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ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
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26/34

狐耳の女の子

七月。


梅雨明けの報せは、まだしばらく先になりそうだった。

けれど、季節は確実に、

そして容赦なく夏へとその歩みを進めている。


昼間の気温は日を追うごとに少しずつ、

けれど確実に上昇を始め、夜の帳が下りた後でさえ、

アスファルトから立ち上る微かな熱が

空気の中にしがみつくように残るようになっていた。


その日の夕方。


ユキは珍しく、自分の部屋のベッドに腰掛け、

膝の上に本を広げて読書をしていた。


コンビニの夜勤仕事は深夜から。


隣の老人の部屋へ行く予定も、今のところは特にない。

いつもなら遠慮なしにドアを叩くミナも来ていなければ、

ハルが廊下をドタバタと駆け回る足音も聞こえなかった。


退院して以来、本当に久しぶりに訪れた、

自分一人きりの静かな時間だった。


開け放たれた窓の外からは、生温い風が吹き込んでくる。

遠くの街路樹の梢から、じりじりと低く、

今年初めてとなる蝉の鳴き声が聞こえていた。


まだ本格的な夏本番の喧騒ではない。


それでも、世界の季節が決定的に、

次のステージへと変わろうとしていることだけは、

肌に触れる空気の重みで分かった。


ユキは、指先で静かに本のページをめくる。


しかし、いくら文字を目で追っても、

その内容は全くと言っていいほど頭に入ってこなかった。


理由は、自分でもよく分かっている。

本を開く前から、ずっと同じ考え事をしていたからだった。


最近、一人になると、少しだけ思考を巡らせることが増えていた。


――過去のこと。

今のこと。

そして、これから訪れる未来のこと。


自分の置かれた環境や心境は、

傍から見れば何一つ変わっていないようにも思える。

けれど本当は、自分でも驚くほど、

随分と遠い場所まで変わってきているのではないか。


そんな予感が、胸の奥に静かに灯っていた。


ユキはパタンと本を閉じた。


そのまま膝の上に置き、何気なく窓の外へ視線を向ける。

夕暮れ前の光を反射するガラス窓には、

ぼんやりと自分の姿が映り込んでいた。


肩のあたりまで切りそろえられた、白銀色の髪。

その隙間から覗く、三角形の狐耳。

そして、すべてを見透かすような琥珀色の瞳。


それは、物心ついた子供の頃から、

何一つ変わることのない自分の姿だった。


少なくとも、外見という形においては。


その内側にある、中身はどうだろう。


ユキはガラスに映る自分を見つめながら、

静かに、そして深く考え始める。


昔の自分を。

まだどこまでも頑なで、世界を拒絶していた、幼い頃の自分を。


小学校一年生。


まだ、世界の広さもルールも何も知らなかった、あまりにも幼かった頃。

ユキは今よりもずっと、感情を表に出さず、言葉を発することのない子供だった。


教室の最果て、窓際の隅にある席が彼女の定位置だった。

休み時間を告げるチャイムが鳴り、

周囲の子供たちが「何して遊ぶ?」と楽しそうに廊下へ飛び出していく中で、

ユキだけは一人、机に突っ伏すようにして

図書室から借りてきた本を読み続けていた。


最初から最後まで、ずっとそんな子供だった。


時には、物珍しさから話しかけられることもあった。


けれど、その会話が二言、三言以上長続きすることは決してなかった。

元々、会話というコミュニケーションそのものが極度に苦手だった。

自分の気持ちをどんな表情と言葉で伝えればいいのか、

その感情表現の方法も分からなかった。


それに何より。


自分の頭の上には、彼らにはない「狐耳」があったから。


目立つ。


どう取り繕っても、普通の中に混ざれば嫌でも浮いてしまう姿。

子供たちの、悪意のない純粋な好奇心。

それは時として、明確な悪意をぶつけられるよりも遥かに厄介で、

幼い心を深く抉るものだった。


「ねえ、その耳触ってもいい?」


「尻尾って服の中から生えてるの?」


「狐の耳って、本当に遠くの音まで聞こえるの?」


毎日、毎日、違う子供から全く同じ質問を繰り返される。

最初は、相手を怒らせないようにと

引きつった笑顔を張り付けて答えていた。


だが、それが何週間、何ヶ月と続けば、

心は自然と磨り減り、疲弊していく。


彼らは、ユキという一人の人間を見てくれているわけじゃない。

ただ珍しい「狐の獣人」として自分を消費しているだけなのだと気付いた時、

ユキは完全に心を閉ざした。


だから、誰とも話さなくなった。

周囲との間に自ら分厚い壁を築き、距離を置いた。

一人でいる方が、誰よりも楽だった。


一人きりでいれば、誰かの一言に傷付かなくて済む。

誰かが自分を受け入れてくれるんじゃないか、

なんていう無駄な期待をしなくて済むから。


その頃の自分は、自分の『未来』のことなんて、

ただの一秒すら考えたことはなかった。


いや、正確には、

考えることすら許されないと思っていたのだ。


大人になった自分の姿なんて、

どれほど目を凝らしても想像できなかった。


学校を卒業して社会に出ている自分も、

どこかの職場で働いている自分も。

ましてや――誰かと肩を並べて、楽しそうに笑っている自分の姿なんて、

何一つとして想像のピースが当てはまらなかった。


ただ、今日という一日をやり過ごす。

静かに。

目立たないように。

誰の視界にも入らないように、迷惑をかけないように。


息を潜めて生きることだけが、当時のユキのすべてだった。


「おーい、ユキーー!」


突然、静まり返っていた部屋のドアの向こうから、

緊張感のない大声が響き渡った。


ユキの思考が、ぷつりと途切れる。

耳をピクリと動かすまでもない、

聞き慣れたその声の主は、ミナだった。


ユキはベッドの上で、思わずふっと苦笑を漏らしてしまう。

本当に、この猫獣人はタイミングが良いのか悪いのか分かりやしない。


ユキが立ち上がって部屋の鍵を開けると、そこにはいつも通りの、

エネルギーか何かの塊のような姿をしたミナが立っていた。


艶やかな黒髪に、せわしなく動く黒い猫耳。

そして、相変わらず人生を楽しんでいるような元気いっぱいの顔。


「暇!」


開口一番、彼女が口にしたのはその二文字だけだった。

本当に、どこまでも相変わらずな人だ。


「……何ですか、急に」


「だから、暇なんだってば! 遊びに来たの!」


「何の脈絡もないのは、理由になっていません」


「私の辞書では、立派な理由になりまーす!」


全くなっていない。

けれど、ミナはいつも通り、嵐のように自分勝手で、

いつも通りに温かかった。


それだけのことで、ユキの胸の奥にあった過去の冷たい澱が、

すっと消えていくのが分かった。


「じいさんの部屋に行こ。ハルちゃんもきっと退屈してるよ」


ミナに腕を引っ張られるようにして、二人はアパートの廊下を渡り、

老人の部屋へと向かった。


ドアを開けると、案の定、そこにはいつもの光景が広がっていた。

ソファの上で丸くなっているハル。

パイプ椅子に深く腰掛け、不機嫌そうな顔で新聞を広げている老人。


何一つ特別なもののない、けれど今のユキにとって、

何よりもかけがえのない日常の光景。


ミナは部屋に入るなり、嬉しそうにハルを「ハルちゃんお待たせー!」と抱き上げ、

老人はガサリと新聞をめくる。

ユキはいつものように、空いている丸椅子に腰を下ろした。


部屋の中に、テレビの音もない、

穏やかで静かな時間が流れていく。


すると。


新聞の向こう側から、老人が突然、ぶっきらぼうに言葉を投げかけてきた。


「……おい。どうした」


ユキはハッと顔を上げた。

老人は新聞を少しだけ下げ、

眼鏡の奥の鋭い眼差しでこちらをじっと見つめている。


「何がですか、じいさん」


「何がですか、ではない。さっきから妙な顔をして、

何をそんなに考え込んでいるんだ」


短い言葉。


けれど、その指摘は完全に芯を捉えていた。

ユキは少しだけ驚き、やはりこの老人は時折、

恐ろしいほどに自分のことを見抜いてくるのだと実感する。


「……少し、昔のことを思い出していたんです」


ユキが正直に答えると、老人は「ふん」と鼻を鳴らして

それ以上追及せず、再び新聞に目を戻した。


けれど、その会話にミナが猛烈に興味を示した。

ハルを胸に抱きかかえたまま、

猫耳をピンと立ててベッドの上からこちらを覗き込んでくる。


「え、昔のこと? どんなこと考えてたの、ユキ」


ユキは膝の上で自分の指先を少しだけ見つめ、そ

れから、ぽつりと静かに言葉を紡ぎ出した。


「……昔の私は。今の自分の姿なんて、

ただの一ミリも想像すらできなかったな、って」


部屋の空気が、ふっと静かになる。

老人の新聞をめくる手が止まり、ミナも、腕の中のハルも、

静かにユキの言葉に耳を傾けていた。


ユキはそのまま続けた。


「友達と呼べるような存在も、一人もいなくて」


「うん」


「人間のことも、自分のことも、全部が苦手で、嫌いで。誰とも関わらずに、

部屋で一人でいることだけが、一番楽だと思って生きていました」


それは、誇張でも何でもない、紛れもないユキの真実だった。


孤独だった。

寂しかった。

けれど、それ以上に楽だったのだ。


誰とも関わらなければ、誰の期待も裏切らないし、

誰の言葉に傷付くこともない。


そうやって自分を守ることでしか、生き延びられなかった。


ミナはハルを抱きしめたまま、少しだけ真面目な顔をして考えていた。


そして、


「……じゃあ、今は?」


と、静かに問いかけてきた。


ユキはその問いに対して、すぐに答えることができなかった。


今は。

今の自分は、一体どうなのだろう。


ユキはゆっくりと視線を動かし、窓の外を見た。


遠く広がる夏の青空。

微かに響く蝉の声。

カーテンを揺らす夕方の温かい風。


そして――再び視線を戻し、狭い部屋の中を見る。


文句を言いながらも話を聞いてくれる老人。

自分のために怒り、笑ってくれるミナ。

ただ純粋な愛着を向けてくれる、小さなハル。


それから、その中心にいる、自分自身の姿。


「今は……」


ユキは、胸の奥から湧き上がる確かな温かさを

言葉に乗せるように、静かに言った。


「……一人じゃ、ないです」


ミナが嬉しそうに、まるで自分のことのように満足そうにニカッと笑う。

老人は相変わらず新聞を読んだままで、何も言葉は返さなかった。


けれど、その頑固そうな口元が、ほんの少しだけ、

本当に微かに緩んだのをユキは見逃さなかった。


「昔の私が見たら、きっと腰を抜かすほど驚くと思います」


それは、心の底からの本音だった。

本当に、過去の自分に今の姿を見せてやりたかった。


友達と呼べる大切な存在がいること。

毎日、当たり前のように顔を合わせる家族のような人たちがいること。

一日の終わりに、笑う回数が増えたこと。

休日に、誰かと並んで街へ出かけること。

誰かの体調を本気で心配し、そして、

自分の体調を涙を流して心配してもらえること。


そのすべてが、あの窓際の席で息を潜めていた少女には、

到底想像すらできない奇跡だった。


ミナは膝の上のハルの背中を優しく撫でながら、

今度は首を少し傾げて、こう言った。


「じゃあさ。今のユキから見て……『未来の自分』は、どんな風に見える?」


ユキの身体が、微かに固まった。


未来、というその言葉を聞いた瞬間、

部屋の時間が一瞬だけ止まったかのような錯覚を覚える。


未来。


昔の自分には、真っ黒な闇にしか見えなかったその景色。

けれど今は――ほんの少しだけ、その先にある光を想像できるような気がした。


ユキは考える。


数秒、いや、数十秒の、長い沈黙。

そして、ゆっくりと息を吐き出しながら、静かに答えた。


「……分かりません」


あまりにも正直な、不器用な答えだった。

未来のことなんて、この世界の誰にも分かりはしない。


これからどんな事件が起きるのかも、

自分がどうなっていくのかも、

確実なことなんて一つもない。


だが。


「でも」と、ユキは言葉を強く繋いだ。


「……今より、ほんの少しだけ、

たくさん笑っていられたらいいな、って思います」


ミナが、優しく微笑む。

ユキは自分の想いを確かめるように、言葉を重ねていく。


「今よりも、ほんの少しだけ人と上手に話せるようになっていて」


「うん」


「今よりも、ほんの少しだけ、真っ直ぐ前を向いて歩けていて」


「うん」


「……今よりも、ほんの少しだけ、幸せなら……それでいいです」


それは、決して大きな夢ではなかった。

有名になりたいわけでも、世界を変えたいわけでも、

誰かにとっての特別な英雄になりたいわけでもない。


ただ、今この場所にある温かさを抱いたまま、

今よりほんの少しだけ、幸せを更新していけたら。


それだけで、自分の未来としては十分すぎるほど贅沢だと思った。


その時。


ソファから音もなく飛び降りたハルが、ユキの膝の上へと飛び乗ってきた。

まだ小さくて、少しだけ不器用な身体。


けれど、そこから伝わってくる毛並みの温かさは本物だった。

ハルはユキの膝の上で完全に安心しきった顔をすると、

小さな身体を丸める。

ユキがそっとその小さな頭を撫でてやると、

ハルは気持ちよさそうに目を細めた。


世界で一番幸せそうな顔だった。


その姿を見つめながら、ユキは思う。

未来なんて、誰にも分からない。


過去の自分が、今日のこの温かい日常を

これっぽっちも想像できなかったように――。


なら、これから訪れる未来の自分も、

きっと今の自分の想像を遥かに超えた場所にあるのだろう。


もちろん、良い意味で。

そんな未来だったらいいな、と素直に願えた。


窓の外では、傾きかけた夕日が、

街全体を燃えるような茜色へと染め上げ始めていた。


七月の、少しだけ重たい夏の匂いを孕んだ風が、

部屋の中を通り抜けていく。


自分は、一人の獣人だ。


昔も、今も、そしてこれから先の未来も、その事実は変わらない。

自分の中にある臆病な部分も、人見知りな性格も、

完全になくすことなんてできないだろう。


相変わらず、人間が多い昼間より、

静かな夜の方が好きなままかもしれない。


それでも。


自分は、確実に一歩ずつ前へと進んでいる。

あの頃の自分が、決して想像することすらできなかった、

こんなにも温かい場所まで。


そして、これからも。

まだ見ぬ、光の射す未来の向こう側へと、歩みを止めることはない。


ユキは静かに、赤く染まる窓の外の景色を見つめた。


茜色に染まる空。

風に揺れる木々の葉。

どこまでも続く遠い街並み。


その景色の向こう側にいるはずの、未来の自分は――今よりも、

ほんの少しだけ、綺麗な笑顔で笑っているだろうか。


もし、本当に笑っているのだとしたら。

それはきっと、今この狭い部屋で、

自分のくだらない話に耳を傾けてくれている、この大切な人たちのおかげなのだろう。


そう確信しながら、ユキは膝の上のハルを優しく撫で、

隣で笑うミナと老人の気配を感じながら、


夕日の光の中で、小さく、けれど心から優しく微笑むのだった。

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