの感謝を込めて深く頭を下げ、

丁寧に包まれた本を受け取った。


店を出るために扉を開く。


カラン――と、再び真鍮の鈴が、

別れを告げるように優しく鳴り響いた。


外に出ると、七月の空は相変わらず

分厚い灰色の雲に覆われていた。


けれど、店に入る前よりも、肌に触れる湿った風が

ほんの少しだけ心地よく感じられる。

どんよりとした空の下だというのに、ユキの胸のうちは、

驚くほど穏やかで少しだけ晴れやかだった。


不思議な出会いだった、と思う。


長い会話を交わしたわけでもない。

お互いの名前さえ知らない。


それでも。


何故だか無性に、またいつか一人で行き詰まった時には、

あの静かな扉を叩きたいと、素直にそう思えた。


帰り道。


ユキは薄紙に包まれた本を、胸の前に大切に抱えながらゆっくりと歩く。

通りを吹き抜ける、夏の匂いを孕んだ湿った風が、

白銀色の狐耳を優しく揺らした。


その時。


ポケットの中で、スマホが短い振動を刻んだ。

取り出してみると、画面には案の定、

ミナからのメッセージが表示されている。


『ユキ、今どこ?』


相変わらずの短文。


この時点で、何やら不穏な予感が胸をよぎる。

ユキが返信を打つ暇もなく、数秒後、画面が立て続けに明滅した。


『大変! ハルちゃんがなぜか覚醒して、

リビングのカーテンの一番上まで登っちゃった!』


さらに一通。


『じいさんが一言「……もう勝手にしろ」って言って、

コタツで死んだ魚の目をしてる』


メッセージを読み終えた瞬間、

ユキは「ふふっ」と思わずその場で吹き出してしまった。

どうやら、自分の大切にしていた「静かな休日」は、

これをもって完全に幕を閉じたらしい。


あの古本屋を支配していた完璧な静寂。

古い紙の高貴な香り。

店主の、どこまでも穏やかで低い声。


それらの心地よい要素は、メッセージの通知音とともに、少しずつ遠ざかっていく。

代わりに待っているのは、いつも通りの、騒がしくて、面倒で、

けれど愛おしい日常の喧騒だ。


けれど。


不思議と、嫌だとは全く思わなかった。

世界に拒絶されたように感じた時は、

いつでも逃げ込める「静かな場所」がある。


そして、その静寂を十分に堪能した後に

「ただいま」と笑顔で帰ることができる、

騒がしい「自分の居場所」が、今の自分にはちゃんとあるのだから。


ユキは、灰色の曇り空を静かに見上げた。


厚い雲の向こう側には、今は見えなくとも、

世界を照らす太陽が確かに存在している。

その見えない太陽の存在が、どこか、

先ほどの古本屋の店主に似ているような気がした。


決して目立たず、声高に主張せず、ただ静かにそこに佇んでいる。

けれど、必要な誰かのためには、確かにそこに存在し続けてくれる、

そんな優しい場所。


そんな人との、幸福な出会い。


「……早く戻らないと、カーテンが引きちぎられますね」


ユキはスマホをポケットにしまうと、

胸の本をもう一度抱き直し、自然と歩調を速めた。


きっと今頃、アパートの隣の部屋では、

ハルがこれ以上ないほど得意げな顔で大騒ぎを継続しているだろうから。


そんな賑やかな光景を頭に描きながら、

ユキは愛おしい騒動が待つ我が家へと、

弾むような足取りで戻っていくのだった。

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