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ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
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夜だけ静か

ユキが夜という時間を明確に好きになったのは、

一体いつからだっただろう。

その答えの境界線を、正確に覚えているわけではない。


ただ。


物心がついた時には、もう手遅れなくらい夜が好きだった。


他の誰かが眩しい昼の光を好み。

どこまでも高い青空を好み。

活気に満ちた賑やかな街を好み。

弾けるような人の笑い声が溢れる場所を好むように。


――ユキは、ひっそりとした夜を好んでいた。


静寂に支配された夜を。

人影の消え去ったアスファルトの道を。

オレンジ色の街灯だけが等間隔に照らし出す、限られた世界を。


そして何より。


この世界から、

人間の気配が少なくなっていくその時間そのものを。


七月最初の週。


ユキが例の感覚疲労による昏倒で病院に担ぎ込まれ、

無事に退院してから、早いもので三日の月日が流れていた。


倒れた直後は数日間、

老人に厳しく言い渡されて自室でしっかり休養を取り、コ

ンビニの夜勤シフトも店長に直訴して一時的に減らしてもらっていた。


その甲斐あって、肉体の重みも五感の過敏さも、

今ではかなり元通りに回復している。


それでも、周囲の人間――いや、老人やミナは、

ユキの目から見れば過剰なほどに過保護だった。


老人はアパートの廊下や階段で会うたびに、

苦虫を噛み潰したような顔で「おい、無理はするなよ」と釘を刺してくる。

ミナに至っては、一日に何度もユキの部屋の前に現れる始末だった。


昨日など、ドアを叩くなり「おーい、ユキ生きてる?」と、

生存確認をするためだけに訪ねてきた。


意味が分からなかった。

生存確認の頻度が、完全に野生動物のそれだった。


だが。


不思議と、嫌な気持ちにはならなかった。

自分以外の誰かが、自分の命を本気で心配してくれている。

そのあまりに未知の感覚に、まだ心が気恥ずかしさを覚えて上

手く慣れていないだけなのだろう、とユキは自覚していた。


その日の夜。


ユキは久しぶりに、夜の散歩へと出かけていた。

今夜はコンビニの仕事は完全に休みだった。


体力を蓄えるために、ベッドに入って泥のように眠ることもできたはずだ。

だが、部屋にこもっていると、

どうしようもなく夜の冷たい空気が恋しくなり、外へ出たくなってしまったのだ。


午後十一時。


街は、ユキの望む通りにひっそりと静まり返っていた。

昼間なら買い物客や学生が何百人も行き交っている駅前の商店街も、

今はシャッターを固く閉ざし、ほとんど人が歩いていない。


均一に閉まったグレーのシャッター。

電源の落ちた看板の物寂しい灯り。

遥か遠くの幹線道路を走り去っていく、

濡れた車の風切り音。

そして、肌を撫でる涼しい夜風。


世界に存在するのは、ただそれだけだった。


ユキはポケットに両手を突っ込み、ゆっくりと歩みを進める。

キャスケット帽を心持ち浅めに被っているせいで、

白銀色の狐耳が夜風をダイレクトに受けてパタパタと小刻みに揺れた。


細く美しい白銀の髪が、

暗闇の中でかすかな光を反射しながら、夜風へと流れていく。

昼間の大通りなら、否応なしに周囲の目を惹きつけてしまう姿だ。


だが、夜は違う。

夜という帳は、世界のすべてを少しずつ曖昧にしてくれる。


その人の形も。

街の景色も。

そして、胸の奥にこびりつく孤独の輪郭さえも。


ユキは、その夜が見せる優しい曖昧さが、

たまらなく好きだった。


静かな夜道を一歩ずつ踏みしめながら、

ユキはぽつりぽつりと、昔のことを思い出していた。


小学生の頃。


ユキは人間の子供たちと、どうしても上手く話すことができなかった。

理由は、思い返せば色々とある。


昔から感情を顔に出すのが苦手だったし、

その場の空気を読んで話を合わせることも下手くそだった。

それに加えて、決定的に「獣人」という異質な存在だった。


ただそれだけの理由で、見えない壁を作られ、

距離を置かれることも少なくなかった。


だが、辛かったのは決して悪意ばかりではない。

むしろ、子供特有の悪気のない、

純粋で残酷な好奇心の視線こそが、ユキの心を摩耗させた。


「ねえユキちゃん、その耳触っていい?」


「尻尾ってどんな感じ? 怒ったら膨らむの?」


「本当に人間の何倍も匂いが分かるの? 今、私が何食べたか当ててみてよ!」


最初は、引きつった笑顔を浮かべながらも丁寧に答えていた。

けれど、それが毎日、学校にいる間ずっと続けば、

幼い心は容易に限界を迎える。


彼らは「ユキという一人の人間」を見ているのではない。

ただ珍しい「獣人という生き物」を観察しているだけなのだ。

そう気付いた瞬間、胸の奥がひどく冷たくなったのを覚えている。


やがてユキは、誰とも話さなくなった。

なるべく教室の隅で目立たないように息を潜め、

自ら人を避けるようになった。


そして。


夜という時間だけは、

自分を裏切らないことに気付いたのだ。


夜道には、誰もいない。


ジロジロと好奇の目を向けてくる人間もいなければ、

答えに窮する質問をぶつけてくる人間もいない。

誰かと自分を比べられることも、その不器用さを笑われることもない。


だからこそ、心から安心できた。


学校で、息が詰まるような嫌なことがあった日。

夜中にそっと家を抜け出し、

一人きりで夜道を歩いたことは一度や二度ではない。


ひんやりとした夜風を全身に浴びながら、

静まり返った住宅街を歩き、

遠くの民家から漏れる小さな灯りを眺める。


そうしている時間だけは、自分が誰のものでもない、

何にも縛られない、ただの『ユキ』という存在に戻ることができたのだ。


ユキは、街の中心を流れる川に架かる

大きな橋の上で、ふと足を止めた。


欄干に両手を預け、下を見下ろす。


川はさらさらと低い音を立てて流れており、

真っ黒に澱んだ水面が、ぽつぽつと灯る街灯の光を拾って細かく、

美しく反射していた。


五感を刺激する余計なノイズのない、完璧に静かな夜。


すると。


背後の暗闇から、およそ静寂とは無縁の、

軽い足音が近づいてくる気配がした。


「あ、やっぱりここにいた!」


聞き慣れた、驚くほど屈託のない声。


ユキが驚いて振り返ると、そこには案の定、

キャミソールの上に薄手のパーカーを羽織っただけの

ラフな格好をしたミナが立っていた。


頭の上の黒い猫耳をピンと立たせ、

相変わらず世界のすべてを面白がっているような、

自由極まりない顔をしている。


「……ミナさん。こんな時間に、一体何をしてるんですか」


「ん? 散歩!」


「……私を追いかけてきたんじゃなくて、偶然ですか?」


「さあねー? たぶんそうだし、たぶん違うかも!」


たぶん、だった。


ミナの「たぶん」は、百分中九十九分が意図的な行動である。

全く信用ならなかった。


ミナは悪びれる様子もなくユキの隣へと滑り込み、

同じように欄干に肘をついて川を見下ろした。

それから数秒間、何も喋らない。


あのミナにしては珍しく、静かな沈黙だった。


やがて、ミナは川面の反射を見つめたまま、ぽつりと言った。


「ユキってさ、本当に夜が好きなんだね」


ユキは少しだけ考え、それから小さく、けれど確かに頷いた。


「……はい。好きです」


「なんで? 暗くて、ちょっと寂しくない?」


単純で、ストレートな質問。

けれど、いざ言葉にしようとすると、それは少しだけ難しかった。


ユキはもう一度、視線を川の流れへと戻す。


流れる黒い水。

遠くでまたたく微かな灯り。

髪を揺らす夜風。


それらの愛おしい要素を一つずつ確かめるようにして、

静かに口を開いた。


「……静かだから、です」


ミナは何も言わず、耳をこちらに傾けている。

ユキは続けた。


「昼間は……色々と言葉や音が、聞こえすぎるんです。私の耳には」


「耳、やっぱりそんなに敏感なの?」


「はい」


ユキは自嘲気味に微笑む。


「車のエンジン音、歩く人の話し声、遠くの工事の音、

店内のけたたましい放送に、BGM……

普通の人間にはノイズとして消せる音が、全部、

ダイレクトに頭の中に突き刺さってくるんです。ずっと」


「それ……すっごく疲れそうだね」


「疲れます。ものすごく。だから、

昼間は外にいるだけで体力を削られるんです」


ユキはそこで一度言葉を区切り、夜空を見上げた。


「でも、夜は楽なんです。音が圧倒的に少ない。

匂いも、人も、すべてが昼間の百分の一くらいになる。

だから、ようやく息ができる気がするんです。安心するから」


ミナはしばらくの間、自分の長い尻尾をパタパタと揺らしながら、

ユキの言葉を咀嚼するように考えていた。


そして。


不意にいたずらっぽく笑うと、「へえ。私は、真逆かな」と言った。

ユキは少しだけ驚き、彼女の横顔を見る。


「……真逆、ですか?」


「うん」


ミナは笑いながら、雲の隙間から少しだけ顔を覗かせている、

歪な形の月を指差した。


「私も夜は静かで好きだけど、それと同じくらい、昼間も大好きなんだよね」


実に、どこまでもポジティブなミナらしい答えだった。


「……理由は、なんですか?」


ユキが尋ねると、ミナはやはり、一秒の躊躇もなく即答した。


「だって、人がたくさんいるから!」


正反対だった。


徹底的なまでに、自分とは逆の価値観。

ユキは思わず、ぽかんと目を丸くしてしまった。


「知らない人たちがさ、楽しそうに歩いてたり、怒ってたり、

買い物してたりするのを見るのが、私はすっごく好きなんだよね。

あ、あの人これからデートかな、とか想像するだけでワクワクするじゃん」


「……変わってますね、ミナさんは」


「えー! 毎日夜中に一人で徘徊してる

ユキにだけは言われたくないなー!」


ひどい言い様だった。


けれど、その遠慮のない言葉が可笑しくて、

二人は同時にクスクスと声を上げて笑ってしまった。


夜風が、橋の上を遮るものなく静かに通り抜けていき、

二人の耳を心地よく揺らしていく。


それから、二人はどちらからともなく並んで歩き始めた。

暗い住宅街を抜け、昼間の余韻を残す公園を横目に、

ぽつんと光るコンビニの横を通り過ぎる。


夜の街を、ただ足の向くままに。


その途中で、前を歩いていたミナが、

振り返ることもなく唐突に呟いた。


「でもさ、ユキ」


「何ですか、ミナさん」


「今のユキってさ、昔ほど『夜に逃げてない』よね」


ユキの足が、ピタッと止まった。

心臓を直接指先で弾かれたような、そんな小さな衝撃が走る。


ミナは前を向いたまま、軽いトーンで言葉を重ねる。


「だってさ、この前倒れた時もそうだけど、昔の話を聞いてると、

ユキにとっての夜って『そこしか安心できる場所がない隠れ家』だったわけでしょ?」


「……」


「昼間の世界が怖くて、嫌いだから、夜に逃げ込んで引きこもってた感じ」


図星、どころの騒ぎではなかった。

自分の過去の、一番柔らかい根源の部分を、

ミナは驚くほど正確に見抜いていた。


言葉が出ないユキの前で、ミナはくるりと身体を反転させ、

夜風に黒い猫耳を揺らしながら、優しく、本当に優しく微笑んだ。


「でも、今のユキは違うよ。昼間だって、ちゃんと笑ってるもん」


「っ……」


ユキはその言葉に、少しだけ目を見開いた。


頭の中で、ここ最近の記憶が走馬灯のように駆け巡る。

隣の老人の部屋で、ハルの無邪気な姿に呆れたあの瞬間。

コンビニのレジで、常連客と何気ない会話を交わした瞬間。


そして、目の前でバカみたいに笑うミナに付き合わされて、

クレープや置物を眺めていた、あの眩しい昼下がりのこと。


――確かに、自分は笑っていた。


あんなに大嫌いだったはずの、ノイズだらけの昼間の世界で。

誰かと一緒に並んで歩きながら、

ごく普通に、自然に、お腹の底から笑っていたのだ。


自分では全く気付いていなかった。

いや、本当は気付いていたのかもしれない。


ただ、そんな風に自分が変わっていくことを、

どこかで認めるのが怖くて、目を逸らしていただけで。


二人はやがて、見慣れた古びたアパートへと戻ってきた。

時刻は午前一時を回ったところ。


世界が一番深く静まり返る時間帯だ。


二人が一階の廊下を静かに歩き、

老人の部屋の前を通りかかろうとした、その時だった。


ガタタンッ!! ドタンッ!!!


静寂を切り裂くように、

中から何かが派手にひっくり返るような物音が響いた。


続いて――。


「こらあぁぁ! 馬鹿猫っ、そこに乗るなと言っとるだろうが!」


老人の、夜中とは思えないほど元気な怒鳴り声。


そして、


「みゃーーーう!!」


それに負けじと応戦する、ハルの甲高い鳴き声。


ユキとミナは、完全に不意を突かれてその場で同時に顔を見合わせ、

次の瞬間、同時にぶふっと吹き出してしまった。


「あはは、ハルちゃんまた何か落としたね、絶対!」


「本当に……あのじいさんも、

夜中なんですから少しは静かにすればいいのに」


夜だけは、静かで、自分を脅かすものは何もない。

昔のユキにとって、夜はそういう「逃げ場所」としての絶対的な聖域だった。


けれど、今は違う。


夜という時間が好きなのは、今でも変わらない。

静かで、落ち着いていて、一番自分らしくいられるから。


けれど。


今のユキは、あのノイズだらけだったはずの「昼の時間」も、

ほんの少しだけ、好きになっていた。


誰かと一緒に笑い合える、温かい時間ができたから。

夜が明けたその先にも、自分の帰りを待ってくれる場所ができたから。


そして何より。


「ユキ」と、自分の名前を愛おしそうに呼んでくれる人たちが、そこにいるから。


ユキはアパートの階段の途中で足を止め、ふと夜空を見上げた。


分厚い梅雨の雲の隙間から、ほんの少しだけ、

けれど確かに丸い月が、優しい光を街へと投げかけている。


それは、どこか今の自分に、とてもよく似ているような気がした。

頑なだった心の雲が少しだけ晴れて、昔よりもほんの少しだけ、

明るい光を灯せるようになった、今の自分に。


隣で「ユキ、早く行こ?」と急かすミナの声を心地よく聞きながら、

ユキは月光に照らされたその表情に、静かな、

けれど確かな微笑みを浮かべるのだった。

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