猫と狐
七月中旬。
気象庁から梅雨明けが発表されたのは、
そのわずか三日前のことだった。
長く、そして重苦しく続いていた雨の季節はようやく終わりを告げ、
空は本来のどこまでも高い青さを急速に取り戻し始めていた。
街には夏特有の、肌を刺すような強い日差しと、
降るような蝉の鳴き声が容赦なく溢れかえっている。
日中の気温は優に三十度を超え、照りつける陽光によって
アスファルトは陽炎が立つほどの熱を孕んでいた。
通り抜ける風はどこまでも生温く、ぬるい。
行き交う人々は、その容赦のない暑さから逃れるように、
誰もが少しだけ足早に目的地へと向かっていく。
世界の色彩が、一気に濃くなる。
いよいよ、本格的な夏の到来だった。
ユキはアパートの自室の窓を、大きく推し開けていた。
時計の針は午後四時を回ったところ。
夜の仕事が始まるまでは、まだたっぷりと時間がある。
開け放った窓から部屋の中へと風が流れ込んでくるが、
その風自体が熱を持っていて暑い。
だが。
それでも狭い部屋に熱気を閉め切るよりは、
幾分かましだった。
小さな木製の机の上には、先日あの静かな古本屋で購入した、
少し傷みのある童話集が置かれている。
一文字ずつ大切に読み進めていたものの、
途中で開いたままになっていた。
「――今日は、この続きを最後まで読もう」
ユキは確かにそう思っていた。
本当に、心から静かな読書時間を楽しみにしていたのだ。
だが。
ドンドンドン! と、玄関の薄いドアが激しく叩かれた。
その瞬間、ユキの頭の中に一人の顔が浮かぶ。
もはや驚きすらしない、完璧に予想通りの展開だった。
ユキは小さく、諦めの混じったため息を吐き出す。
「……どうぞ、開いてます」
そう言い切るより早く、ドアが勢いよく引かれた。
「――ユキー! 遊びに来たよ!」
ミナだった。
艶やかな黒髪の隙間から、黒い猫耳を元気いっぱいに弾ませ、
満面の笑みを浮かべて突入してくる。
この殺人的な夏の暑さなど、彼女の辞書には存在しないらしい。
どこからそのエネルギーが湧いてくるのか、本当に不思議だった。
「……どうしたんですか、そんなに息を切らせて」
「暇!」
また、その一言だった。
最近、ミナの口からこの単語しか聞いていないような気がする。
ミナは自分の家であるかのように勝手に部屋へと上がり込み、
勝手に床へ座り込むと、ユキが自分のために用意していた
冷たい麦茶のコップを奪って喉を鳴らした。
もはやこの部屋を第二の我が家だと思っている節がある。
ユキはそれに対して文句を言う気力すら、とうの昔に失っていた。
「で、今日は何をしに来たんですか」
「遊ぶの!」
「だから、何をして遊ぶんですか」
「……それは、まだ決めてない!」
胸を張って堂々と言うことではない。
やはり、何も考えていなかったのだ。
ユキは呆れを通り越して、思わずふっと苦笑してしまった。
本当に、どこまでも自由で、台風のような人だ。
すると、麦茶を飲み干したミナが、
突然思い出したように真面目な顔をして言った。
「そういえばさ、ユキ」
「はい」
「……私達って、もう『友達』なのかな?」
あまりにも突飛で、唐突な質問だった。
ユキは思考が追いつかず、数秒間その場で固まってしまう。
ミナの丸い瞳は真剣そのもので、
冗談を言っている雰囲気ではなかった。
「……どうしたんですか、急にそんなことを」
「うーん、なんか急に気になっちゃって」
それだけだった。
なんの捻りもない、ミナらしい直感的な理由だった。
ユキは、手元にある童話集の表紙を見つめながら、
少しだけ考えた。
――友達。
その、あまりにも普遍的で、
けれど自分には縁遠いと思っていた言葉。
もしも、学校の窓際の席に引きこもっていた昔の自分なら、
この問いに答えることはできなかっただろう。
いや。
そもそも誰かと友達になるなんていう概念すら、
頭の片隅にも置いたことがなかったはずだ。
だが。
今の自分なら、迷うことなく言える。
「……はい。私達はもう、友達だと思います」
飾らず、素直にそう答えた。
その言葉を聞いた瞬間、
ミナの顔にパッと大輪の花が咲くような笑顔が広がった。
「やった! よかったぁ、ユキに拒絶されたらどうしようって、
ちょっとだけ緊張してたんだよね!」
本当に、嬉しそうだった。
まるで、欲しかったおもちゃを買ってもらった子供のように、
無邪気に猫耳をパタパタと揺らしている。
ユキはそれを見て、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
ミナのその屈託のない笑顔を見ると、何故だろう。
自分の心に澱んでいた暗い感情まで、
綺麗に洗い流されて軽くなっていくような気がするのだ。
その後、二人は自然な流れで老人の部屋へと向かった。
ノックもそこそこに扉を開けると、そこにはいつも通りの光景があった。
不機嫌そうに新聞を広げる老人と、
その足元で退屈そうに尾を揺らすハル。
「――チッ、またあの騒がしいのが来たのか」
老人の第一声も、寸分の狂いなくいつも通りだった。
けれど、ミナはそんな拒絶の言葉を正面から受け流し、
「ハルちゃーん!」と叫んで真っ先に三毛猫を抱き上げる。
ハルもミナの腕の中で嬉しそうに喉を鳴らし、
その喉元に顔を擦り付けていた。
完全に懐かれている。
老人はそれを見て盛大なため息を吐いたが、最近ではもう、
ミナの暴挙を本気で怒る気すら失っているようだった。
「ねえねえ、じいさん」
ハルを抱きしめたまま、ミナが尋ねる。
「なんだ、うるさいぞ」
「私とユキってさ、友達に見える?」
老人は新聞からゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の偏屈そうな目で、床に座るミナと、
その後ろで恐縮しているユキの姿を交互に見つめる。
数秒の沈黙の後、老人は鼻で笑うようにして言った。
「……まあ、そうなんじゃないか」
実にあっさりとした肯定だった。
ミナは「ほらね!」と満足そうに胸を張ったが、
老人は容赦なく言葉を続けた。
「――随分と、変な組み合わせだがな」
その言葉には、ユキも内心で同意せざるを得なかった。
活発で自由奔放な猫獣人と、
静寂を愛し引きこもりがちな狐獣人。
性格は文字通り正反対。
物事に対する考え方も違えば、
夜勤と日中という生活習慣も真逆。
好きなものも、選ぶ言葉も何もかもが違っている。
それなのに。
どうして私たちはこうして毎日のように顔を合わせ、
同じ空間で笑っているのだろう。
ユキ自身、自分たちの関係が時折不思議でならなかった。
ミナはハルを腕に抱いたまま窓際へと移動し、
外の景色を眺めた。
ワンワンと響く蟬の声。
突き抜けるような青空。
入道雲。
ミナはふっと目を細め、懐かしむようなトーンで呟いた。
「ねえ、ユキ。私達が最初に出会った時のこと、覚えてる?」
ユキは苦笑する。
「……忘れられるわけがないでしょう」
ある日突然、このアパートの廊下に現れ、
初対面のはずの老人の部屋へ強引に侵入し、
これまた初対面のハルを引っ掴んで大騒ぎを起こしたのだ。
あの日、間に入って仲裁する羽目になったユキが、
どれほど肝を冷やしたか。
「私、ユキのこといきなり『狐!』って呼んじゃったんだよね」
「呼びましたね」
「あの時、怒った?」
「……ええ、少しだけ」
ユキが正直に答えると、ミナは「あはは!」と快活に笑った。
「ごめんごめん! でもさ、悪気はなかったんだよ?」
まったく反省の色が見えない顔だった。
けれど、ユキには分かっている。
ミナのその言葉に、一滴の悪意も含まれていなかったことを。
ミナはそういう人なのだ。
自分の心に浮かんだ感情や言葉を、
濁らせることなくそのまま口に出す。
裏も表もない。
だからこそ、時々周囲を困惑させるし――同時に、
その真っ直ぐさに、ユキは何度も救われてきたのだ。
夕方になり、少しだけ陽の光が和らいだ頃、
四人は近くの公園へと出かけることにした。
老人が「少しは外の空気を吸わんと身体が腐る」と呟いたのがきっかけだったが、
実のところは、彼が二人を連れ出して散歩をしたかっただけなのだろう。
ハルも一緒だった。
ミナが用意したキャリーケースの中から、外の景色を珍しそうに、
けれど少しだけ不満そうに覗かせている。
夏の夕方の公園には、まだ遊び足りない様子の子供たちの声や、
散歩をさせる家族連れ、楽しげに吠える犬の姿など、
生活の音が心地よく満ちていた。
ユキたちは木陰にある古びたベンチへと腰を下ろす。
そよぐ風は相変わらず暑かったが、
歩いて火照った身体にはどこか心地よく感じられた。
ミナの手には、いつの間にかコンビニで
買い込んできたソーダ味のアイスが握られていた。
「ねえ、ユキ」
ガリッとアイスをかじりながら、ミナが言った。
「はい」
「……私さ。こう見えて、友達って呼べる人、すっごく少ないんだよね」
珍しく、少しだけトーンを落とした真面目な声だった。
ユキは驚いて顔を上げる。
ミナは誰に対しても壁を作らず、その持ち前の明るさで
一瞬にして誰とでも打ち解けられる性質の持ち主だ。
そんな彼女に友達が少ないなんて、意外という言葉を超えていた。
その驚きが完全に表情に出ていたのだろう。
ミナは自嘲気味に笑った。
「あはは、みんなにそう言われる。誰とでも仲良くなれそう、って」
図星だったらしい。
ミナはアイスの棒を見つめながら、
少しだけ寂しそうな、大人の表情を浮かべた。
「でもね……仲良くなるのは得意なんだけど、
その関係が『続く』ことが、ほとんどないの」
風が吹き抜け、彼女の黒い猫耳が切なげに揺れる。
「私って、ほら、自由すぎるでしょ?
自分の行きたいところに突っ走っちゃうし、思ったことも全部言っちゃうから。
最初のうちは『面白い人』って思われても、
だんだん『面倒臭い奴』って思われて、みんな離れていっちゃうんだよね」
少しだけ。
本当に、爪の先ほどの手控え目な寂しさが、
彼女の言葉の端々に滲んでいた。
ユキは初めて知った。
いつも太陽のように明るく、悩みなんて何一つないように振る舞っていたミナにも、
そんな風に自分の性質に悩み、孤独を抱える夜があったのだということを。
当たり前のことだ。
彼女だって、自分と同じように心を持った生き物なのだから。
傷付くこともあれば、誰かに拒絶されることを恐れる夜だってある。
ユキは、ベンチの下で揺れる自分の影を見つめながら、
少しだけ考えてから言葉を返した。
「……私は、ミナとは正反対です」
「ん?」ミナが首を傾げる。
「私は、誰かと新しく仲良くなるのが、昔から信じられないくらい苦手です。
他人が怖くて、何を話せばいいのか分からなくて、
いつも一人で壁を作って生きてきましたから」
「でも」ユキはミナの丸い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……だからこそ、一度繋がった関係が、
こうして長く続いてくれるなら――それは、本当に嬉しいことだと思います」
ミナは、数秒間の間、言葉を失ったように目を丸くしていた。
それから。
まるで子供が秘密の宝物を見つけた時のように、少しだけ照れくさそうに、
けれど本当に愛おしそうにクスクスと笑った。
彼女の猫耳が、感情を隠しきれずに僅かにピクピクと動いている。
「……そっか。うん、そうだね」
それだけだった。
余計な感傷の言葉はなかったけれど、二人の間には、
それで十分すぎるほどの確かな温もりが通い合っていた。
遮るもののない公園の向こう、西の空からゆっくりと夕日が沈み始めていた。
白い入道雲が徐々に鮮やかな茜色へと染まり、
公園全体を劇的な赤色で包み込んでいく。
老人はベンチに深く腰掛けたまま、
静かにその美しい黄昏の景色を眺めていた。
ハルはいつの間にかキャリーケースの中で丸くなり、
安心しきった様子で寝息を立てている。
その隣で、ミナはアイスの棒を片手に、
またいつも通りの他愛のないお喋りを始めて笑っていた。
ユキも、彼女の言葉に小さく相槌を打ちながら、穏やかに微笑む。
不思議な関係だ、とつくづく思う。
世間一般の「友達」という型に嵌めるには、
自分たちはあまりにも歪で、奇妙な組み合わせかもしれない。
家族のように血が繋がっているわけでもない。
恋人のような甘い約束があるわけでもない。
同じ学校の同級生でもなければ、職場の同僚というわけでもない。
それでも。
今の自分にとって、この目の前にいる存在たちが、
何よりも失いたくない大切なものであることだけは、疑いようのない事実だった。
猫と狐。
正反対の二人。
これからもきっと、意見が噛み合わずに衝突することもあるだろう。
価値観の違いに驚き、考え方の違いに戸惑うことだってあるはずだ。
それなのに。
一緒にいるだけで、胸の奥の尖った部分が丸くなり、
驚くほど深く安心できる。
ただ話しているだけで、時間が経つのを忘れてしまう。
数日間会わないだけで、「あいつは今、何をしているんだろう」と、
ほんの少しだけ気になってしまう。
――あぁ、これを世間では、「友情」と呼ぶのだろう。
ユキは、赤く染まりゆく夏の夕暮れの空を見上げた。
視界の端では、ミナが身振手振を交えて今日一番の面白い話を展開しており、
老人が「うるさい」と呆れた声を出し、ハルが幸せそうに眠っている。
どこまでも賑やかで、どこまでも温かい、愛おしい世界。
人生というものは、本当に不思議だ。
予想もしない方向へと舵を切り、自分を変えていく。
ユキは、隣で無邪気に笑う黒猫の友達の横顔を見つめながら、
胸の中で小さく、けれど強く祈るように思った。
この、世界で一番奇妙で、世界で一番愛おしい友情が。
これから先も、できるだけ、できるだけ長く、
途切れることなく続いていけばいいのに、と。
燃えるような夕闇が街を包み込んでいく中で、ユキは大切な友人たちとともに、
いつまでもその温かな光の中に佇み続けるのだった。




