人間の匂い
七月が始まろうとしていた。
梅雨前線は相変わらず街の上空に居座り続け、
明ける気配は一向に見せない。
空には分厚い灰色の雲がどこまでも広がり、
太陽は何日もその姿を隠したままだった。
街全体が目に見えない湿気をたっぷりと抱え込み、
じっとりと重たく沈み込んでいるような、
そんな鬱屈とした日々が延々と続いていた。
その日の夜も、外は雨だった。
窓を優しく叩く、静かな雨。
強く叩きつけるわけでもなく、かと言って霧のように煙るわけでもない。
ただ一定の、どこか単調で寂しげなリズムを刻みながら、
夜の街を静かに濡らし続ける雨だった。
ユキはいつものように、
コンビニのレジカウンターに立って夜勤のシフトをこなしていた。
午後十一時四十分。
深夜直前の店内は、比較的落ち着いていた。
耳に馴染んだ冷蔵棚の低い駆動音。
新商品を宣伝するレジ横の広告モニターの淡い光。
時折、チリーンと気の抜けた音を立てて開く自動ドア。
どれも、数え切れないほど繰り返されてきた聞き慣れた音ばかりだった。
だが。
その夜のユキは、いつもと決定的に違っていた。
――体調が、良くない。
額に手を当ててみても、燃えるような熱があるわけではなかった。
ズキズキとした頭痛があるわけでもない。
それなのに、鉛でも埋め込まれたかのように身体が妙に重く、
手足の先が自分のものじゃないように冷たく感じられた。
ここ最近、滅多にない休日でさえ、
まともに身体を休められていなかった。
理由は、自分でもよく分かっている。
ハル、ミナ、そして老人の存在。
彼らと過ごす毎日は少しずつ賑やかになり、孤独だった生活に、
心から楽しいと思える瞬間が爆発的に増えた。
しかしその反面、夜勤明けの不規則な
生活の合間を縫って動き回っていたせいで、
自分でも気付かないうちに、
肉体の限界を超えた疲れが澱のように溜まっていたらしい。
ユキは棚の缶飲料を整理しながら、小さく息を吐いた。
耳が、少し重い。
普通の人間からすれば、奇妙極まりない表現だろう。
だが、獣人にとって頭の上の耳は、
単なる記号ではなく繊細な身体の一部だ。
過労やストレスが蓄積すれば、
その影響は真っ先に耳の不調として現れる。
自覚している以上に、集中力が砂のように指の隙間から溢れ、
鈍っていくのが分かった。
深夜一時。
自動ドアが開き、客がぽつりぽつりと入ってくる。
残業終わりの会社員。
深夜徘徊の学生。
シフトの合間に寄ったタクシーの運転手。
いつも通りの、何の変哲もない深夜の光景だ。
しかし。
ユキはレジに入った瞬間、ある強烈な異変に気付いた。
――匂いだ。
強烈な、人間の匂い。
普段なら、気にも留めないはずのものだった。
いや、正確には気付いてはいるのだ。
獣人の嗅覚は鋭い。
けれど、脳がそれを自動的に「背景のノイズ」として処理し、
意識の表層に上げないようにしている。
それが社会で生きるための普通の防衛本能だった。
しかし今夜は、そのフィルターが完全に壊れてしまっていた。
すれ違う客の衣服から放たれる、きつい香水。
じっとりとした汗の拒絶反応。
安価なシャンプーや整髪料の人口的な香り。
染み付いたタバコのヤニ。
直前に食べたであろうジャンクフードの油の匂い。
ありとあらゆる人間の生活臭が、
まるで濁流のように一気にユキの鼻腔へと押し寄せてくる。
それは、耳元で何十人もの人間に同時に
大声を張り上げられているかのような、暴力的なまでの感覚だった。
ユキはたまらず、レジの下で眉をきつくひそめた。
おかしい。
少し、いや……かなり、おかしい。
極度の疲労に陥った時、獣人の感覚器官は時にコントロールを失い、
異常なほど過敏になることがある。
昔からそうだった。
耳も、鼻も、人間より遥かに高性能である分、
ひとたび歯車が狂えば、
それは己の脳を破壊しかねない凶器となって襲いかかってくる。
深夜二時。
ユキの状態は、さらに悪化の一途をたどっていた。
一人の客が入ってくるたびに、強烈な匂いの塊が脳を殴りつける。
彼らが去る前にまた別の客が入り、さらに異なる匂いが混ざり合う。
処理能力を超えた情報量が脳内に溢れかえり、
激しい拒絶反応を起こしていた。
それは、人間にとっての精神を狂わせる騒音に近かった。
何十人もの人間が、耳元で同時に脈絡のない言葉を喚き散らしているような、
恐ろしい感覚。
ユキは、震える手でレジ台をぎゅっと掴み、辛うじて身体を支えた。
少しだけ。
ほんの五分だけでいいから、匂いのない場所で横になりたかった。
その時だった。
「……ちょっと、店員さん。大丈夫?」
目の前からの声。
顔を上げると、常連の女性客が、怪訝そうな顔でユキを見つめていた。
ユキは青ざめた顔のまま、ひきつった笑みを無理やり顔に張り付けた。
「あ……は、はい。大丈夫、です。お会計、お預かりします……」
嘘だった。
大丈夫なわけがない。
だが、今は仕事中だ。
自分がレジを離れれば店が回らなくなる。
簡単には休めない。
女性客は、今にも消え入りそうなユキの様子を不審そうに、
そして少し心配そうに見つめていたが、それ以上は何も言わず、
商品を引ったくるようにして帰っていった。
ユキは小さく息を吐く。
その拍子に、視界がぐにゃりと大きく揺れた。
深夜三時。
ついに、限界の壁が目の前に迫っていた。
匂い。
匂い。
どこを向いても、人間の匂い。
五感が悲鳴を上げ、脳がオーバーヒートを起こしている。
耳はキーンと高い耳鳴りを立てて立ち上がることすら拒み、
頭は万力で締め付けられるように重い。
レジの液晶画面に表示されている数字を読み取るだけで、
信じられないほどの時間がかかってしまう。
その時だった。
チリーン、と自動ドアが開いた。
入ってきたのは、十代後半くらいの少年たちの三人組だった。
何が楽しいのか、大きな声でゲラゲラと笑いながら店内に雪崩れ込んでくる。
普段の健康な状態なら、少し騒がしい客、
というだけでスルーできただろう。
だが、今のユキにとって、それは決定打だった。
彼らが近づくにつれ、若者特有の強い汗と安っぽい香水、
そして手にした炭酸飲料の匂いが、濁流となって一気に入ってくる。
頭が激しくくらんだ。
視界が急速にセピア色に染まり、
天地が分からなくなる。
肺が空気を吸い込むことを拒否し、呼吸が浅く、細くなっていく。
(あ……これ、危ない……っ)
そう思った瞬間には、すでに身体の制御が利かなくなっていた。
レジ台に手をついて支えようとしたものの、指先には一切の力が入らない。
世界が急激に傾き、意識が急速に、深い闇の底へと遠ざかっていく。
完全に光が消え去る直前、ユキの視界の隅に映ったのは
――それまでの笑顔を消し、驚愕の表情でこちらに駆け寄ろうとする、
慌てふためいた客たちの姿だけだった。
次に目を覚ました時。
ユキの視界に飛び込んできたのは、
見慣れない、真っ白な天井だった。
等間隔に並んだ無機質な蛍光灯の光が、少しだけ目に眩しい。
鼻をくすぐるのは、アパートの雨の匂いでも、
コンビニの淹れたてコーヒーの匂いでもない、
鼻を突く特有の薬品の匂い。
――病院だ、と理解するのに、数十秒の時間を要した。
ユキはまだ上手く動かない頭をベッドの上で少しずつ働かせ、
断片的な記憶を繋ぎ合わせていく。
コンビニの夜勤。
あの耐え難い人間の匂い。
激しい眩暈。
そして、レジの向こう側へ倒れ込んだ、あの瞬間のこと。
「……チッ、ようやく起きたか」
静まり返った室内に、聞き慣れた、ひどくぶっきらぼうな声が響いた。
ユキがゆっくりと首を横に向けると、
ベッドの脇のパイプ椅子に、隣の老人が座っていた。
いつも通りの不機嫌そうな顔で腕を組み、
深く椅子にもたれかかっている。
相変わらず愛想のない、頑固なじいさんの姿そのものだった。
だが。
獣人の嗅覚は、彼の表面上の態度とは裏腹に、
その身体から発せられる微かな「焦燥と安堵」の匂いを正確に捉えていた。
彼は、本気で、気が気じゃないほど
ユキのことを心配してくれていたのだ。
ユキは胸の奥がキュッと締め付けられるような
申し訳なさに襲われ、掠れた声を出した。
「……じいさん。すみません、迷惑をかけて……」
老人は大きく、大袈裟なため息を吐き出した。
「馬鹿野郎。目が覚めて開口一番に謝る奴があるか。
大人しく寝てろ」
短い、突き放すような言葉。
けれど、そこには不器用な優しさがこれでもかと詰まっていた。
その時、病室の木製の扉が、
大きな音を立てて勢いよく撥ね開けられた。
「ユキっ!? 起きたのっ!?」
ミナだった。
完全に、いつも通りの遠慮のなさだった。
頭の上の黒い猫耳を激しく左右に揺らしながら、
彼女は文字通り病室へと飛び込んできた。
どこからか全力で走ってきたらしく、
肩が大きく上下し、前髪が額に張り付いている。
そして、ベッドの上のユキと目が合った瞬間――。
「よかったあぁぁぁ……っ!」
今にも大粒の涙をボロボロとこぼしそうな、
今までに見たこともないような顔をして、ベッドの縁にしがみついてきた。
ユキは思わず目を丸くした。
出会って以来、ミナという存在はいつだって自由で、
お気楽で、人生の楽しい部分だけを掬い取って生きているような、
そんな風のような人だったからだ。
その彼女が、今、自分のために形振り構わず泣きそうな顔をしている。
「……ミナさん。大丈夫ですよ、私はこの通り……」
「全然大丈夫じゃないよっ! コンビニで倒れて救急車で運ばれたって聞いて、
私、本当に、心臓が止まるかと思ったんだからねっ!」
即座に、烈火の如き勢いで否定された。
静かな病室に、ミナの震える声が響き渡る。
老人が「おい、ここは病院だぞ。少しは声を落とせ」
と辛そうにこめかみを押さえているが、
ミナの耳には届いていないようだった。
彼女は本当に、心の底から、
ユキの身に何かあったのではないかと恐怖していたのだ。
ユキは、向けられたあまりにも巨大で真っ直ぐな心配の情に、
どう言葉を返していいのか分からず、少しだけ困惑してしまった。
その時だった。
ベッドの足元の方から、ひどく小さな、
聞き覚えのある鳴き声が鼓膜を震わせた。
「……にゃあ」
ユキの身体が、ピクリと固まった。
視線を下げると、病室の隅の床に、
プラスチック製のキャリーケースが置かれていた。
そしてその格子の隙間から、灰色の小さな小さな鼻先が覗いている。
「……ハル? じいさん、なんでハルがここにいるんですか?」
「こいつが勝手に連れてきたんだ。置いていこうとしたら、
アパート中に響く声で鳴き喚きやがってな」
老人がミナを顎で指す。
ミナは涙目を拭いながら、えっへんと胸を張った。
「だって、ハルちゃんもユキが急にいなくなって、
すっごく寂しそうだったんだもん。連れてきて正解でしょ?」
理由に全くなっていない。
本来なら、動物を病室に連れ込むなど言語道断のルール違反だ
(おそらく老人が病院側に平謝りして、
一時的にケースから出さない条件で許可を貰ったのだろう)。
だが、キャリーケースの中のハルは、ユキと目が合った瞬間、
嬉しそうに「みゃう! みゃう!」と激しく鳴き始めた。
ケースの壁に小さな身体を擦り付け、灰色の耳をパタパタと動かし、
短い尻尾をちぎれんばかりに振っている。
ただひたすらに、大好きなユキに会いたかったのだ。
そのハルの無邪気な姿を見つめていると、
ユキの胸の奥の冷え切っていた場所に、
じわりと温かい灯火が灯るような感覚がした。
その後、巡回にやってきた医師の話によると、
幸いにも命に関わるような重篤な病気ではなかった。
診断名は、極度の過労、および睡眠不足。
そしてそれに伴う『感覚疲労』。
過度なストレスによって脳のフィルター機能が低下し、
周囲の情報を取り込みすぎてしまう、獣人特有の急性症状らしい。
数日間、匂いや音のない静かな環境で心身を休めれば、
元通りに回復するとのことだった。
大事には至らなかった。
それは、本当に不幸中の幸いだったと言える。
だが、ユキはベッドの上で静かに横たわりながら、初めて自覚していた。
自分自身が思っていた以上に、
自分の身体はボロボロに疲弊していたということ。
そして――自分が思っていた以上に、自分のことを、自分の命を、
本気で心配して、取り乱してくれる人たちが、この世界にいるということ。
夕方。
病室の縦長の窓の向こうには、
相変わらず鈍色の雨雲から、静かな雨が降り続いていた。
強くもなく、弱くもない、街を優しく包み込むような雨。
病室内は、驚くほど穏やかな空気に満ちていた。
老人はパイプ椅子に腰掛け、老眼鏡を鼻に引っ掛けながら、
ガサガサと静かに新聞をめくっている。
ミナはベッドの足元で、特別にケースから出すことを許されたハルを膝の上にのせ、
その灰色の毛並みを愛おしそうに何度も何度も撫でていた。
ハルはすっかり安心したのか、ミナの体温に包まれながら、
小さな寝息を立てて眠っている。
その、あまりにも平和で、温かい光景を見つめながら、
ユキは過去の自分を思い出していた。
昔の自分なら。
もし同じように倒れたとしても、誰にも言わなかっただろう。
誰にも知られたくなかったし、誰からも心配なんてされたくなかった。
他人に迷惑をかけるくらいなら、自分の存在を消してしまいたかった。
冷たいアパートの床の上で、たった一人で息を潜め、
嵐が過ぎ去るのをじっと耐え忍んでいただろう。
だが、今は違う。
ぶっきらぼうだけど誰より周囲を見ている老人がいる。
自由奔放で、自分のために泣いてくれるミナがいる。
ただ純粋に、自分を求めて鳴いてくれるハルがいる。
彼らは皆、ユキが「可哀想な獣人だから」看病しているわけではない。
『ユキ』という、代わりの利かない一人の少女のことが大切だからこそ、
こうして同じ部屋で、彼女の回復を静かに待ってくれているのだ。
そう思うだけで、張り詰めていた心が信じられないほど軽く、
穏やかになっていく。
窓の外では、雨がただ静かに降り続いている。
ユキの脳を狂わせた、
あの不快な人間の匂いはもうどこにもしない。
ただ、病院特有の張り詰めた静けさと、身内が放つ、
懐かしくて優しい匂いだけが部屋を優しく満たしていた。
こんな風に、何の義務感も、罪悪感も抱かずに、
ただ眠ることだけを許されたのは、一体いつ以来だろうか。
ユキはゆっくりと、重くなった瞼を閉じた。
肉体の疲れはまだ厳然として残っている。
けれど、心の中にあったあの冷たい澱は、
綺麗さっぱりと洗い流されていた。
優しく響く雨音は、どこまでも心地よく彼女の意識を包み込んでいく。
その温かな音の抱擁に身を委ねながら、ユキは引き込まれるように、
深く、穏やかな眠りの底へと落ちていった。




